Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

トラビスのEQ

2012-10-16 00:15:00 | コラム
「いま思い出した、クリス・クリストファーソンの曲で『The Pilgrim、chapter33』というのがあって、歌詞はこう、“あいつはヤクの売人、現実と作り話が半々の歩く矛盾”」
「俺のこと?」
「ほかに誰が居るの?」
「俺は売人じゃない」
「そうじゃないの、あなたは歩く矛盾」

映画『タクシードライバー』(76)より、トラビスとベッツィの会話・・・訳@まっき~

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映画小僧ゆえ、ひとに「オススメの映画は?」と問われることがモノスゴ多い。

相手のほとんどが「軽く」聞いたはずなので、こっちも「軽く」返せばいいのだろうが、
もしそのひとにとって満足のいくものでなかったとしたら、自分の価値まで下がる・・・ような気がして、だから、この問いにはひじょうに慎重な態度を取る「癖」がついている。

他者にいわせればメンドクセー! になるのだろうが、それが自尊心に直結するのだからしょうがない。

結果、以下のような会話が展開される。

「どういうのが好み?」
「とくにないけど」
「ないことはないでしょう、たとえば笑いたいとか衝撃がほしいとか」
「うーん」
「いままで観たなかで、最高の映画は?」

この答えによって、オススメの映画をセレクトしていく、、、と。

それというのも、薦めた映画に対し「観なきゃよかった」「気分が悪くなった」と返された経験があるからなのだった。
映画鑑賞にも免疫というのは「たぶん」必要で、映画を観始めたというひとに『カノン』(98)や『ゆきゆきて、神軍』(87)を薦めても好評を得る確率というのは「そーとー」低い。(経験済み。ひとりなんか、『カノン』を観た翌日に会社を早退している)

段階、段階を踏まなければね。

自分がこよなく愛する『タクシードライバー』は、そういうことを理由にして他者(とくに女子)にあまり薦めてこなかった。
こなかったのだが、あることがきっかけで、多くのひとの感想を知りたいと思うようになり、けっこうな確率で本作を推すことが多くなった。

ヴィンセント・ギャロが監督・主演を務めた映画、『バッファロー’66』(98)。
小悪党の主人公がキュートなヒロインに翻弄される奇妙なコメディだが、これを観た友人の女子が「面白かった」とかいう前に、「この主人公、可愛い。きっと童貞よね」と発して驚いたことがある。

不意をつかれたというか、これはたぶん、男の観客・・・だけでなく、生みの親のギャロもギョッとする感想なのではないか。

そうか、そういう視点があったのか。

その感想を得て再び触れてみると、確かに主人公は童貞に見える。
こりゃ面白いと思った自分は、彼女に『タクシードライバー』を薦める、、、というより、ほとんど強引に観てもらうことにした。

感想は「痛快だった」。

「なんで?」
「あなたは矛盾だといっていた女を、最後に振ってみせるから」
「なるほど」

それまで自分は、『タクシードライバー』を男の映画だと思っていた。
もちろん女子でも理解を示してくれるひとは居るだろうが、支持者の多くは10~30代の男子であろうと。
なぜならこの映画は、若きスコセッシとデ・ニーロ、ポール・シュレイダーが宿す「怒り」が原動力になって創られたものだから。

いや待てよ、彼女が特別なだけであって、ほかの女子は拒否反応を示すかもしれない。

というわけで、会う女子、会う女子にこの映画を薦めてみた。
これは文字どおりで、コギャルにも企画AV女優にもキャバクラ嬢にも美大生にもパティシエにもフリーターにも、、、という意味である。

その結果、トラビスを拒否するものはひとりも居なかった。

人種差別者でもあり、自分は狂人なのに周りだけが狂人だと思っていて、彼女との初デートでポルノを選ぶような彼を。大統領候補を本気で殺そうとした彼を、、、である。

「トラビスのEQは決して高くないけれど、隣人みたいな気もする。70年代のニューヨークは、いまの日本みたいだよね」といった聡明? な子(自称・詩人)も居て、これは女子を甘く見ていたよねと。だからモテないのかもねと。(EQとは「こころの知能指数」のこと)

