小学校3年から英語を教えようという愚策等々:
昨日も我が国の英語教育の問題点を取り上げたので、今回はその続編であり改善すべきだと思う点をを取り上げていく。
私は我が国の英語教育には数々の問題点があると見ているが、先ず文部科学省か教育審議会に伺いたいことは「何の目的で英語を教えておられるのですか」だ。実は、私はこの件については既に30年も前に自分で答えを出していたのだ。それは「英語が話せるようにしようとして教えていない。児童、生徒、学生たちに成績の優劣5段階で評価するのが目的」と、ある高校の女性の英語教師が断言したと指摘してあったことを指しているのだ。実用性など眼中にはないのだ。
だが、我が国には未だに「拙い英語で語った」とか「下手な英語で何とか説明した」などと卑下されたと言うよりも「嘆く」方が多いのだ。また、ノーベル賞受賞者の方が授賞式の場でのスピーチで“I cannot speak English.”などと言い出されたりするのだ。これなどは典型的な困った現象で、実際に「英語が出来ません」と英語で言っているのだ。
私に言わせれば「私は英語が下手なので、日本語で語ります」、即ち“I am not so good at speaking English. So, let me speak in Japanese.”のようには言って欲しかったのだ。「この程度の表現の使い分けすら出来ない教え方を、これから先に何年続ける気なのか」と問い質したくもなるのだ。これも、単語重視の教育の好ましくない結果の一つだろうと思う。
私は今日までに繰り返して「我が国は世界にも希な英語を介さずしてあらゆる分野の学問を習得できる国であるから、万人に英語教育を押しつける意義はそれほどないのでは」と指摘してきた。確かに、現在では英語が国際語となって世界の何処の国に行っても、英語が通じるようになっている。だが、それはただ単に買い物が出来るとか食事の注文が出来るという程度のことで、如何なる階層の人、乃至は知識階級の人たちと満足な意志疎通が出来ると言う次元のことではないのだ。
我が国の何パーセントの方が、例えばアメリカにでも個人で旅行されて、国会議員か大企業の幹部クラスのエリートと真剣に重要な会談をする機会が訪れるのだろうか。そんなあり得ないだろうことの為に、高度な英語を勉強する必要はないと思う。だから言うのだ「私のように英語で思うように意思表示が出来なれば仕事にならないような職を選んだか、海外に出て研究なり現地人たちの中に入って指導的な地位に就こうと目指されるのでもなければ、高度な英語力などは不要なのではないか」と。
ある有識者は言われたことが印象的だった。それは「英語教育の強化を唱える人たちは、自分の英語力が低かった為にかいた恥と屈辱を、後進(次世代?)に味合わせたくないが為に、英語教育の高度化と低年齢化を言うのだ」だった。私は現在までの教え方を継続する以上、先ずnative speakerに近いような話し方というか“I know how to express myself in English.”という領域には達することはないだろうと見ている。その教え方を小学校3年にまで降ろしても、結果は変わらないのではないのか。
また、外務省出身の宮家邦彦氏は産経新聞誌上で「英語を話せない教師が教えていては、児童や生徒が英語で話せるようになる訳がない」と喝破しておられた。尤もだと思って拝読した。
では、何処をどのように直せば良いのかだが、私は繰り返して私の勉強法だった「音読・暗記・暗唱」に加えて「単語帳と単語カードの廃止」である単語重視の教え方を止めること。さらに、英文解釈、和文英訳(英作文)、文法等々のように生き物である言葉を分割してバラバラに教えることは得策ではないことも強調しておきたい。私はこれらを全部は音読・暗記・暗唱で克服してきたと敢えて強調しておく。現に、アメリカ人たちに「君は学者だから」と言って「英文法」についての質問をされたことが何度もあった。
私が大学に入って「彼の英語力には到底太刀打ちできない」と脱帽したK君の勉強法はほぼ私と同じだったのには大いに意を強くした。彼はその英語だけではなかった優れた学力で、3年になったときに大学からアメリカのイエズス会系の大学に推薦されて転じていった。
次に強調しておきたいことは「native speakerに教えさせることを再考すべきだ」という点である。最も重要だと思う点は「彼らは日本人がどんな事で悩むか」は解らないことだ。我が国ではidiomもslangもチャンと教えていないとは知らずに来ていると思うべきなのだ。それだけではない、何度も言ってきたことで「アメリカでも何処でも、自国で立派に身を立てることが出来る者は、何もわざわざ我が国まで英語を教えにやってくることはない」のである。第一に、受け入れる側がその外国人の英語に品格があるのかを判定できるのかという問題がある。
アメリカではその出身の地域によってはとんでもない訛りがある。典型的な例が南部訛りだ。私は西海岸が正調アメリカ語だと信じている。UKだってLondon Cockneyという妙なアクセントがあるし、オーストラリアには「オーストライリア」と訛る人たちがいるのだ、“I came here today”を「アイ・カイム・ヒア・トウダイ(to die)」と発音する人がいるのだ。そういう訛りやアクセントのある英語を覚えてどうするのかということだ。
アメリカでIvy League級の大学でMBAを取得したエリートが英語教師や助教になろうと思って、我が国まで機会を求めてやってくる訳がないだろう。私の長年の主張は「本当に実力があって長い間アメリカ人たちの中で、日常的に英語で仕事をしてこられた方たちが、経験を基にして教えれば良いだろう」なのだが、私はそういう数多くの練達熟練の方々に出会って来た。だが、残念ながら、彼らには教員の資格などないのだ。あーあ。
