「モノカキでしょ!?」
「モノカキなのに!?」
最近ではないが、デート時、女子にそんな風に突っ込まれたことが複数回ある。
会話のやりとりのなかで、うまくいい返せなかったり、気の利いた台詞を発することが出来なかったときにいわれたんだ。
そのときは(多少)落ち込んだものだが、よく考えてみたら、だからこそのモノカキなんじゃねぇかと。
文字にするのは得意でも、口から発するのは得意とはかぎらない。
かぎらない・・・つーか、大抵は苦手なんじゃないか。
そっちも得意だったら噺家になるっていうね。
一昨日のオスカー授賞式。
脚本・脚色賞のプレゼンターは敬愛するデ・ニーロと、ペネロペ・クルスだった。
デ・ニーロ曰く「脚本家の日常はタイヘンだ。ひどく不機嫌で自意識過剰、カフェインを多量に取り込み、アアデモナイコウデモナイと1日中ブツブツいっている。そしてこれが、特別悪い状態でもない日なのに、こんな状況なんだ」
クルスがフォローのように「でも、そういう日々のなかで、最高の脚本が生まれる」といってくれたけれど、
モノカキの日常というのは、そんなもの。
タイヘンを並び替えればヘンタイになるわけでね、やっぱりおかしいんだよ。クレイジーなんだよ。どうかしているんだよ。
どうかしているからか、モノカキを主人公にした映画は多い。
魅力的なキャラクターも居るには居るが、以下に挙げたキャラクターは(たぶん)ふたりを除き、なんらかの精神的な病を患った厄介な連中である。
隣人だとしたら迷惑、本人だとしたら絶望的になる。
になるのに、それでもモノカキを目指し、名乗りたいヤツはいっぱい居る。
なんでだろうね。
まことに不思議な職業だなぁ、、、と、モノカキ業の底辺で生きる自分は思うのであった。
(1)『バートン・フィンク』(91)
誇大妄想。
新作が書けないからと、存在しない「隣人」による殺人事件を頭のなかで創りあげちゃったりする。
(2)『ゾディアック』(2007)
殺人鬼に取り憑かれたモノカキは、妻の存在さえ忘れてしまう。
『セブン』(95)で評価を受けるフィンチャーだが、自分はこっちのほうが好き。大好き。
(3)『恋に落ちたシェイクスピア』(98)
10人のなかで、いちばんマトモなモノカキ。
でもやっぱり、ちょっとした妄想家。
(4)『裸のランチ』(91)
完全に頭がショートしている、社会不適合者。
タイプライターが生物のように見えるのは、単に彼がジャンキーだからだ。
(5)『ザ・プレイヤー』(92)
波に乗るプロデューサーの足を引っ張る、、、というか、脅迫する名もなき脚本家。
ほんとうにハリウッドで起こっていそうなエピソードなだけに、ひじょうに恐ろしい。
(6)『ルビー・スパークス』(2012)
新作から1本。
スランプに陥った作家が夢のなかに登場した女子を主人公に新作を書くと、その女子ルビーが実際に出現し…という物語。
ここまでの話は誰でも思いつくが、このあとの展開が見事で、共同監督したジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファリスは間違いなく天才で、そうしてやっぱり、明らかに気が触れている。
(7)『シャイニング』(80)
モノカキ=狂人という記号が一般化したのは、この映画によるところが大きい。
あらためてキューブリックは、罪深い男だなと。
(8)『RAMPO』(94)
日本映画から1本。
作品はどうしようもない出来だが、裏主人公・乱歩を登場させたラストだけは巧いと思った。
そして乱歩がヘンタイであるということは、イマサラいうことでもない事実であったわけだし。
(9)『第三の男』(49)
物語の案内役としての、モノカキ。
ジョセフ・コットンは名演技だが、頑張って演じても見せ場は全部オーソン・ウェルズとアリタ・ヴァリが持っていくという、じつは損な役回りである。
(10)『ミザリー』(90)
こちらは受動型のモノカキ。
本人はマトモだったが、ファンのほうがマトモではなかったという意味で、ひじょうに可哀想。
※未だ真相が分からぬ連続殺人事件「ゾディアック」。自分が死ぬ前に、すべてが明らかになってほしいなぁ。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『怒れる牡牛の物語』