こういった感想に触れて、「新しいとはいえない」映画が、どうして古びないのかちょっとだけ分かったような気がした。

トラビスは、生きているんだ。
ナマモノで、息をしているんだ。

このように解釈出来る映画のキャラクターって、彼以外には、居ない。


※意外と知らないひとが未だ多いので、改めて解説。
後部座席でひとり興奮している男こそ、スコセッシそのひとである。
スコセッシは「あのプッシーに、44マグナムを撃ち込んでやる」と吠えている。




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polygraph

2012-10-15 00:15:00 | コラム
「すべて虚偽だと認めたらどうですか。どうなんですか」
「6月の手術は本当です。やったんです」

ほとんどのひとは、馬鹿だなぁと思ったことだろう。

いや自分だってそう思った。
ただそう思いつつ、なんというのだろう、なぜだか、こころが少しだけ痛かった。

同じようなコメントを残したひとが、森口尚史氏の知人にひとりだけ居た。
「どうして自分の名前を出したのか分からない」としつつ、「こころが痛いです」と発したのだ。

記者たちに囲まれ、突っつかれている、あの感じ。
「オーバーに」とヒトコト発すれば「嘘なんでしょ」と返され、モゴモゴと「嘘といわれれば、嘘です」。
ホラ吹き特有の「視線の泳ぎ」を勘付かれないよう、出来るだけ目を瞑って話す。
証拠? となるパスポートを掲げ「観光目的」と答えたときには、笑い声さえ漏れた。


ホラ吹き、ここに誕生。

iPS細胞の技術と山中伸弥氏の「権威」に乗っかっちゃった感のある森口氏は、確かに糾弾されるべきなのだろう。
だろうが、昔の自分を見ているような気がして、とてもじゃないが馬鹿にする気になれない。
そういう意味で「こころが痛い」のであり、森口氏の知人のいう「痛さ」とは、たぶん種類のちがうものだと思う。

過去の自分を重ねて論じたら、あるいは森口氏だって不快に思うかもしれない。
オメーと一緒にすなっ! なんて。

では森口氏の嘘が高尚な理由? から発せられたものかというと、どうもそんな感じはしない。
権威にしがみつこうとする欲が見えて、簡単にいえば功名心にかられた、、、というか。

本人は「研究者としては終わりだと思います」とあっさり? 観念しているが、ついつい余計なことまで考えてしまう。
妻子は居るのだろうかとか、親御さんは健在なのだろうかとか。


どう見たって悪いと思われるもの「ひとり」と、それを糾弾する「ひとりではないもの」の構図。

自慢にもならないが、自分はこの構図をふつうのひとより沢山経験してきた。裁判に携わっているひとには、敵わないだろうけれど。

「ある時期」に限定すれば、後者の存在になることも多かった。それは私服保安員をやっていたときで、対「窃盗犯」において、、、である。
しかしその時期を加えても、前者の存在になったことのほうが多い。
つまりそれだけ、ホラを吹いてきたというわけである。

だから森口氏の、なんともいえない弱りぶりがヒトゴトとは思えないのだ。

幼いころのホラはクラスで無視されるだけだったけれど、
ついには信用をなくし、女子を傷つけ、なにかあるとすぐに疑われるような存在になってしまった。

「すぐばれるような嘘を、なぜ・・・」と、周囲は呆れるだろう。
いってしまえば虚言癖というのは一種のビョーキで、でたらめなことをいって自我を保っているようなところがある。
新聞社や雑誌社に熱心に売り込んでいたという森口氏もまた、そのような人物だったのかもしれない。


ここまでも推測60で書いていたが、ここからは推測100で。

かつての自分も(少し前までの)森口氏も、嘘なんてばれない、ばれそうになったら「技術」で切り抜けられる・・・と、根拠のない自信を持っていたはず。
じつは根拠ゼロというわけでもなく、それでうまく切り抜けられたという実績? があるから、嘘をつくことになんの躊躇もなくなってしまうのである。

嘘発見器(ポリグラフ=polygraph)にかけられても、動いてはいけない方向に針を動かさないという自信を「なんとなく」持っている。
そう、『氷の微笑』(92…トップ画像)のシャロン・ストーンのように。

