杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

「見直そう地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値」その2

2009-07-11 10:38:15 | しずおか地酒研究会

財団法人静岡観光コンベンション協会賛助会員の集い2009

トークセッション『見直そう、地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値~静岡の酒造りに見る地域力』

 

■日時 2009年7月9日(木) 15時~16時50分

■場所 ホテルセンチュリー静岡 4階クリスタルルーム

<パネリスト>

 青島 孝 (「喜久醉」青島酒造 蔵元杜氏)

 松下明弘 (稲作農家)

 鈴木真弓 (しずおか地酒研究会主宰)

 

 

(つづき)

(鈴木)さて、ふるさと藤枝を離れ、地球の一番尖がったニューヨークと、一番凹んだアフリカ・エチオピアの暮らしを経験したこの2人が出会ったのは、面白い巡り合わせでした。もともとの知り合いとか、家同士のつきあいがあったというわけではありません。

 私が「しずおか地酒研究会」の発会式を、この近くの「あざれあ」の会議室で行ったのは1996年3月1日でした。その前日か前々日に、松下さんは青島酒造に酒米のことを聞きたいと訪ねたんですよね?

 

 

(松下)96年2月29日だから前日ですね。3年前に親父がガンで亡くなり、後を継ぐ気でいろいろな設備を直したり機械をそろえたりしていた頃でした。  

 アフリカから帰ってきたとき、近所の酒屋で買った日本酒を呑んだらびっくりするほどうまかった。行く前に呑んでいた日本酒というのは、いわゆる大手の酒でひどい酔い方をしました。たまたま行った酒屋にいい地酒が置いてあったImgp1168_2 のがよかったんですが、いろいろな地酒を呑み比べてみて、一番気に入ったのが喜久醉だった。呑んで何もひっかかりがなく、体にスーッと溶け込んでいく美味しい酒だった。どうせ専業で米を作るならこういう酒の原料になるような米も作りたいと思いました。で、裏貼りを見たら、「なんだ、自分ちから一番近い酒蔵じゃないか」と気がついた。青島酒造(藤枝市上青島)とうちは(藤枝市青南町)は、もともと同じ村なんです。

 帰国後はしばらく会社勤めをしながら親父の農業を手伝っていたんですが、親父が亡くなったことで専業農家になろうと腹をくくり、96年2月28日にそれまで勤めていた会社を辞め、翌3月から心機一転スタートだと決めていました。ところがこの年はうるう年で、2月29日まであることに気がつき、1日ぽっかり空いてしまった。で、一度酒蔵というところを見てみようと思い切って訪ねてみたんです。

 

 

(鈴木)アポなしでフラッと訪ねたんですよね。後で青島酒造の奥さんから「いきなり変な子が来てビックリした」と聞きました(笑)。

 

 

(松下)「今日から専業農家になるんですけど、酒米について教えてくれるところがわからないので、酒蔵へ行けば教えてくれるかなと思って来ました」と切り出しました。青島酒造の社長は仕事の手を休めて30~40分、酒米の話をひととおりしてくれました。

 話の流れで、社長が「自分は旅行が好きでね」と言い、「最近どこに行ったんですか」と聞いたら「ケニアに行ってきたんだよ、アフリカが好きでね」と社長。私「じゃあキリマンジャロにも?」、社長「もちろん」、私「どこのルートから入りました?」、社長「なに、君、知っているの?行ったことあるの?」、私「アフリカに住んでました」、社長「!?」(笑)。

 で、そこから2時間、延々アフリカの話で大盛り上がりでした。後から奥さんに聞いたんですが、社長が周囲に「アフリカに行ってきた」と話しても、誰も行ったことがないから想像がつかず、まともに聞いてくれる人がいなかったそうで、アフリカ話ができる相手がいきなり現われて、初めて会った相手とは思えないぐらい意気投合した、と喜んでいたそうです。

 

 

(鈴木)そして翌日の3月1日、しずおか地酒研究会の発会式に、青島の社長が「昨日、うちに来たばかりの変なやつだけど、面白いから連れて行く」と連絡をもらい、そこで初めて松下さんとお会いしました。

 発会式で私は、会のスローガンを“造り手・売り手・飲み手の和”と掲げました。ビールやワインや焼酎は、造りの現場で職人の顔を気軽に見ることはできないけど、日本酒の蔵元は、昔は町内に1軒はあったぐらい、地域に溶け込んでいる存在で、造り手の顔がよく見える。ところが、国内はおろか静岡でも、地元で日本酒を造っていることを知らない人が多い。それはとてもモッタイナイ話だと思っていました。地域だからこそ、酒を造っている蔵元、紹介する小売店や飲食店、そして受け取る消費者である私たちが相互理解し、交流を広げる場ができると考えたのです。