「モノカキなのに!?」
最近ではないが、デート時、女子にそんな風に突っ込まれたことが複数回ある。
会話のやりとりのなかで、うまくいい返せなかったり、気の利いた台詞を発することが出来なかったときにいわれたんだ。
そのときは(多少)落ち込んだものだが、よく考えてみたら、だからこそのモノカキなんじゃねぇかと。
文字にするのは得意でも、口から発するのは得意とはかぎらない。
かぎらない・・・つーか、大抵は苦手なんじゃないか。
そっちも得意だったら噺家になるっていうね。
一昨日のオスカー授賞式。
脚本・脚色賞のプレゼンターは敬愛するデ・ニーロと、ペネロペ・クルスだった。
デ・ニーロ曰く「脚本家の日常はタイヘンだ。ひどく不機嫌で自意識過剰、カフェインを多量に取り込み、アアデモナイコウデモナイと1日中ブツブツいっている。そしてこれが、特別悪い状態でもない日なのに、こんな状況なんだ」
クルスがフォローのように「でも、そういう日々のなかで、最高の脚本が生まれる」といってくれたけれど、
モノカキの日常というのは、そんなもの。
タイヘンを並び替えればヘンタイになるわけでね、やっぱりおかしいんだよ。クレイジーなんだよ。どうかしているんだよ。
どうかしているからか、モノカキを主人公にした映画は多い。
魅力的なキャラクターも居るには居るが、以下に挙げたキャラクターは(たぶん)ふたりを除き、なんらかの精神的な病を患った厄介な連中である。
隣人だとしたら迷惑、本人だとしたら絶望的になる。
になるのに、それでもモノカキを目指し、名乗りたいヤツはいっぱい居る。
なんでだろうね。
まことに不思議な職業だなぁ、、、と、モノカキ業の底辺で生きる自分は思うのであった。
(1)『バートン・フィンク』(91)
誇大妄想。
新作が書けないからと、存在しない「隣人」による殺人事件を頭のなかで創りあげちゃったりする。
(2)『ゾディアック』(2007)
殺人鬼に取り憑かれたモノカキは、妻の存在さえ忘れてしまう。
『セブン』(95)で評価を受けるフィンチャーだが、自分はこっちのほうが好き。大好き。
(3)『恋に落ちたシェイクスピア』(98)
10人のなかで、いちばんマトモなモノカキ。
でもやっぱり、ちょっとした妄想家。
(4)『裸のランチ』(91)
完全に頭がショートしている、社会不適合者。
タイプライターが生物のように見えるのは、単に彼がジャンキーだからだ。
(5)『ザ・プレイヤー』(92)
波に乗るプロデューサーの足を引っ張る、、、というか、脅迫する名もなき脚本家。
ほんとうにハリウッドで起こっていそうなエピソードなだけに、ひじょうに恐ろしい。
(6)『ルビー・スパークス』(2012)
新作から1本。
スランプに陥った作家が夢のなかに登場した女子を主人公に新作を書くと、その女子ルビーが実際に出現し…という物語。
ここまでの話は誰でも思いつくが、このあとの展開が見事で、共同監督したジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファリスは間違いなく天才で、そうしてやっぱり、明らかに気が触れている。
(7)『シャイニング』(80)
モノカキ=狂人という記号が一般化したのは、この映画によるところが大きい。
あらためてキューブリックは、罪深い男だなと。
(8)『RAMPO』(94)
日本映画から1本。
作品はどうしようもない出来だが、裏主人公・乱歩を登場させたラストだけは巧いと思った。
そして乱歩がヘンタイであるということは、イマサラいうことでもない事実であったわけだし。
(9)『第三の男』(49)
物語の案内役としての、モノカキ。
ジョセフ・コットンは名演技だが、頑張って演じても見せ場は全部オーソン・ウェルズとアリタ・ヴァリが持っていくという、じつは損な役回りである。
(10)『ミザリー』(90)
こちらは受動型のモノカキ。
本人はマトモだったが、ファンのほうがマトモではなかったという意味で、ひじょうに可哀想。
※未だ真相が分からぬ連続殺人事件「ゾディアック」。自分が死ぬ前に、すべてが明らかになってほしいなぁ。
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