しかし『トゥルー・ロマンス』(93)でクリストファー・ウォーケンがいっていたが、
人間が嘘をつくときにする「しぐさ」というものは、じつは何通りもあるのだ。

機械は騙せても、人間は騙せない―森口氏の言動を鵜呑みにしなかった新聞社も多かったように、嘘がばれていないと思っているのは本人だけだったりするのである。


イタい人間だな―ネットニュースのコメント欄にそう書いてあったが、まさにそのとおり。

自分は同種の人間を見た気がして、こころに痛みを感じ、そうして過去を回想し、あぁ随分とイタい人間だったんだなぁと軽く落ち込んだ、、、というわけだ。


※このコラムにぴったりの曲といったら、これしかない。改めて聴くと、格好いいね。




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シネマしりとり「薀蓄篇」(18)

2012-10-14 00:15:00 | コラム
けん・らっせ「る」→「る」いーず・ふれっちゃー(ルイーズ・フレッチャー)

「―映画のなかでは、私のことが憎かったでしょう。でも、そのおかげで賞がもらえた。私は皆さんに憎まれて、とてもうれしい」

このスピーチが「事前に用意されたもの」でなかったとしたら、女優ルイーズ・フレッチャーはタダモノではないと思う。
「用意されたもの」だとしても、拍手もののスピーチなのに。

映画そのものを観るだけでなく、映画賞・映画祭に触れるのも好きな自分、これまで数多くのスピーチを耳にして/目にしてきたが、そのなかで最も印象的かつ感動的だったものを挙げるとするならば、
上に挙げたルイーズ・フレッチャーによるもの、、、となる。

その他の候補としては・・・

「日本人の小さなおんなのこである私が、こうしてオスカーをもらうなんて。お母さん、アメリカ行きを許してくれてありがとう!」(短編ドキュメンタリー賞受賞、伊比恵子)

「自分に感謝」(カンヌで監督賞を受賞したアキ・カウリスマキ)

「演技とは芸術、だから競い合うものではない。ジーン・ハックマンやロバート・デュバルが負けたんじゃないんだ」(ダスティン・ホフマン)

「息子には感謝している。しかし、私が居なければ彼は存在しないんだ」(オスカー作曲賞受賞、カーマイン・コッポラ)

「昔のエージェントにも礼をいわなければなるまい。彼はご丁寧にも、僕に俳優は向いていないと忠告してくれたんだからな」(ジャック・ニコルソン)

・・・あたり、だろうか。
我流の翻訳なので、ニュアンスはちがっているかもしれないが。


さて。
ルイーズ・フレッチャーが主演賞を勝ち取った作品は、傑作『カッコーの巣の上で』(75)だった。
ここに出てくる鬼看護婦長は、フレッチャーがいうように、ほんとうに憎たらしい。主人公マクマーフィの「真っ当な」主張を否定・拒否し続ける。
それが精神病院の秩序を守ることにつながるわけで、彼女は自分が誤ったおこないをしているとは微塵も思っていない。その揺るぎない姿勢を、フレッチャーはじつに見事に表現していた。

フレッチャーの映画デビュー作は74年の『ボウイ&キーチ』で、二作目にしてオスカー女優に輝いた。
それがかえって女優としてのキャリア構築の邪魔になった・・・ということはないだろうが、
『エクソシスト2』(77)や『炎の少女チャーリー』(84)、『トゥー・ムーン』(88)、『ブルースチール』(90)、『クルーエル・インテンションズ』(99)などに出演するも、どういうわけか印象に残らない。

オスカーは取っていないが、『エクソシスト』(73)のリンダ・ブレアと似ているかもしれない。
ファースト・インパクトが強烈に過ぎた、、、ということ。

ほとんどガンジーに見えるベン・キングスレーのような、「それ」以後も成功する俳優のほうが稀―というのは、ある意味で真実なのだろう。


ただ本人はどうあれ、「あの映画の、あの演技は凄かった」と、映画小僧たちのあいだで「神」扱いされるって、ある意味では役者冥利につきるのではないか・・・とも思ったり。

だってだって、
70年代に生まれ80~90年代に青春を過ごした自分みたいな映画小僧数人が呑み会を開き、
「あの映画の、あの演技は凄かった」を挙げよう―というテーマで語ると・・・

『ディア・ハンター』(78)のクリストファー・ウォーケン、
『タクシードライバー』(76)のデ・ニーロとジョディ、
『地獄の黙示録』(79)のロバート・デュバル、
『ポゼッション』(81)のイザベル・アジャーニ、
『コミック雑誌なんかいらない!』(86)のビートたけし、

そしてフレッチャーは、誰かが必ず挙げるのだもの!!


