ニヒリズム―その概念と歴史〈上〉理想社このアイテムの詳細を見る |
ここでは、私という概念の可能性を探求して行きたい。1/25日に提出した卒業論文での議論をさらに拡張させ、今を生きる私たちに応用するという試みがこの「<私>の可能性 」である。このブログでのジャンルが、ビジネスの中のスキルという区分となっているのも、哲学というものを実生活に役立てるという、役立ちうるということを証明しようという私のライフワークのマニフェストである。
さて、以下、卒業論文での議論に加筆修正を施したものである。
まずは、サルトルという人物の哲学思想が、いかに、今を生きる私たちに応用されうるかということを見る前に、今と時代の気分をみておこう。
【ニヒリズム、神なき時代を克服するサルトル思想】
サルトルが対自-即自をして自己原因者たらしめるにいたった神なき時代の実相というものを見ていこう。サルトル自身は、「1848年。王政の瓦解によって、ブルジョワジーは自分をも守ってくれた『覆い』を奪い去られる。一挙に<詩>は、その伝統的な二つのテーマ、すなわち<人間>と<神>とを失う。」 (J-P・サルトル,平井啓之,渡辺守章(訳)『マラルメ論』中央公論社,1983年,27頁)というように、1848年の二月革命によりナポレオンが大統領として即位したことを「神なき時代」の幕開けとして捉えているようだが、ここでは、哲学の範疇でそれを捉えられればと思う。
【ニヒリズムの概念】
先の(ここも、次以降のブログを参照人されたい)サルトルの「神なき時代」の引用から見えることはどういうことであろうか?神なき時代が意味するところは、これまで頼りにしてきた価値観が崩壊を意味するということはいうまでもない。「神の喪失はニヒリズムの問題を提起する。その根底には根拠の喪失がある。根拠の喪失をさらに遡れば、究極根拠のとしての神の喪失、神の死がある」(岩波哲男『ニヒリズム-その概念と歴史』(上)理想社,2005年,65頁)というように、対自-即自存在としての人間存在が自ら神性を打ち立て、自己原因者たりえなければならない原因としては(このことに関しては、ここでは、次のブログを参照されたい)、根拠の喪失としての神の喪失がある。