本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

サルトルとハイデガー : 松山情報発見庫#378

2006-01-05 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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続いては、Ⅱのモラルとエクリチュールのまずは、第一章呼びかけとは何か という部分についてみていこう。
ここでまず指摘されているのは、ハイデガーとの違いということだ。

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一つ目に、ハイデガーにおいては、呼びかけというのは、一方向的なものであるが、サルトルにおいては、双方向的なものであるという点。
これは、ハイデガーの『存在と時間』からの次の3つの引用との比較で述べられている。

「呼ぶことをわれわれは語りのひとつの様態として捉える。語りとは、了解可能なものごとを分節するものである。両親を呼び声として性格づけることは、たとえばカントが良心を法廷として描いたような、たんなる『比喩』に尽きるものではない。ただ、ここで見逃してはならにことは、語りには-したがって呼び声には-発声的な表現が本質的な条件ではないということである。むしろ、いかなる発生的な言明や叫びも、すでに語りを前提にしているのである。」(本書80-81頁より『存在と時間』(以下SZ)272頁)

「呼ぶものは誰かという問いをこと改めて提出する必要が、そもそもあるだろうか。この問いは、呼び声において呼びかけられているものが誰であるかという問いと同様に、現存在の中ですでに一義的に答えられているのではあるまいか。すなわち、現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいるのである。」(SZ275頁)

「現存在は呼ぶものであるとともに呼びかけるものでもある」(SZ275頁)

まず③は、ハイデガーにおいては、十分ではない、とされており、サルトルにおいては、この双方向性こそが重要であるとされている。
ハイデガーにおいては、現存在が良心の呼び声によって呼びかけられるものであるとしているようだ。

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二つ目は、世界内存在としてハイデガーにおいて捉えられているいわば共同体についての違いである。
ハイデガーにおいては、共同体というものは出発点になるというようである。これは、先のSZにおいて、

「運命的な現存在は、世界内存在たる限り、本質上、ほかの人々の共同存在において実存しているのであるから、その現存在の生起は共同生起であり、共同運命という性格を帯びる。それはすなわち、共同体の、民族の生起のことである。共同運命はさまざまな個別的運命から合成されるものではない。このことは、相互存在が、いくつかの主観の集合的出現という意味のものではないのと同様である。個々人の運命は、同一の世界の相互存在において、そして特定の可能性への覚悟性において、初めからすでに導かれていたのである。その共同運命に備わる威力は相互伝達と戦いとの中で、初めて発揮される。」(384頁)

というように述べられている。
しかし、サルトルにとってこのような共同体というものは不在である。
先にも述べたように、「実存は本質に先立つ」という命題からも見えてくるように、実存の上位概念として共同体というものを置くのではなくて、実存が呼びかけにより相互に形作るものとして共同体の可能性は示唆されている。

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サルトルと読者 : 松山情報発見庫#377

2006-01-04 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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まずは、Ⅰの文学と哲学をつなぐもの
という部分の要約から
この部分で澤田氏が指摘しているのは、サルトルが、彼の後にウンベルト・エーコが『物語の読者』などで「〔読者は〕物語るという行為の要素としてだけではなく、物語そのものの要素として、いつでも必要なのだ」と述べる以前に、
読者の重要性を説いていたということ。
また、サルトルにおいては、その作者と読者の関係というものは、呼びかけという様態で示されており、それは、サルトルが後に『存在と無』『倫理学ノート』などで述べるような対他関係へとつながっていくということである。

以上のことをサルトルの言葉をこの本から抜き出すことで見ておこう。
サルトルが読者の位置づけをクローズアップさせたのが、一般的にアンガジュマン文学としての印象をもたれている『文学とは何か』という本にてである。
一般的には、サルトルというと、
特定の政治思想を伝えるメッセージとしての小説というものを重視しているというイメージがあるが、澤田氏の指摘によると、
サルトルがこの本で、伝えようとしていたのは、「〈呼びかけ〉としての文学」(20頁)であるという。
このことは、

「書くものは、読むもの自由に向かって書き、読むものにその作品を存在させることを要求する。しかし、それだけではなく、読むものが彼の与えた信用を返してくれることを要求し彼らが彼ら自身の創造的自由を承認することを要求し、読むものの側でも対称的に逆から呼びかけを行って、書くものの側の自由を喚起してくれることを要求するのだ。そこで、読むことのもうひとつの弁証法的逆説が現れる。われわれが、われわれ自身の自由を感じれば感じるほど、われわれは他人の自由を承認するし、他者が我々に要求すれば要求するほど、我々は他社に要求するようになるのである。」(本書23頁,『文学とは何か』からの引用として)