 そんな宣言をしたところ、松下さんが「米農家が入っていないのはおかしい」と口を挟んできた。昨日初めて酒蔵にやってきて、これから酒米づくりに挑戦しようという奴が、何を生意気なことを…とカチンと来ましたが(笑)、とにかく松下さんの初めての酒米づくり…しかも青島の社長から「どうせ作るなら一番難しい山田錦を作ってみろ、失敗しても自分がポケットマネーで買い取ってやる」と背を押されたと聞いて、それなら会の仲間で応援しようじゃないかということになり、何度も田んぼに通って田植えを手伝ったり、草取りしたり山田錦研究の先生を招いたりして、秋の稲刈りを迎えたのです。

 孝さんがニューヨークから帰って来たのは、その稲刈り直前の、96年10月初旬でしたね。家の近所の田んぼでおかしな連中が盛り上がっているのを見て、さぞかしビックリしたでしょう?(笑)。

 

(青島)松下さんとうちの社長が初めて出会ってアフリカ話で盛り上がり、真弓さんがしずおか地酒研究会を作ったころ、自分はニューヨークでこのままでいいのかと悩み苦しんでいました(苦笑)。自分が大切にして行きたいと思うのはカネでは買えないものだと思い始めていた。松下さんが最終的に行きついたのは故郷の田んぼだったということと同じ思いだったかも知れません。

 ただ、すんなり実家の酒蔵へ戻ることを決めたわけではなくて、100年200年と長い年月をかけて生き残っていくモノづくりの世界・・・たとえば自然と携わる植林や森づくりみたいな仕事に憧れました。酒造りもそうなのかなと思いましたが、一度は拒否した世界だし、ニューヨークに渡った時は、「(家業から)逃げきった」とまで思ってましたから(苦笑)。

 

(鈴木)確か、宮大工の仕事にも憧れたと聞きましたが?

 

 

(青島)そう、職人の技が数百年経っても息づくようなモノづくりの世界ですよね。そんなとき、母親から「変わった農家の人が来たよ」「お父さんの心臓の具合がよくなくてね…」という手紙をもらい、改めて故郷で酒を造るという仕事を真正面から考えるようになりました。

 思えば、自分の故郷には大切なものがたくさんある。酒造りに欠かせないも のはなんといっても良質の水ですね。

 

 

Dsc_0061 (鈴木)先ほど観ていただいたパイロット版で、いくつかの酒蔵の米洗いのシーンを立て続けにつないでみたのですが、あんなに水をぜいたくに使える地域というのは実は貴重で、日本では、名水地といわれるところでも、水量が乏しいことが多いそうですね。

 

 

(青島)その意味で、酒造りというのは、その土地のいい水を守り、農業を守ることにつながると気づきました。この仕事が、何百年という年月の間、酒に携わる多くの人々の知恵や技に支えられて成り立っていると思った時、自分の代で簡単に辞めてはいけないんじゃないかと。

 現実的には、収入は10分の1ぐらいになるわけで、相応の葛藤はありましたが(苦笑)、帰ったのはちょうど松下さんの稲刈りの1週間ぐらい前でしたね。その直前、父に帰ると伝えたとき、最初は「ニューヨークで何か失敗していられなくなって逃げ帰ってくるのか」と反対されたんですよ。

 

 

(鈴木)社長に反対されたんですか? いやぁ、私も松下さんも、社長の奥さん(孝さんのお母さん)が「帰ってきてほしい」という手紙を書いたことは知っていましたが、ウォール街で巨額マネーを操る人がそう簡単に帰ってこれるの~?と半信半疑でした…。ただ、ご両親が帰ってきてほしいと願うのは自然なことで、社長も心のうちでは帰国を喜んでおられたと思ってました…。

 

(青島)…しかも、蔵へ入って、杜氏のもとで酒造りの修業を始めると言いだしたわけで(苦笑)。当時、酒蔵の経営者が職人の下で修業するというのは珍しいケースで、杜氏もやりにくいだろうと反対されました。それでも自分はここで酒造りをやる意味を考えたとき、土地の水に触れ、土まみれになって米を育て、この土地の四季の移ろいの中で酒造りを考えなければ意味がないと思いました。

Dsc_0012  ニューヨークから帰ってきて1週間後、初めての仕事が、松下さんの山田錦の稲刈りでした。田んぼ一面が黄金色に輝いて、信じられないぐらいの美しさでした。聞けば下がジャリ層で水はけがよく、いい田んぼだそうです。こういうところに自分の居場所が作れるなんて、こんな幸せはないと実感しました。

 

 

(鈴木)先ほどのパイロット版で、両名がはからずも「刈るのがもったいねぇ…」と吐露していました。あの田んぼは、特別、自然豊かな棚田とか、新潟あたりの絵になる穀倉地というわけではなく、どこにでもあるごくごく普通の郊外の住宅地の中の田んぼです。撮影の時、私が「あの電線が邪魔だなぁ」「そこの看板、取り外したいなぁ」「向こう側の家の洗濯物が…」とブツブツ言っていたら、カメラマンの成岡さんが、「ごくフツウの、生活に寄り添っているこういう田んぼで素晴らしい米が育つことに意味があるんじゃない?」と名言を吐いてくれましたっけ。

