ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

埼玉県南部を流れる荒川支流の川岸では、タチアオイの花が咲き始めました

2015年05月27日 | 季節の移ろい
 埼玉県南部を流れる荒川支流の川岸を散策していると、タチアオイ(立葵)の花が咲き始めていました。

 その荒川支流の川岸は夏草に覆われています。



 実は、対岸の草むらにはヨシが生い茂り、その中からオオヨシキリの大きな鳴き声がしています。オオヨシキリは、ヨシの茂みの中にいて、姿は見えません。

 その川岸の一部では、“夏の花”というイメージがあるタチアオイが咲き始めています。


 
 例年ですと、タチアオイは、もう少し遅い時期(6月の梅雨どき)から咲き始めたような気がします。花は茎の下側から咲き始め、その上側に蕾ができ、花は下側から上側へと咲いていきます。
 
 背丈が約2メートルから3メートルのタチアオイの花の色は多彩です。ここでは、濃いピンク系の花がよく咲いています。




 
 薄いピンク色の花も咲いています。


 
 花の中心部が薄い紫色の花も咲いています。


 
 そして、白い色の花も咲いています。


 
 後で聞いた話では、川岸をいくらか美しく飾るために、昨年からタチアオイの苗を、支流の清掃活動などをなさっているボランティアの方々が広範囲に植えた結果だそうです。
 
 タチアオイは元々、中国などから薬草として伝わってきた野草です。実際の原種は、トルコ原産種と東ヨーロッパ原産種との雑種だと推察されているそうです。 

 タチアオイの周囲は、もう夏の季節を感じさせます。


東京都新宿区の新宿御苑のフランス式整形庭園では、バラの花が満開です

2015年05月26日 | 季節の移ろい
 東京都新宿区にある新宿御苑(環境省傘下の一般財団法人が管理法人)に、約1カ月ぶりに出かけました。

 新宿御苑の新宿門から入り、東南方向に向かって、どんどん進むと、一番奧にあるフランス式整形庭園に到着します。広い空間に、その左右にプラタナスの並木を配した構成です。

 左右のプラタナスの並木の木々は新緑からやや濃い緑色へと、葉を茂らせています。プラタナスの木は、スズカケノキ科スズカケノキ属に属する植物の総称です。

 そのプラタナスの並木の真ん中にある広大な庭園では、現在はバラの花が満開です。





 多くの方が、満開のバラの花を楽しんでいます。



 深紅のバラの花は、ドイツのタンタウが品種改良した「オリンピック・ファイヤー」という印象的な名前です。



 同じように深紅のバラの花は、同じドイツのタンタウが品種改良した「シュタット・エルトビレ」という名前です。



 淡い赤色系のバラの花は、オランダのフェルシューレンが品種改良した「フェローシップ」です。



 ピンク色のバラの花は、米国のスイムが品種改良した「カウンティー・フェアー」という名前です。少し小振りの花です。



 さまざまな色の華やかなバラの花が競演しています。

 フランス式整形庭園のバラ園に植えられているバラは、必ずしも大輪系の花だけではなく、小振りの花などと、多彩です。

2015年5月の日本経済新聞紙の人気欄「私の履歴書」の話の続きです

2015年05月25日 | 日記
 2015年5月発行の日本経済新聞紙の朝刊最終面の人気欄「私の履歴書」は、現在は日立製作所相談役で前会長・社長の河村隆さんが執筆中です。昨日編に続いて、この日立製作所の河村さんが執筆された中身について感じたことの続きです。

 4日前の2015年5月21日の「私の履歴書」は見出し「ラストマン 上司の言葉を胸に社長へ」でした。2009年4月に会長兼社長を引き受けたときの動機部分の話です。

 日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版でも見出し「ラストマン 上司の言葉を胸に社長へ」として載っています。



 実は、前日の5月20日編から、この話はどこかで読んだような気がするとの”デジャブ感”を感じていました。

 いろいろと考えてやっと思い当たる文章がありました。日本経済新聞社の子会社の日経BP社が2014年8月4日発行した単行本「異端児たちの決断 日立川村改革の2000日」に書かれている中身とよく似ていたのです。この単行本は、2009年4月に川村さんが日立製作所の会長兼社長に就任してからの日立製作所の経営再建の軌跡をたどったものです

 この単行本は、当時、日経ビジネス編集委員兼副編集長だった小板橋太郎さん(単行本発行時には、日本経済新聞社企画報道部デスク)が日立製作所の方々をインタビューして執筆したものです。

 その中には、川村さんが語る「・・日立工場(茨城県日立市)の設計課長だったころ、日立工場長だった綿森力さんという方が教えてくれた”ザ・ラストマン”という言葉です。綿森さんは『この工場が沈む時は君たちは先に逃げろ。・・工場が沈みそうになった時、最後まで残って責任をとる、ザ・ラストマンたれ』ということを私たちに口酸っぱく諭してくれたのです」との文章があります。

 この文章が5月21日の「私の履歴書」のストーリーの下書きになっているように感じます。元々は、川村さんが話したことなので、同じような文章になるのは仕方がないような気もします。
 
 しかし、ある意味では説得力のあるストーリーとしてまとまっていて、既に公表されていることと、日立製作所の元幹部として現時点で公表できることがうまくつながっているために、これを公表する中身の境界線と考えたとも推定できます。
 
 ある意味、どろどろとした部分は、川村さんは元経営責任者としてまだ話せない可能性もあります。まだ、8年前以降の現代史そのものですから。

 この単行本では、小板橋太郎さんは、川村さんをはじめとする会長・社長、副社長などの”6人組”が文字通り矢継ぎ早の改革に乗り出したと書いています。
 
 その経営再建のの改革工程表では、
・日立プラズマディスプレイ宮崎工場譲渡(2009年4月に公表)
・ルネサステクノロジ、NECエレクトロニクス経営統合(同上)
・日立マクセルなど上場5子会社の完全子会社化(2009年7月に公表)
・携帯電話事業をジョイントベンチャーで切り離し(2009年9月に公表)

