ルーカス・フィル「ム」→「む」せいえいが(無声映画)
※村木与四郎のはずだけれど、事情があって変更。
音声、色彩を「獲得」する。
モンタージュを「開発」する。
特撮技術が「進化」する。
CG技術を「導入」する。
デジタル化への「移行」が加速する。
映画「技術」史において「最大の」エポックメイキングとは、おそらくモンタージュ理論の「発見」・・・なのではないかと個人的には思うけれど、
映画が現実を映す鏡と捉えた場合、その定義を補強したのは音声と色彩だった、、、のかもしれない。
部分的にトーキー化された映画はいくつかあったものの、
全編に音声をつけたトーキーの第一号は、27年の『ジャス・シンガー』だった。
「お初」について“のみ”言及されるという、ある意味では不幸な映画で、じつは物語そのものもよく出来ている、、、と思うのだが。
それ以前はサイレント(無声映画)がふつうで、本年度のオスカー受賞作『アーティスト』(2011)によって、このころの映画が再評価というか、再び注目を受けている。
確かに「至れり尽くせり」な過剰演出―でも、決して批判ではない―に慣れてしまった現代の観客からすれば、えらく新鮮に映る。
ただ日本にかぎっていえば、『アーティスト』は興行的な面で成功したとはいい難い入りだった。
初日、5日目、10日目と劇場を覗いてみたけれど、だいたい3割程度の入り。
オスカー受賞作がこれでは、あまりにも寂しい。
年齢層も高めで、自分より下の世代がほとんど居ない。
若いひとが新しいものに触れるというよりか、年配のひとが当時を懐かしんでいるようにも見える・・・というのが、まぁそれでもいいのだけれど、若い監督の映画なのだから、ちょっともったいないなぁと思った。
74年生まれの自分は、もちろん無声映画の時代を生きていない。
いないけれど、映画祭の企画や野心的な監督(メル・ブルックス!!)の実験映画によって、いくつかの無声上映? に触れることが出来た。
そのなかで最も鮮烈だったのが、ソ連制作、映画史的にとても重要とされる作品『戦艦ポチョムキン』(25)である。(トップ画像のポスターが、「異常なほどに」格好いい)
調布市の映画祭の特別企画で、この名作が生オーケストラの演奏つきで上映されたのだ。
モンタージュの生みの親とされるセルゲイ・エイゼンシュテインの代表作であり、勉強のために繰り返しビデオ鑑賞をしていた―はずなのに、オーケストラの効果もあって、まったくのベツモノを観ているようだった。
こういう企画はどんどんやるべきだが、このときもやっぱり、劇場を埋めたのは年配のひとだった。
ほんとうは若いひとが「浴びるべき」なのだけれど、なかなかそういうわけにはいかないのか。
しかしフリッツ・ラングの『メトロポリス』(27)特別上映時は、どういうわけか若者がいっぱい居た。
SFというジャンル、
しかも音声監修がジョルジオ・モロダーという「ディスコ・サウンド」の先駆者だったから、、、なのかもしれない。
現在―劇場で触れる機会は稀ではあるものの、
チャップリンや小津映画のファンであれば、初期作品はすべて無声映画なのだから、DVD鑑賞で「その味わい深さ」を堪能した若い映画好きも居ることだろう。
お薦めは小津の『生まれてはみたけれど』(32)だが、
爆音映画祭があって『アーティスト』もあって、
個人的な好みをいえば「ひたすら、くっちゃべっている」スコセッシ映画のような饒舌系、あるいは女優が「あんあん喘ぐ」絶叫系が大好きではあるものの、
この幅広さが持続しているかぎり、映画は死なないんだ―と、なんだか前向きになれる? のであった。
※メトロポリスの予告編
次回のしりとりは、むせいえい「が」→「が」ーるずむーびー、へとつづく。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(4)』
※村木与四郎のはずだけれど、事情があって変更。
音声、色彩を「獲得」する。
モンタージュを「開発」する。
特撮技術が「進化」する。
CG技術を「導入」する。
デジタル化への「移行」が加速する。
映画「技術」史において「最大の」エポックメイキングとは、おそらくモンタージュ理論の「発見」・・・なのではないかと個人的には思うけれど、
映画が現実を映す鏡と捉えた場合、その定義を補強したのは音声と色彩だった、、、のかもしれない。
部分的にトーキー化された映画はいくつかあったものの、
全編に音声をつけたトーキーの第一号は、27年の『ジャス・シンガー』だった。
「お初」について“のみ”言及されるという、ある意味では不幸な映画で、じつは物語そのものもよく出来ている、、、と思うのだが。
それ以前はサイレント(無声映画)がふつうで、本年度のオスカー受賞作『アーティスト』(2011)によって、このころの映画が再評価というか、再び注目を受けている。
確かに「至れり尽くせり」な過剰演出―でも、決して批判ではない―に慣れてしまった現代の観客からすれば、えらく新鮮に映る。
ただ日本にかぎっていえば、『アーティスト』は興行的な面で成功したとはいい難い入りだった。
初日、5日目、10日目と劇場を覗いてみたけれど、だいたい3割程度の入り。
オスカー受賞作がこれでは、あまりにも寂しい。
年齢層も高めで、自分より下の世代がほとんど居ない。
若いひとが新しいものに触れるというよりか、年配のひとが当時を懐かしんでいるようにも見える・・・というのが、まぁそれでもいいのだけれど、若い監督の映画なのだから、ちょっともったいないなぁと思った。
74年生まれの自分は、もちろん無声映画の時代を生きていない。
いないけれど、映画祭の企画や野心的な監督(メル・ブルックス!!)の実験映画によって、いくつかの無声上映? に触れることが出来た。
そのなかで最も鮮烈だったのが、ソ連制作、映画史的にとても重要とされる作品『戦艦ポチョムキン』(25)である。(トップ画像のポスターが、「異常なほどに」格好いい)
調布市の映画祭の特別企画で、この名作が生オーケストラの演奏つきで上映されたのだ。
モンタージュの生みの親とされるセルゲイ・エイゼンシュテインの代表作であり、勉強のために繰り返しビデオ鑑賞をしていた―はずなのに、オーケストラの効果もあって、まったくのベツモノを観ているようだった。
こういう企画はどんどんやるべきだが、このときもやっぱり、劇場を埋めたのは年配のひとだった。
ほんとうは若いひとが「浴びるべき」なのだけれど、なかなかそういうわけにはいかないのか。
しかしフリッツ・ラングの『メトロポリス』(27)特別上映時は、どういうわけか若者がいっぱい居た。
SFというジャンル、
しかも音声監修がジョルジオ・モロダーという「ディスコ・サウンド」の先駆者だったから、、、なのかもしれない。
現在―劇場で触れる機会は稀ではあるものの、
チャップリンや小津映画のファンであれば、初期作品はすべて無声映画なのだから、DVD鑑賞で「その味わい深さ」を堪能した若い映画好きも居ることだろう。
お薦めは小津の『生まれてはみたけれど』(32)だが、
爆音映画祭があって『アーティスト』もあって、
個人的な好みをいえば「ひたすら、くっちゃべっている」スコセッシ映画のような饒舌系、あるいは女優が「あんあん喘ぐ」絶叫系が大好きではあるものの、
この幅広さが持続しているかぎり、映画は死なないんだ―と、なんだか前向きになれる? のであった。
※メトロポリスの予告編
次回のしりとりは、むせいえい「が」→「が」ーるずむーびー、へとつづく。
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(4)』