 

 

(松下)静岡県は米の輸入県で、県内で消費される米の7割は他県から買っています。静岡では3割の人しか地元の米を食べることが出来ないんですよ。米にしろ酒にしろ、静岡の人は「なければ他県から買えばいい」という感覚なので、地元の農家がいざ自前で作ろうとするといろいろな障害があります。最初に酒米を作った時も、周囲には「酒もこれからは地域オリジナルの原料米が絶対に必要になるから」といったんですが、まったく理解されなかった。

 酒米のように加工品の原料となるものを作るには、本来、加工側の希望や要求に合わせるもの。原料供給者なら当然のことです。自分は最初の年、喜久醉の杜氏さんから「もう少し締まった米を作れ」と言われたんですが、締まった米の作り方なんて誰も教えてくれないし、どの教科書にも載っていない。自分の田んぼで実験するしかありません。3年ぐらい試行錯誤しましたね。

 ふつうの企業なら、そんなふうにクライアントのニーズに応える努力をするのが当然ですが、農家にはそんな発想はありません。出来たものは農協に出して、出来なければ国が補てんしてくれる。何も考えず、工夫もせず、のうのうとしているのが日本の農家です。そんな中に自分みたいな異物が入れば変人扱いですよ(苦笑)。

 最初の頃は、「松下のところは親父が死んだから、まぁ大目にみてやろう」でしたが、こっちが「農薬は意味がないからやめます」と宣言して、田んぼに草がボウボウに生え、稲が2割・雑草8割なんて状態になり、周囲の田んぼが1000平方メートルで500キロ収穫できるところ、うちは150キロしか採れなかったりすると、「あいつは何やってんだ」と白い目です。自分は、自分の田んぼの実力がなんぼのものか、農薬や肥料なしでどれだけ米が採れるのか試したかったわけで、何もしなくても150キロ採れたというのは、自分的にはすごい成果だったんですが、周囲は「あんな草ぼうぼうで、ろくに米がとれない田んぼ」と冷笑していました。

 自分はよく「土ってなんですか?」って聞きます。そう聞かれて正確に答えられる人は、この会場に何人いるでしょうか?

 さきほどの孝くんの話のように、水とは何かを生活の中で深く考えることなんてないでしょう。土も同様です。自分はひたすら土の本を読み、自分の田んぼであらゆる実験し、農業の本質は土を育てることなんだと理解できたんです。Dsc_0048 有機肥料が微生物によって分解し、どんな微生物がどれくらいいて、どの程度活動するかによって土が変わってくる。有機肥料は、微生物を育てるために入れているんです。その微生物が健全に動くことで、病害虫を防ぎ、あらゆる稲の健康を保障してくれる。現場で実践してみて、そのことに気がついて、今度は微生物の勉強を始めました。

 …キリがないですね。どれもこれも命の根源は何かにつながっている。だから農業というのは素晴らしい産業なんだと。いや、産業という言葉は似合わないな。生きていくための糧というのかな、とても崇高な職業だと思えるようになりました。

 一度故郷を離れてみてわかったんですが、静岡県は緑のイメージが強い。他県の人から見ると、お茶畑や富士山や南アルプスなど、緑豊かなの県という印象を持たれているようです。では農業県かどうかといえば、メロンやみかんなど一部突出した作物を除けば、多くの農産物の生産高は平均以下。他県がせっかく自然豊かな緑の県だと思っているのに、現実には有機無農薬の農産物も少ないし、ふつうに農薬を使って栽培してふつうに売れてしまうので、頑張る必要がない。近所の農家と摩擦を起こしてまで有機無農薬にこだわらなくても、ふつうに作って売れればいいということになる。そのうちに、他県の人から「静岡って緑豊かな県だと思っていたけど実態は違うんだ」と思われてしまうんじゃないか・・・それって静岡県の損失じゃないかと思えてきます。

 ああ、さすがに静岡って豊かだなと思ってもらうためにも、農産物が豊かさの象徴につながるような農業をやっていきたいと思っています。

 

 

(鈴木)ありがとうございます。今日、この後、隣の会場で、青島・松下両名が育て創り上げた「喜久醉松下米」という酒を試飲していただきますが、こういう酒が、静岡県の豊さや、農業とモノづくりが一体となった真の豊かさの象徴になればと願っています。富士宮やきそばや静岡おでんもいいんですが、気がつかないだけで実は静岡には実力ある産物がたくさんあるということを、今日はお酒を通じて実感していただければ。下手な進行で、時間をオーバーしてしまいました。最後までご静聴ありがとうございました。