※スピーチを、ノーカットで。最後のほうの手話は、聾唖の両親に向けてのものである。
プレゼンターがチャールズ・ブロンソンというのが、時代だぜ。





次回のしりとりは・・・
るいーず・ふれっ「ちゃ」ー→「ちゃ」いるど・ぷれい。

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シネマしりとり「薀蓄篇」(17)

2012-10-13 00:15:00 | コラム
にんげんのじょう「けん」→「けん」・らっせる(ケン・ラッセル)

よくいえば「きらびやか」、わるくいえば「どぎつい」。

独特の美意識を貫いた英国出身の鬼才は、去年の11月に鬼籍に入っている。

享年84歳、ケン・ラッセルを強引に日本の映画作家にたとえると、ひょっとしたら蜷川実花(=『ヘルタースケルター』『ヘビーローテーション』)が最も相応しいのかもしれない。
このひとの作風も、原色万歳! ケバケバ・キラキラ大好き!! ゴーゴーアバンギャルド!!! だから。


ラッセルの映画で最も有名なのは、数々のミュージシャンが出演したことでも知られる異色のミュージカル『トミー』(75)。
元々はバンドのザ・フーがロックオペラとして発表した「戯曲、のようなもの」で、それをラッセルが映像化した。
ティナ・ターナーやエリック・クラプトン、エルトン・ジョンまで出演しており、彼ら彼女ら目当てで観たという日本の洋楽ファンも多かったのではないか。

この映画で有名になるまでのラッセルのキャリアが、なかなかにユニークで面白い。

(1)航海士になるも、「つまらん」といって軍隊に。
(2)除隊後、バレエの世界に興味を抱くが「才能なし」の評価を受け挫折。
(3)俳優を志すも、自身の可能性を信じられず諦める。
(4)「なんとなく」始めた写真の世界で才能が認められ、テレビ業界へ。

やがて映画界に進出し、デビューしてすぐに『恋する女たち』(69)でオスカー監督賞にノミネートされる。
D・H・ロレンスの同名小説を映像化した本作、物語も語り口も正攻法で、後年のラッセル映画を知るものにとっては物足りなく感じるかもしれない。
映像美はさすがなのだが、つまり、変わったキャリアではあるけれど、デビュー時から「ケバケバ、イケイケ!!」ではなかった、、、ということ。

明らかな変化が訪れたのは、70年代から。

71年―ラディゲの同名小説とはまったく無関係な『肉体の悪魔』を発表。
宣伝文句はずばり、「セックスの匂いがむんむんする。血と欲情と衝撃の巨篇!」。

作曲家マーラーの「かなり独創的な」伝記映画『マーラー』(74)、前述した『トミー』、ルドルフ・ヴァレンチノの伝記映画『バレンチノ』(77)などなど、
興行や批評はともかく、ゴーゴーアバンギャルド!!! な道を極め始めていく。

映像の迫力で細部の「あれ?」をうやむやにしてしまうSF『アルタード・ステーツ』(79)、
ファッションデザイナーが夜は娼婦になる・・・という、当時としてはショッキングだったであろう『クライム・オブ・パッション』(84)、

オスカー・ワイルドの小説を我流に映像化した『サロメ』(87)―このころに自分はケン・ラッセルという名を知り、えらく悪趣味なひとだなぁと驚いたのだった。


淀川長治が病的に愛したピーター・グリーナウェイも英国のひとで、
グリーナウェイのルーツって、ひょっとするとラッセルにあるのかもしれない・・・などと思うことがある。

映像そのものは似ていないが、悪趣味すれすれの世界を描き、それを「美しいもの」として提示するところが似ているのではないか。


ラッセルの、映画監督としての遺作は『チャタレイ夫人の恋人』(95)。

新聞の訃報があまりにも小さくて、なぜかムッとしたことを覚えている。


※『トミー』より、E・クラプトンのパフォーマンスを





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西岡に、ぜんぶっ!!