昨日も我が国の英語教育の問題点を取り上げたので、今回はその続編であり改善すべきだと思う点をを取り上げていく。
私は我が国の英語教育には数々の問題点があると見ているが、先ず文部科学省か教育審議会に伺いたいことは「何の目的で英語を教えておられるのですか」だ。実は、私はこの件については既に30年も前に自分で答えを出していたのだ。それは「英語が話せるようにしようとして教えていない。児童、生徒、学生たちに成績の優劣5段階で評価するのが目的」と、ある高校の女性の英語教師が断言したと指摘してあったことを指しているのだ。実用性など眼中にはないのだ。
だが、我が国には未だに「拙い英語で語った」とか「下手な英語で何とか説明した」などと卑下されたと言うよりも「嘆く」方が多いのだ。また、ノーベル賞受賞者の方が授賞式の場でのスピーチで“I cannot speak English.”などと言い出されたりするのだ。これなどは典型的な困った現象で、実際に「英語が出来ません」と英語で言っているのだ。
私に言わせれば「私は英語が下手なので、日本語で語ります」、即ち“I am not so good at speaking English. So, let me speak in Japanese.”のようには言って欲しかったのだ。「この程度の表現の使い分けすら出来ない教え方を、これから先に何年続ける気なのか」と問い質したくもなるのだ。これも、単語重視の教育の好ましくない結果の一つだろうと思う。
私は今日までに繰り返して「我が国は世界にも希な英語を介さずしてあらゆる分野の学問を習得できる国であるから、万人に英語教育を押しつける意義はそれほどないのでは」と指摘してきた。確かに、現在では英語が国際語となって世界の何処の国に行っても、英語が通じるようになっている。だが、それはただ単に買い物が出来るとか食事の注文が出来るという程度のことで、如何なる階層の人、乃至は知識階級の人たちと満足な意志疎通が出来ると言う次元のことではないのだ。
我が国の何パーセントの方が、例えばアメリカにでも個人で旅行されて、国会議員か大企業の幹部クラスのエリートと真剣に重要な会談をする機会が訪れるのだろうか。そんなあり得ないだろうことの為に、高度な英語を勉強する必要はないと思う。だから言うのだ「私のように英語で思うように意思表示が出来なれば仕事にならないような職を選んだか、海外に出て研究なり現地人たちの中に入って指導的な地位に就こうと目指されるのでもなければ、高度な英語力などは不要なのではないか」と。
ある有識者は言われたことが印象的だった。それは「英語教育の強化を唱える人たちは、自分の英語力が低かった為にかいた恥と屈辱を、後進(次世代?)に味合わせたくないが為に、英語教育の高度化と低年齢化を言うのだ」だった。私は現在までの教え方を継続する以上、先ずnative speakerに近いような話し方というか“I know how to express myself in English.”という領域には達することはないだろうと見ている。その教え方を小学校3年にまで降ろしても、結果は変わらないのではないのか。
また、外務省出身の宮家邦彦氏は産経新聞誌上で「英語を話せない教師が教えていては、児童や生徒が英語で話せるようになる訳がない」と喝破しておられた。尤もだと思って拝読した。
では、何処をどのように直せば良いのかだが、私は繰り返して私の勉強法だった「音読・暗記・暗唱」に加えて「単語帳と単語カードの廃止」である単語重視の教え方を止めること。さらに、英文解釈、和文英訳(英作文)、文法等々のように生き物である言葉を分割してバラバラに教えることは得策ではないことも強調しておきたい。私はこれらを全部は音読・暗記・暗唱で克服してきたと敢えて強調しておく。現に、アメリカ人たちに「君は学者だから」と言って「英文法」についての質問をされたことが何度もあった。
私が大学に入って「彼の英語力には到底太刀打ちできない」と脱帽したK君の勉強法はほぼ私と同じだったのには大いに意を強くした。彼はその英語だけではなかった優れた学力で、3年になったときに大学からアメリカのイエズス会系の大学に推薦されて転じていった。
次に強調しておきたいことは「native speakerに教えさせることを再考すべきだ」という点である。最も重要だと思う点は「彼らは日本人がどんな事で悩むか」は解らないことだ。我が国ではidiomもslangもチャンと教えていないとは知らずに来ていると思うべきなのだ。それだけではない、何度も言ってきたことで「アメリカでも何処でも、自国で立派に身を立てることが出来る者は、何もわざわざ我が国まで英語を教えにやってくることはない」のである。第一に、受け入れる側がその外国人の英語に品格があるのかを判定できるのかという問題がある。
アメリカではその出身の地域によってはとんでもない訛りがある。典型的な例が南部訛りだ。私は西海岸が正調アメリカ語だと信じている。UKだってLondon Cockneyという妙なアクセントがあるし、オーストラリアには「オーストライリア」と訛る人たちがいるのだ、“I came here today”を「アイ・カイム・ヒア・トウダイ(to die)」と発音する人がいるのだ。そういう訛りやアクセントのある英語を覚えてどうするのかということだ。
アメリカでIvy League級の大学でMBAを取得したエリートが英語教師や助教になろうと思って、我が国まで機会を求めてやってくる訳がないだろう。私の長年の主張は「本当に実力があって長い間アメリカ人たちの中で、日常的に英語で仕事をしてこられた方たちが、経験を基にして教えれば良いだろう」なのだが、私はそういう数多くの練達熟練の方々に出会って来た。だが、残念ながら、彼らには教員の資格などないのだ。あーあ。
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