何故我が国の労働生産性が低いのか:
紙業タイムス刊行のFuture誌10月26日号の我が国の労働生産性の低いことを採り上げた記事を読んで、私なりに下記のように「何故か」を考えて見た。
私は1972年に初めてアメリカに出張の機会を得て、初めて転進先のMead社でアメリカの生産の現場に入った。その規模には圧倒された。更に75年からウエアーハウザーに転じて紙パルプ産業と関連する業界の製造現場も見学することも出来た。紙の印刷加工業界の現場でやや意外な発見だったことは、世界の最新の設備が導入されていなかったことだ。解りやすく言えば、我が国の方が最新鋭の設備を持っている点である。これは労働生産性の問題と言うよりも、アメリかでは利益が十分に上がらなければ、新規の設備投資はしないという資本主義を貫いていた為であると考えた。
このように初めてアメリカの産業界に接して痛感したことがあった。それは「アメリカの産業界は生産効率を追求する為に『少品種大量生産』に徹している。その為には最小限の人員を配置して人件費等のコスト軽減を図り、それ相当の効果を上げている。それだからこそ労働生産性が高いのではないのか。従って(その当時は)国際市場においても高い競争能力を有していたのではないか」だった。念の為に再度確認して置くが、1970年代後半のことである。
しかも、アメリカの製造業では少品種大量生産に適したようなスペックを設け、需要者の需要動向などに対しては我が国ほど敏感に配慮していないと見えたのだった。カタカナ語にすれば「需要家のニーズ」を満たすことの優先順位は低いようだという意味だ。即ち、飽くまでも生産効率を追求しているのだった。また、生産効率を高め利益を最大化することが株主に報いる為でもあったと私は解釈した。
しかも、アメリカの最終消費者たちは我が国よりも遙かに品質に対して寛容で、その製品が使用目的に叶ってさえいればいれば満足するし、外見が美しいかどうかなどには、特に気にしていないという傾向が顕著なのだ。その点については、これまでに繰り返して指摘して来た「アメリカの労働力の質の低さがもたらす製品の質に対して敏感ではない」ということだ。極論を言えば、そうであるからこそ、細かい点にまで配慮が行き届いた日本車が「品質が良い」と受け入れられ良く売れたのだと考えている。
一方の我が国では、私は「多品種少量生産に徹していて、労働力の質の高さと高い技術力で高品質の製品を生み出し、国際競争力までをも高めることに成功していた」のだった。その背景に「労働力の教育程度が高く、器用に小回りする技術的な能力があったこと」があった。更に、嘗ては「二重構造」などと自虐的に呼んでいた下請けの中小企業の職人技的技術力の有効活用があったと考えるようになった。下請けの能力の高さを表す例には、紙パルプ産業の関連産業である印刷業界には、その高い技術力を活かして下請けに徹し、営業担当者不在の中小印刷業者があったほどだった。
私は「下請けの中小能力に依存してきたことだけが、労働生産性の低さを招いたということの主たる原因である」とまで断定するものではない。だが、そう考えても良いような要素はあると思っている。我が国の労働生産性が他国との比較で低いのは、取りも直さず中小企業の数が圧倒的に多いことにあるようには思える。Future誌の記事を読んで思い出したのは「アメリカで経験した限りでは、中小企業を下請けにしている例を知らない。ウエアーハウザーには多くの大小の出入り業者があったが、下請け(sub-contractor)という言葉を聞いたことはなかった」事だった。
今になって気が付いたことがあった。それは、昨日採り上げた世界各国の労働生産性の上位の国のリストには中国が一度も登場してこなかった点だった。何故だろう?
紙業タイムス刊行のFuture誌10月26日号の我が国の労働生産性の低いことを採り上げた記事を読んで、私なりに下記のように「何故か」を考えて見た。
私は1972年に初めてアメリカに出張の機会を得て、初めて転進先のMead社でアメリカの生産の現場に入った。その規模には圧倒された。更に75年からウエアーハウザーに転じて紙パルプ産業と関連する業界の製造現場も見学することも出来た。紙の印刷加工業界の現場でやや意外な発見だったことは、世界の最新の設備が導入されていなかったことだ。解りやすく言えば、我が国の方が最新鋭の設備を持っている点である。これは労働生産性の問題と言うよりも、アメリかでは利益が十分に上がらなければ、新規の設備投資はしないという資本主義を貫いていた為であると考えた。
このように初めてアメリカの産業界に接して痛感したことがあった。それは「アメリカの産業界は生産効率を追求する為に『少品種大量生産』に徹している。その為には最小限の人員を配置して人件費等のコスト軽減を図り、それ相当の効果を上げている。それだからこそ労働生産性が高いのではないのか。従って(その当時は)国際市場においても高い競争能力を有していたのではないか」だった。念の為に再度確認して置くが、1970年代後半のことである。
しかも、アメリカの製造業では少品種大量生産に適したようなスペックを設け、需要者の需要動向などに対しては我が国ほど敏感に配慮していないと見えたのだった。カタカナ語にすれば「需要家のニーズ」を満たすことの優先順位は低いようだという意味だ。即ち、飽くまでも生産効率を追求しているのだった。また、生産効率を高め利益を最大化することが株主に報いる為でもあったと私は解釈した。
しかも、アメリカの最終消費者たちは我が国よりも遙かに品質に対して寛容で、その製品が使用目的に叶ってさえいればいれば満足するし、外見が美しいかどうかなどには、特に気にしていないという傾向が顕著なのだ。その点については、これまでに繰り返して指摘して来た「アメリカの労働力の質の低さがもたらす製品の質に対して敏感ではない」ということだ。極論を言えば、そうであるからこそ、細かい点にまで配慮が行き届いた日本車が「品質が良い」と受け入れられ良く売れたのだと考えている。
一方の我が国では、私は「多品種少量生産に徹していて、労働力の質の高さと高い技術力で高品質の製品を生み出し、国際競争力までをも高めることに成功していた」のだった。その背景に「労働力の教育程度が高く、器用に小回りする技術的な能力があったこと」があった。更に、嘗ては「二重構造」などと自虐的に呼んでいた下請けの中小企業の職人技的技術力の有効活用があったと考えるようになった。下請けの能力の高さを表す例には、紙パルプ産業の関連産業である印刷業界には、その高い技術力を活かして下請けに徹し、営業担当者不在の中小印刷業者があったほどだった。
私は「下請けの中小能力に依存してきたことだけが、労働生産性の低さを招いたということの主たる原因である」とまで断定するものではない。だが、そう考えても良いような要素はあると思っている。我が国の労働生産性が他国との比較で低いのは、取りも直さず中小企業の数が圧倒的に多いことにあるようには思える。Future誌の記事を読んで思い出したのは「アメリカで経験した限りでは、中小企業を下請けにしている例を知らない。ウエアーハウザーには多くの大小の出入り業者があったが、下請け(sub-contractor)という言葉を聞いたことはなかった」事だった。
今になって気が付いたことがあった。それは、昨日採り上げた世界各国の労働生産性の上位の国のリストには中国が一度も登場してこなかった点だった。何故だろう?
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