2012-10-12 00:15:00 | コラム
えらいことになる。

勝ったら、えらいことになる。

この業界が、ひっくり返るくらいに。

スポーツ紙ではなく一般紙の一面を飾るに相応しい・・・というか、ここまで登りつめた時点でもっと取り上げられてもいいのだが、
放送が地上波ではなくWOWOW限定だからだろうか、まもなくゴングというのに注目度はそれほど高くない。

「えらいことになる」というオメーは、じゃあ西岡の勝利を予想していないのか、、、って?

もちろん応援はしているが、相手のドネアの凄さを知っているので、西岡が完勝するだろう―とは、なかなかにいえないのだった。


MMA総合格闘技、柔道、立ち技打撃系格闘技・・・の次にボクシングが好きだ。
つまり相手を痛みつけて勝利を得る競技であり、ゆえに誤解されることもしばしば。
KOや一本というのは一瞬のアートなんだと力説しても、野蛮とか怖いとか喧嘩と変わらんなどと返され、「むぅ、、、」となること多し。

ところで。
いろんなファイターが居てこそ面白いのだろうが、
試合前にメンチを切ったり、
ハッタリかましたり、
挑発的な言動を繰り返したり、
試合が終わったというのに健闘を称えあうこともしなかったり、
判定にもつれ込み「まだやれるよ」のアピールのため、腕立て伏せをするようなファイターを、
あまり好きになれない。

ほとんど名指しで日本のチャンプのことを批判しているみたいだが、彼は12月に初の指名試合が控えており、これで真の実力が分かると思うから現時点でアアダコウダはいわない。
前言撤回、ヒトコトだけいうが、もう奥さん居るんだからメンチ切りもないだろう、ふつうに戦ってほしいのだが、さて、どういう風に振る舞うのだろうか。

前出したなかで「ハッタリかます」とあるが、オメーのサイトのタイトルは『はったりで、いこうぜ!!』だろうって?
そうなのだが、プロ格闘家はリングなどでガチンコ勝負するわけだ、ハッタリは邪魔にしかならないだろうと思って。

ときどき勝った直後のファイターが自分の強さをアピールする前に、一礼をしてみせることがある。
自分は、この流れが大好き。

ゴング前にシェイクハンドして、最後のゴングが鳴ったら抱き合う―誤解を受け易い競技だからこそ、美しいファイターであってほしいのだ。


そういう意味で、西岡は満点にちかいファイターである。


「WBC」S・バンタム級の名誉王者・西岡利晃、日本時間の14日にノニト・ドネアと対戦。

ドネアは4階級制覇を達成、IBF・WBOの統一王者である。
すげー強いんだって、「すげー」のつく。
だから西岡が勝ったら、「えらいこと」なのだ。50歳でノーベル賞を取った山中さんくらい騒がれていいのだ。

西岡のすごいところは、本来であれば下り坂にある年齢、もっといえば引退してもおかしくない「36歳」である、というところ。
しかし売りであるスピードは衰えない、むしろ「キレ」は増すばかりで、彼のスマートな戦いを観ていると「きょうは負けないな」「次回も負けないな」「そのまた次も負けないな」と思わせてくれる。

ドネア戦、、、以外は。

「以外は」なのだが、それでも西岡に賭けてみたい。
海外のオッズでは「当然のように」ドネアが優勢。

だからこその、
西岡に、ぜんぶっ!!

大きくなった小姫ちゃん(トップ画像)を抱き、ガッツポーズする西岡が見たい。

期待しているぜよ、西岡。

あぁ楽しみだ。14日まで安眠出来ないな、これは。


ただひとつ残念なのは、繰り返しになるがテレビ放送の関係もあって、このビッグマッチがそれほど騒がれていないこと、、、なのだ。


※西岡の戦いの軌跡




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