一服の清涼剤だった:
いきなり陳腐な見出しで始めることをお許し願いたい。実は「一服の清涼剤」とは言ってみたが如何なる意味かを確かめたことがなかったの検索してみるとGooの辞書に“清涼剤のように、気持ちをさわやかにしてくれる事柄。「子供の笑顔が一服の清涼剤になった」”とあったので、そのまま引用する次第だ。そこで、我が国の報道機関の時代遅れとしか思えない感覚を、以下に遠回しに論じてみようかと考えた次第。
昨日も取り上げた西村康稔大臣の器量の問題と言い、第5波かとマスコミがまたまた騒ぎ始めた感染拡大と言い、想定してあったのかなかったのかと言いたくなるようなやってきた外国選手団に生じた「濃厚接触者の判定」を合宿先の地方の保健所に委ねる件と言い、明るくない話題が多過ぎているこの時期である。そこに「日本人初の快挙」が幾つも幾つも並び立っている大谷翔平君のMLBのオールスターゲーム(ASG)における打って投げた両面の活躍の様子は、これ以上何があるかと言いたい程の明るい“good news”である。私はマスコミが幾ら過剰に騒ぎ立てても批判したりはしない。
何度も採り上げて論じてきたことで、アメリカという異文化の國の、それも国民的な娯楽であるMajor League Baseball(断じてmajorは「メジャー」とは発音しない)に単身で乗り込んであそこまで実績を挙げて、どうやらアメリカ全土での人気を集めているスターの地位を獲得した大谷君には「偉い、良くやった」と幾ら褒めても褒めたりないと思う。下世話なことを言えば、どちらかと言えば弱小球団のように見えるLos Angeles Angels(これも断じて「エンゼルス」ではなくて「エインジェルス」が最も近い)が、大谷君に来年は幾ら年俸を払えば良いのかと心配している。
今日までに私は何度か「滅多に人を褒めない貴方が褒めるのだから、その人はよっぽど凄いのだろうな」と揶揄された程、褒めないのであるようだ。W社ジャパンの社長だったF氏には「君は何故何時でもそのようにnegativeなのか」と尋ねられたことがあった。返答に窮して「それは物事を広く深く知ろうとすればする程、他人様のことでも世間で起きている事象でも、仕事の面でも裏まで見えてくるものである。その他人様には見えない裏の事情を見えるままに語っているのだが」と答えたのが、理解して貰えたかどうかは解らなかった。
閑話休題。私は我が国のマスコミと言うべきかマスメディアとするのが適切かどうか解らずに論じたい話題がある。それは「彼らが好んで取り上げて大きく報じる出来事」に「日本人の誰でもが(彼らが尊敬して止まない)世界の先進国のありとあらゆる分野で外国人に勝るとも劣らない活躍をするか、学問や科学の分野で実績を挙げられたこと」があるのだ。その範囲は広くノーベル賞から今週の出来事だったMLBのASGにおける大谷君までがある。彼があそこまで成し遂げたので、先人の野茂英雄や松井秀喜をも思い出させて貰えた。サッカーには三浦知良だっていたじゃないか。
ここまで来ると、矢張り「褒めない私」が頭を持ち上げてくる。それは「我が国の報道機関は何時まで我が国が戦後の復興期から立ち上がって、漸く遙か先に進んでいたアメリカやヨーロッパの國に追い付こうとするようになった頃の、外国に憧れていた時期の殻を未だに引き摺っていること」である。「我が国は既に外国とあらゆる分野で肩を並べただけではなく、追い抜いたではないか」と無邪気に喜んで、視聴者にも「我々とともに喜びなさい。英雄たちに拍手を送りなさい」と促してくるのだ。
何十年前だったかに「最早戦後ではない」と言われ時期があった。その頃は「確かにそうだ」との実感があった。1972年に初めてアメリカに出掛けて見て「未だ未だ追いつけてはいなかった」という実感もあった。彼らの感覚はその頃の儘で思考停止しているのではないのか。そこで彼等にこの台詞をそのまま進呈したいのである。
我が国は大谷君の大活躍で世界というか、アメリカ全土に認めて貰えるか認知されなければ、その存在が世界に知られることがないような後進国ではないのだ。彼らマスメディアだってそれくらいは承知しているはずだ。だからこそ、中国に次ぐ世界第3の経済大国だと言って報じているではないか。だが、彼らは中国の紙類の人口1人当たりの消費量が我が国の30%程度であり、先日採り上げたばかりの衛生用紙の消費量でも、我が国の15.57 kgに対して6.25 kgだったというような情報には見向きもしないのだ。
私が主張したいことは「我が国はG7の一員でもあることが示すように、今更外国に進出して表彰された業績であるとか、外国人を凌駕したと喜んでいる時期を遙かに通り越しているのだ。それを未だにノーベル賞をアジアの中で最も多く受賞したとか、何処の国のどの産業界で最大のシェアーホールダーであるとかいうことを騒ぎ立てる段階にある国ではない」なのだ。即ち、彼らの自虐的であり、世界の何処にも通用しない「謙り」が美徳であるかのような時代遅れの姿勢を批判したいのである。
大谷翔平君の大活躍で思い出したことがある。それは1940年代末期か50年に入った頃だったか。当時住んでいた藤沢の鵠沼のご近所さんに個人会社で輸出入を営んでおられる方がおられた。その社長さんが非常に嬉しそうであり且つ誇らしげに「喜んで下さい。私の会社も遂にアメリカに輸出が出来るところまで認められました」と語られたのだった。ご近所一同は素直に喜びを分かち合ったのだった。あれから70年近くも過ぎている。間違っていたらご免なさいだが、私には「我が国の報道機関は未だにその頃の感覚から乳離れ出来ていないのではないか」としか見えないのだ。
