白ウサに踏まれた日

うさぎと人間のこと
うさぎブログ

うさぎの耳

2010-06-29 01:56:27 | うさぎのこと
ノンタンがショコラの耳を嗅ぐ。

怪しい。

ショコラの耳穴を覘く。

ものすごぉく、汚い。

得体のしれないものが

へばりついている。

ノンタンが後ろ足で耳をほじっている。

すごぉく気になる。

ショコラ・・・

耳疥癬か?

ノンタン・・・

おまえもか?


伸ばし伸ばしにしてた通院、

やはり、

行かねばならないらしい。

観た映画

2010-06-21 01:46:43 | 映画と本
ビデオ旧作  1週間80円
新作・準新作 5枚1週間900円だったので。

7つの贈り物
レスラー
マンダレイ

その他を観る。

ミッキーローク、好きですわ。
今の顔でも。

無題

2010-06-20 00:32:51 | 映画と本
お願いがあるの。

彼女は言った。

ごくごく気軽な言い方で。

何でも言って。

だから、ごく気軽に答えた。

何があっても、

いい、

何があっても、

あなたは死なないでね。

にっこりと笑ってそう言った。

そんなこと言ったって、

不死身じゃないのだから。

バカだなと返す。

あのね、自分からは死なないでね。

変なこと言う奴だなと見ると、

なんだか、真剣な目をしている。

仕方ないので、

わかりました、おおせのとおりに。

と、答える。

約束だよ。

と、彼女は笑った。

・・・

それが、呪い。

・・・

目の前に彼女が横たわっている。

そして、他に誰もいない。

私の手は彼女の血に濡れて、

この世界には、誰一人残っていない。

だけど、

「約束だよ」

残される

2010-06-15 18:55:00 | 人間のこと
夫婦二人暮らしの伯父が亡くなり、
認知症がはじまりかけている伯母が残った。
従姉妹達は、30年以上も前に故郷を離れ、東京で暮らしている。
伯母は、今までどおり、伯父と暮らした家で暮らしていくらしい。

幸い、ヘルパーさんも引き続き来てもらえるらしいので、少し安心だが。

私がもし、従姉妹の立場だったら、故郷に戻るだろうか。
たぶん、なんとかして、戻らない方法を考えるだろう。
独身でも、独身だからこそ、戻りたくないと思うだろう。

ひとつは仕事のこと。
この年齢で、転職先がみつかるだろうか。
それに、故郷と言っても、長く離れていれば見知らぬ土地と大差ない。
従姉妹が、親戚と言われても、顔もわからなくて、と言っていた。

10数年前、いろいろあって、一番戻りたくない場所に戻ってしまった。
10数年たって、自分の性格もあるが、相変わらず馴染めない。

私なら、たとえ、年老いた認知症の親が居たとしても、戻らないだろうな、と思う。
まわり中からそれを期待されたとしても、冷たい娘と言われても。


父も、かなり認知症がすすんでいるのでないかなと思う時がある。
今は、母が居るからよいが、母に何かあったときのことを思うと、ぞっとする。
そして、父に対して、優しい気持ちがもてない自分が、怖くなるときがある。

時たま考える。

なんで、ここで、こんな仕事しているんだろうと。

それから、

どこで間違えたんだろう、と。

なんで、新卒で勤めた職場を、辞めてしまったのかなと。
好きな仕事だったのに。

・・・

全部、自分で選んだのだから不平を言う立場ではないし、

どこにいても生きていける自分も、なかなかだと思うのだが、

それでも、

今さら、どこにも行けないことが、



やりきれない。


伯父のこと

2010-06-09 23:41:00 | うさぎのこと
母の次兄が亡くなった。

土曜日に見舞いに行った翌週、火曜日の早朝だったそうだ。
90歳だったから、十分長生きしたといえるんじゃないかな。
友人が多かった筈の伯父の葬儀が寂しい。
皆、先に逝ってしまった。

昔から、ふらっと突然訪れる伯父だった。
数年前までは、月に1日、園芸市の帰りに訪れた。
そして、だんだん体力がなくなり、片道1時間の運転が大儀になった。
時々、母を連れて行くと喜んで迎えてくれた。
娘さん2人が独立し、80代の二人暮らしだった。

母から、伯父の話をよく聞いた。
農学校に行ったこと、山羊を連れてきたこと。
若い頃は背が高く体格も良かったので、甲種合格で戦争に行ったこと。
1度目はモンゴルに、2度目は広島に。
原爆直後の広島で、後片付けをしたというがその時の話は、けして口にしない。
当日は、たまたま離れた場所に居て、被爆しなかったらしい。

この伯父は、なんとなく運が良い人で、何回も死に損なっている。

戦後、肺結核になり、大きな傷跡の残る手術をした。
年をとってからも、時々、入院した、危篤だと電話がきた。
そのたびに、母は慌てて見舞いに行ったが、どうも、冷房が体にあわなかったらしい。
しばらくすれば、すぐ回復して、居心地のよい自宅に戻っていた。
80台になって、足の骨を折ったときは、年も年だしもう寝たきりかと思われたが、
本人曰く、こんな辛い思いをしたからにはあと3年は生きなければ、というリハビリに耐え、
杖をつきながらも、歩けるようになった。
背筋をピンと伸ばして歩き、大好きな庭の手入れもしていた。

だから、なんとなく、いつまでもこんな風に、100歳位まで生きちゃうんだろうなと思っていた。

食べられない、入院したという伯母の電話で、土曜日に見舞いに行った。
また、以前みたいに、すぐによくなるのではないかなという気持ちで、
半分は、おろおろしている伯母を慰めようという気楽さで。

娘さん2人が来ていた。
これから、医師の話を聞くのだという。

病室の伯父は、酸素の呼吸器をつけ、おむつをつけられて横たわっていた。
良かったほうの足を骨折してしまったそうだ。
お土産にと持って行った苺も、あげることができなかった。
飲み込む力がないので、とろみのついた流動食しか食べられない。
話す声も、力がないので、かすれて聞き取れない。
それでも、頭ははっきりしていた。
どうしても、寝たきりにはなりたくない。
ようやく聞き取れた声は、立つからそこにある杖を貸してくれだった。
そして、痛くても手術をしてほしいということ。
体も言葉も不自由だったけれども、知性も意思も失われていなかった。

リスクがあっても手術できればいいのにね。
そうすれば、ご飯も食べられるようになるんじゃないかな。
そんなことを言いながら帰ったんだけれど。

思っていた以上に、弱っていたんだろう。
寝たきりになるまでもなく、亡くなってしまった。

安らかな死に顔だったそうだ。

晩年まで、何人かの親しい友人が居て、
離れて暮らしていても、娘さんとも仲が良く、
好きな庭仕事もできて、いい人生だったんじゃないかな。

草花の好きだった伯父の祭壇は、娘さんの希望で、生花で彩られていた。