2015年5月24日発行の日本経済新聞紙の朝刊最終面の人気欄「私の履歴書 川村隆 5子会社の全株式取得」は、巨艦の日立製作所グループの再建策の山場編です。
今月5月の「私の履歴書」の筆者は現在、日立製作所相談役で、前会長・社長の河村隆さんです。
日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版では見出し「100日プラン 5子会社の全株式取得 無駄省き収益・財務体質改善」として載っています。

リーマン・ショックが世界経済をおそった2008年の翌年の2009年に、日立製作所は7873億円の連結最終赤字という、日本の製造業で過去最悪の経営危機に陥りました。そこで当時、日立製作所の会長だった庄山悦彦さんから、2009年3月初旬に川村さんは社長就任の要請を突然、受けます。
当時69歳の川村さんは、日立製作所の子会社会長に転出していて、いわゆる日立製作所の役員として“あがり”の人生を歩んでいました。2009年4月1日に川村さんは日立製作所の子会社から呼び戻され、執行役会長兼社長に就任しました。この時点で、前社長の古川一夫さんは62歳で、“時間を巻き戻した”人事と話題を集めました。
川村さんは元々、社長候補として庄山さんの有力な対抗馬でした。庄山さんが社長に就任した1999年当時は、日立製作所は家電・情報メディア事業に強い庄山さんを社長とし、さらに、続いて家電・情報メディア事業に強い古川さんを次の社長に据えて、HDD(ハードディスクドライブ)事業や液晶パネル・液晶テレビ事業の再建を托しました。ここで重要なことは、庄山さんと古川さんは、日立製作所の幹部の本流の重電事業ではなく、情報通信事業のプロとして、”電子立国日本”を担う日立製作所の舵取り役を托されたことです。重電分野から情報通信分野に路線を変える戦略でした。
2009年4月に川村さんを社長に呼び戻した人事は当時、話題を集めました。日立製作所本体に呼び戻された69歳の川村さんは、庄山さんに頼んで執行役会長兼社長に就任します。日立製作所の危機を会長兼社長就任から100日で、つまり7月までに何か再建策「やることリスト」の形を出そうという意志を示します。そして、川村さんは会長と社長を兼任し、副社長などの6人で決議する体制を取ります。日立製作所としては初めての専制体制です。
その強力な再建策の一つが、日立情報システム、日立ソフトウェアエンジニアリング、日立システムアンドサービスなどの上場していた子会社5社の公開株式買い付けを実施し、完全子会社化します。この完全子会社化の成否はまだでないと感じています。確かに、日立製作所本体と各子会社の事業領域の重複などの非効率面は解消しましたが、時代の変化を子会社のようなスモール組織の方が感じ取る可能性は高いように思います。
今回の完全子会社化は、「彼らの利益を社内に留めおくことができれば、収益力や財務体質が改善する」と語っているので、現行の事業利益確保が目的だったようです。この子会社が大いに儲けているのは、自主的に経営させた結果のような気がします。長い目でみて、どちらがよかったかは、まだ何ともいえません。
さて、今回の日立製作所のV字回復を5年間で達成した川村さんは日立の中興の祖となりそうです。しかし、その5年間に事業譲渡などをされた当事者の従業員は意見がかなり異なると思います。
日立製作所とその子会社には、たまたま先輩、同級生、後輩も多く、各事業部や各子会社でさまざまな運命をたどっていて、本の少し内情を垣間見ています。若い時は仕事として、日立製作所の各研究所や子会社にも訪れました。このため、今回の「私の履歴書 川村隆」は、複雑な気持ちで読んでいます。そして、いろいろな裏事情を想像しています。
今月5月の「私の履歴書」の筆者は現在、日立製作所相談役で、前会長・社長の河村隆さんです。
日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版では見出し「100日プラン 5子会社の全株式取得 無駄省き収益・財務体質改善」として載っています。

リーマン・ショックが世界経済をおそった2008年の翌年の2009年に、日立製作所は7873億円の連結最終赤字という、日本の製造業で過去最悪の経営危機に陥りました。そこで当時、日立製作所の会長だった庄山悦彦さんから、2009年3月初旬に川村さんは社長就任の要請を突然、受けます。
当時69歳の川村さんは、日立製作所の子会社会長に転出していて、いわゆる日立製作所の役員として“あがり”の人生を歩んでいました。2009年4月1日に川村さんは日立製作所の子会社から呼び戻され、執行役会長兼社長に就任しました。この時点で、前社長の古川一夫さんは62歳で、“時間を巻き戻した”人事と話題を集めました。
川村さんは元々、社長候補として庄山さんの有力な対抗馬でした。庄山さんが社長に就任した1999年当時は、日立製作所は家電・情報メディア事業に強い庄山さんを社長とし、さらに、続いて家電・情報メディア事業に強い古川さんを次の社長に据えて、HDD(ハードディスクドライブ)事業や液晶パネル・液晶テレビ事業の再建を托しました。ここで重要なことは、庄山さんと古川さんは、日立製作所の幹部の本流の重電事業ではなく、情報通信事業のプロとして、”電子立国日本”を担う日立製作所の舵取り役を托されたことです。重電分野から情報通信分野に路線を変える戦略でした。
2009年4月に川村さんを社長に呼び戻した人事は当時、話題を集めました。日立製作所本体に呼び戻された69歳の川村さんは、庄山さんに頼んで執行役会長兼社長に就任します。日立製作所の危機を会長兼社長就任から100日で、つまり7月までに何か再建策「やることリスト」の形を出そうという意志を示します。そして、川村さんは会長と社長を兼任し、副社長などの6人で決議する体制を取ります。日立製作所としては初めての専制体制です。
その強力な再建策の一つが、日立情報システム、日立ソフトウェアエンジニアリング、日立システムアンドサービスなどの上場していた子会社5社の公開株式買い付けを実施し、完全子会社化します。この完全子会社化の成否はまだでないと感じています。確かに、日立製作所本体と各子会社の事業領域の重複などの非効率面は解消しましたが、時代の変化を子会社のようなスモール組織の方が感じ取る可能性は高いように思います。
今回の完全子会社化は、「彼らの利益を社内に留めおくことができれば、収益力や財務体質が改善する」と語っているので、現行の事業利益確保が目的だったようです。この子会社が大いに儲けているのは、自主的に経営させた結果のような気がします。長い目でみて、どちらがよかったかは、まだ何ともいえません。
さて、今回の日立製作所のV字回復を5年間で達成した川村さんは日立の中興の祖となりそうです。しかし、その5年間に事業譲渡などをされた当事者の従業員は意見がかなり異なると思います。
日立製作所とその子会社には、たまたま先輩、同級生、後輩も多く、各事業部や各子会社でさまざまな運命をたどっていて、本の少し内情を垣間見ています。若い時は仕事として、日立製作所の各研究所や子会社にも訪れました。このため、今回の「私の履歴書 川村隆」は、複雑な気持ちで読んでいます。そして、いろいろな裏事情を想像しています。