アメリカは民主政治ではない?:
昨4日の「アメリカ合衆国はどうなるのだろう」について、畏メル友RS氏から「アメリカの政治は民主主義ではなく、支配階層による政治ではないか」とのご指摘があった。私は鋭い見解だし敬意を表すべき卓見だと受け止めた。そこで、この点について「永年アメリカ側の一員として務めてき」経験と知識に基づいて」考察してみようと思う。
確かに、私が在籍したMeadもWeyerhaeuserも同族(ファミリーというのか名門の一家)が支配する会社で、アメリカは言うに及ばす世界の紙パルプ産業界に輸出力とライセンスの供与等で大いなる影響を与えていた。話は違うかも知れないが、ビル・ゲーツ氏が創業したマイクロソフトが世界に与えた影響などはそれを遙かに上回る影響を世界に与えたのではないか。その点ではGAFAも同様かそれ以上の影響力を発揮しているだろう。
MeadとWeyerhaeuserの経営の状況を見れば、Meadの場合はオウナーのNelson Mead氏はは副社長兼国際部門担当の地位にあって会社の運営を指揮する事がない立場にあり、CEOの職は経営手腕に優れた同族以外の者に任せていた。一方、後者ではファミリーの4代目の当主であるGeorge自らが39歳でCEOに就任して指揮・指導して、会社の規模を飛躍的に拡大していった。私が知る限りのアメリカの大手企業は、概ねこの2社のような経営方式を採っているをと見てきた。勿論、そうではない場合はあるが。
Weyerhaeuserでは(ここでは説明を省くが)嘗ては株式を公開していたが、そこにはファミリー会議という組織が存在し、一族にとって非常に重大な事案は全ファミリーが集合して会議し、多数決で決められていた。一寸聞いただけでは恰もマフィアの会議の感もあるがのだ。私の在職中には、一度そのファミリーがWeyerhaeuserとは別個に株式の大部分を保有する紙パルプの優良企業に同業他社からTOBを掛けられた事があった。その際には、当時東京勤務だったCEOの姪が急遽アメリカに呼び戻されファミリー会議に参加して、TOB拒否が決議されたのだった。
このような形で運営されているのがアメリカ経済の実態を示していると思っている。即ち、一部の少数の富豪が富を独占しているというような見方は一面的だと言えると思う。大手企業を所有する乃至は創業した一族が色々な形で大株主であり、その者たちのご意向で会社が運営されている例が多いのだろうと見てきた。ではあっても、世間で良く言われていることで「アメリカの株主総会ではオウナー一族の代表であるCEOが議長を務め、その冒頭のスピーチでは“Your company ~"と切り出す」というのがある。これはその通りで、私は現実にGeorgeがそう言うのを聞いた。
現在は業界の再編成が続き事態が変わったが、1990年代までの紙パルプ業界の大手の社名にファミリーの名字が入っていないのは、世界最大のInternational Paperのみだった。それほど創業者一族の支配力が強いという例証だろう。他業種を見れば、銀行でもMorganがあるし、ロックフェラー銀行と名乗っていないだけの名門があるではないか。その支配階級は底知れない資産家で、例えばMead家ではオハイオ州デイトンの自宅の敷地内にNCRカントリークラブがあり、当主のNelsonは「あれは家の裏庭(back yard)を貸しているだけ」と、サラッと言ってのけたのだった。
私はこれらの諸々の点を見せつけられて、「世上には『売り手市場』や『買い手市場』という表現があるが、アメリカという市場にはその何れも存在せず、“producer's market”即ち製造業者の為の市場」が存在し、彼ら製造業者が支配していると見る方が正確だろう」と唱えてきた。この辺りを別な表現を用いれば、私の上司だった副社長兼事業部長が言ってのけた“We are making the things happen.”が、実態を良く表していると思う。意訳すれば「我々こそが当事者で、事を起こしているのだ」と言っているのだ。