とまとめています。

 当時はかなり話題を呼び、日立製作所の当該事業部の従業員によっては、厳しい中身になりました。半導体やプラズマディスプレィ、携帯電話機などの事業を整理し、情報記録メディア事業を再編しました。この中身は、おそらく現在でも書けないことが多いと想像できます。

 また、この会長・社長、副社長などの”6人組”は、一度は役員として”あがり”になった年長者の集団だったので、先輩として、後輩に”事業整理”を頼むという場面では、年長者としての人間関係が活きたとも、今回の「私の履歴書」では書かれています。

日本経済新聞紙の「私の履歴書 川村隆」編を複雑な気持ちで拝読しています

2015年05月24日 | 日記
 2015年5月24日発行の日本経済新聞紙の朝刊最終面の人気欄「私の履歴書 川村隆 5子会社の全株式取得」は、巨艦の日立製作所グループの再建策の山場編です。

 今月5月の「私の履歴書」の筆者は現在、日立製作所相談役で、前会長・社長の河村隆さんです。

 日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版では見出し「100日プラン 5子会社の全株式取得 無駄省き収益・財務体質改善」として載っています。



 リーマン・ショックが世界経済をおそった2008年の翌年の2009年に、日立製作所は7873億円の連結最終赤字という、日本の製造業で過去最悪の経営危機に陥りました。そこで当時、日立製作所の会長だった庄山悦彦さんから、2009年3月初旬に川村さんは社長就任の要請を突然、受けます。

 当時69歳の川村さんは、日立製作所の子会社会長に転出していて、いわゆる日立製作所の役員として“あがり”の人生を歩んでいました。2009年4月1日に川村さんは日立製作所の子会社から呼び戻され、執行役会長兼社長に就任しました。この時点で、前社長の古川一夫さんは62歳で、“時間を巻き戻した”人事と話題を集めました。

 川村さんは元々、社長候補として庄山さんの有力な対抗馬でした。庄山さんが社長に就任した1999年当時は、日立製作所は家電・情報メディア事業に強い庄山さんを社長とし、さらに、続いて家電・情報メディア事業に強い古川さんを次の社長に据えて、HDD(ハードディスクドライブ)事業や液晶パネル・液晶テレビ事業の再建を托しました。ここで重要なことは、庄山さんと古川さんは、日立製作所の幹部の本流の重電事業ではなく、情報通信事業のプロとして、”電子立国日本”を担う日立製作所の舵取り役を托されたことです。重電分野から情報通信分野に路線を変える戦略でした。

 2009年4月に川村さんを社長に呼び戻した人事は当時、話題を集めました。日立製作所本体に呼び戻された69歳の川村さんは、庄山さんに頼んで執行役会長兼社長に就任します。日立製作所の危機を会長兼社長就任から100日で、つまり7月までに何か再建策「やることリスト」の形を出そうという意志を示します。そして、川村さんは会長と社長を兼任し、副社長などの6人で決議する体制を取ります。日立製作所としては初めての専制体制です。
 
 その強力な再建策の一つが、日立情報システム、日立ソフトウェアエンジニアリング、日立システムアンドサービスなどの上場していた子会社5社の公開株式買い付けを実施し、完全子会社化します。この完全子会社化の成否はまだでないと感じています。確かに、日立製作所本体と各子会社の事業領域の重複などの非効率面は解消しましたが、時代の変化を子会社のようなスモール組織の方が感じ取る可能性は高いように思います。
 
 今回の完全子会社化は、「彼らの利益を社内に留めおくことができれば、収益力や財務体質が改善する」と語っているので、現行の事業利益確保が目的だったようです。この子会社が大いに儲けているのは、自主的に経営させた結果のような気がします。長い目でみて、どちらがよかったかは、まだ何ともいえません。

 さて、今回の日立製作所のV字回復を5年間で達成した川村さんは日立の中興の祖となりそうです。しかし、その5年間に事業譲渡などをされた当事者の従業員は意見がかなり異なると思います。

 日立製作所とその子会社には、たまたま先輩、同級生、後輩も多く、各事業部や各子会社でさまざまな運命をたどっていて、本の少し内情を垣間見ています。若い時は仕事として、日立製作所の各研究所や子会社にも訪れました。このため、今回の「私の履歴書 川村隆」は、複雑な気持ちで読んでいます。そして、いろいろな裏事情を想像しています。


東京都千代田区の日比谷公園では、トチノキが白い花を咲かせています

2015年05月23日 | 季節の移ろい
 東京都千代田区日比谷公園にある日比谷公園は、高い木々の森の中に西洋式庭園が配置されている構成の公園です。西洋式庭園の周囲を背の高い木々が囲んでします。

 周囲のビル街の狭間にある日比谷公園は、ある程度の背の高い木々の森が点在しています。

 その日比谷公園の森の中では現在、トチノキ(栃の木)が白い小さな花を咲かせています。





 ヤマボウシ(山法師)の木が、白い花を咲かせています。



 モミジやサクラ(ソメイヨシノ)などの木々に囲まれた中に、雲形池があります。その池の中央部分に、有名な鶴の噴水があります。



 雲形池の水辺の一部にアヤメ科アヤメ属の多年草であるキショウブが咲いています。



 日比谷公園の中にある、有名な花屋の展示品です。鉢植えのカーネーションです。


 
 ビル街のオアシスである日比谷公園は、木々の葉を茂らせ、次第に木陰を濃く、深くしています。いくらか夏を感じさせます。