これは、澤田氏も述べるようにエーコだけではなく、バルトなどの読者論、作者の死などにも通じることである。
また、この読者論で述べられていることは、その人間存在の形態を対自存在の自由を条件とするサルトルの人間存在論へと通じていくことになる。
これまでに、ここで幾度か、対自-即自存在については見てきたので詳しい説明は省略するが、サルトルの人間存在論は、「実存は本質に先立つ」という実存主義の命題を元に成り立つ。
このことは、澤田氏も指摘するように、実存、つまりはここでは人間存在についてその上位概念としてたとえば、日本人であるとか、何々主義であるというようなものを認めない。
ということは、対他的状況において他社との共通項を持たないということになる。

共通項のない状態で倫理というものが成り立つのか?
成り立たないゆえにサルトルのモラル論は不在である。
というのが、澤田氏以前の去るとるモラル論に対する見解であったようだが、澤田氏は、
「モラルの不可能性こそがモラルを要請し、伝達の不可能性こそが伝達を要請する」(65頁)
というように指摘し、以降でサルトルのモラル論の構築を試みていく。
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正しい?!保健体育のお時間。 : 松山情報発見庫#376

2006-01-03 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
正しい保健体育

理論社

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実際、ある意味正しい保健体育かもしれません。
フロイトとか、フーコーとかのいいそうなことをさらりとかっこよく、すこしおふざけにも見えなくもない口調で核心に迫る勢いで語ってしまっています。
著者が、あのみうらじゅんで、
この本が、中高生むけで身近な疑問に答えようという趣旨の理論社「よりみち パン!セ」シリーズなのもびっくりだ。

もし、自分が中高生のころにこんな本を読んでいたら、どんな気持ちになっていただろうか?
次の日、学校に行って隣の席の女の子を直視できなかったかもしれない。
楽しい本ですので、お気軽にどうぞ。
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初KING CRIMSON : 松山情報発見庫#375

2006-01-02 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
In The Court Of The Crimson King: 30th Anniversary Edition [Remastered]
King Crimson
Caroline

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歌詞の内容はこのサイト(KING CRIMSON和訳集)に掲載されているので、参照されたい。
いぜんから、レディオヘッドのライナーノーツでクリムゾンという名前自体はよく聞いていた・・・
やられた・・・
一曲目のタイトルがいきなり、「21stセンチュリースキゾイドマン(21世紀の精神分裂者)」だ。
レディオヘッドがドラッグが禁止された中で人生という「不条理」を生きていかなければならないうえでの苦しみの中でもがき苦しむ様子を描いているとしたら、おそらくこのキング・クリムゾンの音楽は、ドラッグを使ってまで生きようとしてしまったことの苦痛を描いているのかもしれない。

歌詞など読まずに聴いているだけだと、レディオヘッドの中の美しい曲を聞くような感慨に駆られるのみだが、歌詞の内容に突っ込むと、さらに音にドライブされ憂鬱さに襲われる曲だ。
甘美な憂鬱に浸りたいときにはぜひともお勧めな音楽だ。

ちなみにこのアルバムが出たのは、1969年ころとのこと。
僕にとって見ればこんな昔にこんな音楽があったと思うと時代を生きる人というのはいつもなにかしら精神を病みながらも懸命に生きているのだというメッセージに思える。
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新年の抱負 : 松山情報発見庫#374

2006-01-01 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
詩集 念ずれば花ひらく

サンマーク出版

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新年明けましておめでとうございます。
抱負がてら坂村真民さんのことばを。

  何かをしよう

何かをしよう
みんなの人のためになる
何かをしよう
よく考えたら自分の体に合った
何かがある筈だ
弱い人には弱いなりに
老いた人には老いた人なりに
何かがある筈だ
生かされて生きているご恩返しに
小さいことでもいい
自分に出来るものを探して
何かをしよう
一年草でもあんなに美しい花をつけて
終わってゆくではないか

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去年の暮れに、夜回り先生の特集がテレビでやっていて、
もし今幸せを感じなかったり、孤独だったりしたら
他の人のために、幸せを配りましょう。善いことをしましょう。
というメッセージがあった。
今年はすぐに腹を立てず、ふてくされず、ひとに良い事が出来るよい年にしたい。
今年からは、お年玉をもらう側から上げる側になるし、
社会人になるし、
自分にとっても、皆様にとっても、幸せでいっぱいの素敵な一年でありますように。
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