20世紀辺りまでのその現実の形はと言えば、多くの産業界の大手メーカーは自分たちにとって最も都合が良い大量生産に適した設備を導入し、最大の生産効率が上がるようなスペックを設定して大量生産・大量販売して行くのだった。そして需要家や最終消費者に向かって「さー、世界最高の品質と価格を誇る我が社の製品を買え」と、言うなれば押しつけていたのだった。そこには我が国で良く言われる「消費者のニーズに合わせて」という精神は極めて希薄だった。換言すれば、買い手側は言わば“No choice”に近い立場におかれていたのだった。。
そこに中国やアジアの新興国がアメリカにはない最新鋭の製造設備を導入し(初期投資額を考慮しなければ)アメリカの製造業では及びもつかないよう高品質で廉価の製品を売り込み始めたのだから、中間に立つ需要家も最終消費者も惹き付けられていったのだった。それ故に、アメリカの多くの製造業者は苦境に追い込まれ、輸入が定借し空洞化も始まったのだった。そこには労務費の急騰も追い打ちをかけた。我が国からの自動車もその輸入品の攻勢のうちに入るかも知れない。しかも、我が国には優れた技術と教育程度が高い優れた労働力の質があったのだ。
私は永年アメリカに慣れ親しんできて、アメリカの政治の面には余り関心もなかったし、そんなことにまで気を遣っている余裕もなかった。即ち、「支配階層」が如何に強力かを、現場で彼らの中で過ごして、これ以上ないほどに痛感させられていたのだった。民主主義がどうのなどの心配をする前に、如何にして彼らの一員として彼らについて行く(合わせていくか)に懸命に努力するしかないと知った次第だ。言葉を換えれば“job security”(職の安全)に最大の努力をしていたという意味だ。
終わりに、一つオウナー兼経営者の経営面における力が如何に強いかの例を挙げておこう。それは、1970年代の我が社では各事業部の長に製品の価格を変更する(値上げや値引きの意味)権限など認められていなかったのだ。CEOの決裁を仰ぐべしと規定されていた。換言すれば、CEO足る者はここまでの細部に常時目を配っていなければならなかったのだ。良く考えれば当たり前のことで、彼が所有する会社の損益を支配する事案なのである。この辺りまでが、私が恐らく初めて語る「内側で見たアメリカ」の実態だと思う。
昨4日の「アメリカ合衆国はどうなるのだろう」について、畏メル友RS氏から「アメリカの政治は民主主義ではなく、支配階層による政治ではないか」とのご指摘があった。私は鋭い見解だし敬意を表すべき卓見だと受け止めた。そこで、この点について「永年アメリカ側の一員として務めてき」経験と知識に基づいて」考察してみようと思う。
確かに、私が在籍したMeadもWeyerhaeuserも同族(ファミリーというのか名門の一家)が支配する会社で、アメリカは言うに及ばす世界の紙パルプ産業界に輸出力とライセンスの供与等で大いなる影響を与えていた。話は違うかも知れないが、ビル・ゲーツ氏が創業したマイクロソフトが世界に与えた影響などはそれを遙かに上回る影響を世界に与えたのではないか。その点ではGAFAも同様かそれ以上の影響力を発揮しているだろう。
MeadとWeyerhaeuserの経営の状況を見れば、Meadの場合はオウナーのNelson Mead氏はは副社長兼国際部門担当の地位にあって会社の運営を指揮する事がない立場にあり、CEOの職は経営手腕に優れた同族以外の者に任せていた。一方、後者ではファミリーの4代目の当主であるGeorge自らが39歳でCEOに就任して指揮・指導して、会社の規模を飛躍的に拡大していった。私が知る限りのアメリカの大手企業は、概ねこの2社のような経営方式を採っているをと見てきた。勿論、そうではない場合はあるが。
Weyerhaeuserでは(ここでは説明を省くが)嘗ては株式を公開していたが、そこにはファミリー会議という組織が存在し、一族にとって非常に重大な事案は全ファミリーが集合して会議し、多数決で決められていた。一寸聞いただけでは恰もマフィアの会議の感もあるがのだ。私の在職中には、一度そのファミリーがWeyerhaeuserとは別個に株式の大部分を保有する紙パルプの優良企業に同業他社からTOBを掛けられた事があった。その際には、当時東京勤務だったCEOの姪が急遽アメリカに呼び戻されファミリー会議に参加して、TOB拒否が決議されたのだった。
