母の次兄が亡くなった。
土曜日に見舞いに行った翌週、火曜日の早朝だったそうだ。
90歳だったから、十分長生きしたといえるんじゃないかな。
友人が多かった筈の伯父の葬儀が寂しい。
皆、先に逝ってしまった。
昔から、ふらっと突然訪れる伯父だった。
数年前までは、月に1日、園芸市の帰りに訪れた。
そして、だんだん体力がなくなり、片道1時間の運転が大儀になった。
時々、母を連れて行くと喜んで迎えてくれた。
娘さん2人が独立し、80代の二人暮らしだった。
母から、伯父の話をよく聞いた。
農学校に行ったこと、山羊を連れてきたこと。
若い頃は背が高く体格も良かったので、甲種合格で戦争に行ったこと。
1度目はモンゴルに、2度目は広島に。
原爆直後の広島で、後片付けをしたというがその時の話は、けして口にしない。
当日は、たまたま離れた場所に居て、被爆しなかったらしい。
この伯父は、なんとなく運が良い人で、何回も死に損なっている。
戦後、肺結核になり、大きな傷跡の残る手術をした。
年をとってからも、時々、入院した、危篤だと電話がきた。
そのたびに、母は慌てて見舞いに行ったが、どうも、冷房が体にあわなかったらしい。
しばらくすれば、すぐ回復して、居心地のよい自宅に戻っていた。
80台になって、足の骨を折ったときは、年も年だしもう寝たきりかと思われたが、
本人曰く、こんな辛い思いをしたからにはあと3年は生きなければ、というリハビリに耐え、
杖をつきながらも、歩けるようになった。
背筋をピンと伸ばして歩き、大好きな庭の手入れもしていた。
だから、なんとなく、いつまでもこんな風に、100歳位まで生きちゃうんだろうなと思っていた。
食べられない、入院したという伯母の電話で、土曜日に見舞いに行った。
また、以前みたいに、すぐによくなるのではないかなという気持ちで、
半分は、おろおろしている伯母を慰めようという気楽さで。
娘さん2人が来ていた。
これから、医師の話を聞くのだという。
病室の伯父は、酸素の呼吸器をつけ、おむつをつけられて横たわっていた。
良かったほうの足を骨折してしまったそうだ。
お土産にと持って行った苺も、あげることができなかった。
飲み込む力がないので、とろみのついた流動食しか食べられない。
話す声も、力がないので、かすれて聞き取れない。
それでも、頭ははっきりしていた。
どうしても、寝たきりにはなりたくない。
ようやく聞き取れた声は、立つからそこにある杖を貸してくれだった。
そして、痛くても手術をしてほしいということ。
体も言葉も不自由だったけれども、知性も意思も失われていなかった。
リスクがあっても手術できればいいのにね。
そうすれば、ご飯も食べられるようになるんじゃないかな。
そんなことを言いながら帰ったんだけれど。
思っていた以上に、弱っていたんだろう。
寝たきりになるまでもなく、亡くなってしまった。
安らかな死に顔だったそうだ。
晩年まで、何人かの親しい友人が居て、
離れて暮らしていても、娘さんとも仲が良く、
好きな庭仕事もできて、いい人生だったんじゃないかな。
草花の好きだった伯父の祭壇は、娘さんの希望で、生花で彩られていた。
土曜日に見舞いに行った翌週、火曜日の早朝だったそうだ。
90歳だったから、十分長生きしたといえるんじゃないかな。
友人が多かった筈の伯父の葬儀が寂しい。
皆、先に逝ってしまった。
昔から、ふらっと突然訪れる伯父だった。
数年前までは、月に1日、園芸市の帰りに訪れた。
そして、だんだん体力がなくなり、片道1時間の運転が大儀になった。
時々、母を連れて行くと喜んで迎えてくれた。
娘さん2人が独立し、80代の二人暮らしだった。
母から、伯父の話をよく聞いた。
農学校に行ったこと、山羊を連れてきたこと。
若い頃は背が高く体格も良かったので、甲種合格で戦争に行ったこと。
1度目はモンゴルに、2度目は広島に。
原爆直後の広島で、後片付けをしたというがその時の話は、けして口にしない。
当日は、たまたま離れた場所に居て、被爆しなかったらしい。
この伯父は、なんとなく運が良い人で、何回も死に損なっている。
戦後、肺結核になり、大きな傷跡の残る手術をした。
年をとってからも、時々、入院した、危篤だと電話がきた。
そのたびに、母は慌てて見舞いに行ったが、どうも、冷房が体にあわなかったらしい。
しばらくすれば、すぐ回復して、居心地のよい自宅に戻っていた。
80台になって、足の骨を折ったときは、年も年だしもう寝たきりかと思われたが、
本人曰く、こんな辛い思いをしたからにはあと3年は生きなければ、というリハビリに耐え、
杖をつきながらも、歩けるようになった。
背筋をピンと伸ばして歩き、大好きな庭の手入れもしていた。
だから、なんとなく、いつまでもこんな風に、100歳位まで生きちゃうんだろうなと思っていた。
食べられない、入院したという伯母の電話で、土曜日に見舞いに行った。
また、以前みたいに、すぐによくなるのではないかなという気持ちで、
半分は、おろおろしている伯母を慰めようという気楽さで。
娘さん2人が来ていた。
これから、医師の話を聞くのだという。
病室の伯父は、酸素の呼吸器をつけ、おむつをつけられて横たわっていた。
良かったほうの足を骨折してしまったそうだ。
お土産にと持って行った苺も、あげることができなかった。
飲み込む力がないので、とろみのついた流動食しか食べられない。
話す声も、力がないので、かすれて聞き取れない。
それでも、頭ははっきりしていた。
どうしても、寝たきりにはなりたくない。
ようやく聞き取れた声は、立つからそこにある杖を貸してくれだった。
そして、痛くても手術をしてほしいということ。
体も言葉も不自由だったけれども、知性も意思も失われていなかった。
リスクがあっても手術できればいいのにね。
そうすれば、ご飯も食べられるようになるんじゃないかな。
そんなことを言いながら帰ったんだけれど。
思っていた以上に、弱っていたんだろう。
寝たきりになるまでもなく、亡くなってしまった。
安らかな死に顔だったそうだ。
晩年まで、何人かの親しい友人が居て、
離れて暮らしていても、娘さんとも仲が良く、
好きな庭仕事もできて、いい人生だったんじゃないかな。
草花の好きだった伯父の祭壇は、娘さんの希望で、生花で彩られていた。