いきなり陳腐な見出しで始めることをお許し願いたい。実は「一服の清涼剤」とは言ってみたが如何なる意味かを確かめたことがなかったの検索してみるとGooの辞書に“清涼剤のように、気持ちをさわやかにしてくれる事柄。「子供の笑顔が一服の清涼剤になった」”とあったので、そのまま引用する次第だ。そこで、我が国の報道機関の時代遅れとしか思えない感覚を、以下に遠回しに論じてみようかと考えた次第。
昨日も取り上げた西村康稔大臣の器量の問題と言い、第5波かとマスコミがまたまた騒ぎ始めた感染拡大と言い、想定してあったのかなかったのかと言いたくなるようなやってきた外国選手団に生じた「濃厚接触者の判定」を合宿先の地方の保健所に委ねる件と言い、明るくない話題が多過ぎているこの時期である。そこに「日本人初の快挙」が幾つも幾つも並び立っている大谷翔平君のMLBのオールスターゲーム(ASG)における打って投げた両面の活躍の様子は、これ以上何があるかと言いたい程の明るい“good news”である。私はマスコミが幾ら過剰に騒ぎ立てても批判したりはしない。
何度も採り上げて論じてきたことで、アメリカという異文化の國の、それも国民的な娯楽であるMajor League Baseball(断じてmajorは「メジャー」とは発音しない)に単身で乗り込んであそこまで実績を挙げて、どうやらアメリカ全土での人気を集めているスターの地位を獲得した大谷君には「偉い、良くやった」と幾ら褒めても褒めたりないと思う。下世話なことを言えば、どちらかと言えば弱小球団のように見えるLos Angeles Angels(これも断じて「エンゼルス」ではなくて「エインジェルス」が最も近い)が、大谷君に来年は幾ら年俸を払えば良いのかと心配している。
今日までに私は何度か「滅多に人を褒めない貴方が褒めるのだから、その人はよっぽど凄いのだろうな」と揶揄された程、褒めないのであるようだ。W社ジャパンの社長だったF氏には「君は何故何時でもそのようにnegativeなのか」と尋ねられたことがあった。返答に窮して「それは物事を広く深く知ろうとすればする程、他人様のことでも世間で起きている事象でも、仕事の面でも裏まで見えてくるものである。その他人様には見えない裏の事情を見えるままに語っているのだが」と答えたのが、理解して貰えたかどうかは解らなかった。
閑話休題。私は我が国のマスコミと言うべきかマスメディアとするのが適切かどうか解らずに論じたい話題がある。それは「彼らが好んで取り上げて大きく報じる出来事」に「日本人の誰でもが(彼らが尊敬して止まない)世界の先進国のありとあらゆる分野で外国人に勝るとも劣らない活躍をするか、学問や科学の分野で実績を挙げられたこと」があるのだ。その範囲は広くノーベル賞から今週の出来事だったMLBのASGにおける大谷君までがある。彼があそこまで成し遂げたので、先人の野茂英雄や松井秀喜をも思い出させて貰えた。サッカーには三浦知良だっていたじゃないか。
ここまで来ると、矢張り「褒めない私」が頭を持ち上げてくる。それは「我が国の報道機関は何時まで我が国が戦後の復興期から立ち上がって、漸く遙か先に進んでいたアメリカやヨーロッパの國に追い付こうとするようになった頃の、外国に憧れていた時期の殻を未だに引き摺っていること」である。「我が国は既に外国とあらゆる分野で肩を並べただけではなく、追い抜いたではないか」と無邪気に喜んで、視聴者にも「我々とともに喜びなさい。英雄たちに拍手を送りなさい」と促してくるのだ。
何十年前だったかに「最早戦後ではない」と言われ時期があった。その頃は「確かにそうだ」との実感があった。1972年に初めてアメリカに出掛けて見て「未だ未だ追いつけてはいなかった」という実感もあった。彼らの感覚はその頃の儘で思考停止しているのではないのか。そこで彼等にこの台詞をそのまま進呈したいのである。
我が国は大谷君の大活躍で世界というか、アメリカ全土に認めて貰えるか認知されなければ、その存在が世界に知られることがないような後進国ではないのだ。彼らマスメディアだってそれくらいは承知しているはずだ。だからこそ、中国に次ぐ世界第3の経済大国だと言って報じているではないか。だが、彼らは中国の紙類の人口1人当たりの消費量が我が国の30%程度であり、先日採り上げたばかりの衛生用紙の消費量でも、我が国の15.57 kgに対して6.25 kgだったというような情報には見向きもしないのだ。
私が主張したいことは「我が国はG7の一員でもあることが示すように、今更外国に進出して表彰された業績であるとか、外国人を凌駕したと喜んでいる時期を遙かに通り越しているのだ。それを未だにノーベル賞をアジアの中で最も多く受賞したとか、何処の国のどの産業界で最大のシェアーホールダーであるとかいうことを騒ぎ立てる段階にある国ではない」なのだ。即ち、彼らの自虐的であり、世界の何処にも通用しない「謙り」が美徳であるかのような時代遅れの姿勢を批判したいのである。
大谷翔平君の大活躍で思い出したことがある。それは1940年代末期か50年に入った頃だったか。当時住んでいた藤沢の鵠沼のご近所さんに個人会社で輸出入を営んでおられる方がおられた。その社長さんが非常に嬉しそうであり且つ誇らしげに「喜んで下さい。私の会社も遂にアメリカに輸出が出来るところまで認められました」と語られたのだった。ご近所一同は素直に喜びを分かち合ったのだった。あれから70年近くも過ぎている。間違っていたらご免なさいだが、私には「我が国の報道機関は未だにその頃の感覚から乳離れ出来ていないのではないか」としか見えないのだ。
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