このような形で運営されているのがアメリカ経済の実態を示していると思っている。即ち、一部の少数の富豪が富を独占しているというような見方は一面的だと言えると思う。大手企業を所有する乃至は創業した一族が色々な形で大株主であり、その者たちのご意向で会社が運営されている例が多いのだろうと見てきた。ではあっても、世間で良く言われていることで「アメリカの株主総会ではオウナー一族の代表であるCEOが議長を務め、その冒頭のスピーチでは“Your company ~"と切り出す」というのがある。これはその通りで、私は現実にGeorgeがそう言うのを聞いた。
現在は業界の再編成が続き事態が変わったが、1990年代までの紙パルプ業界の大手の社名にファミリーの名字が入っていないのは、世界最大のInternational Paperのみだった。それほど創業者一族の支配力が強いという例証だろう。他業種を見れば、銀行でもMorganがあるし、ロックフェラー銀行と名乗っていないだけの名門があるではないか。その支配階級は底知れない資産家で、例えばMead家ではオハイオ州デイトンの自宅の敷地内にNCRカントリークラブがあり、当主のNelsonは「あれは家の裏庭(back yard)を貸しているだけ」と、サラッと言ってのけたのだった。
私はこれらの諸々の点を見せつけられて、「世上には『売り手市場』や『買い手市場』という表現があるが、アメリカという市場にはその何れも存在せず、“producer's market”即ち製造業者の為の市場」が存在し、彼ら製造業者が支配していると見る方が正確だろう」と唱えてきた。この辺りを別な表現を用いれば、私の上司だった副社長兼事業部長が言ってのけた“We are making the things happen.”が、実態を良く表していると思う。意訳すれば「我々こそが当事者で、事を起こしているのだ」と言っているのだ。
20世紀辺りまでのその現実の形はと言えば、多くの産業界の大手メーカーは自分たちにとって最も都合が良い大量生産に適した設備を導入し、最大の生産効率が上がるようなスペックを設定して大量生産・大量販売して行くのだった。そして需要家や最終消費者に向かって「さー、世界最高の品質と価格を誇る我が社の製品を買え」と、言うなれば押しつけていたのだった。そこには我が国で良く言われる「消費者のニーズに合わせて」という精神は極めて希薄だった。換言すれば、買い手側は言わば“No choice”に近い立場におかれていたのだった。。
そこに中国やアジアの新興国がアメリカにはない最新鋭の製造設備を導入し(初期投資額を考慮しなければ)アメリカの製造業では及びもつかないよう高品質で廉価の製品を売り込み始めたのだから、中間に立つ需要家も最終消費者も惹き付けられていったのだった。それ故に、アメリカの多くの製造業者は苦境に追い込まれ、輸入が定借し空洞化も始まったのだった。そこには労務費の急騰も追い打ちをかけた。我が国からの自動車もその輸入品の攻勢のうちに入るかも知れない。しかも、我が国には優れた技術と教育程度が高い優れた労働力の質があったのだ。
私は永年アメリカに慣れ親しんできて、アメリカの政治の面には余り関心もなかったし、そんなことにまで気を遣っている余裕もなかった。即ち、「支配階層」が如何に強力かを、現場で彼らの中で過ごして、これ以上ないほどに痛感させられていたのだった。民主主義がどうのなどの心配をする前に、如何にして彼らの一員として彼らについて行く(合わせていくか)に懸命に努力するしかないと知った次第だ。言葉を換えれば“job security”(職の安全)に最大の努力をしていたという意味だ。
終わりに、一つオウナー兼経営者の経営面における力が如何に強いかの例を挙げておこう。それは、1970年代の我が社では各事業部の長に製品の価格を変更する(値上げや値引きの意味)権限など認められていなかったのだ。CEOの決裁を仰ぐべしと規定されていた。換言すれば、CEO足る者はここまでの細部に常時目を配っていなければならなかったのだ。良く考えれば当たり前のことで、彼が所有する会社の損益を支配する事案なのである。この辺りまでが、私が恐らく初めて語る「内側で見たアメリカ」の実態だと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます