杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

白隠坐禅岩と富岡鉄斎名品展

2015-04-03 20:26:23 | 白隠禅師

 静岡市では現在、徳川家康没後400年を記念した顕彰事業『家康公四百年祭』を開催中です。4日・5日の恒例静岡まつりでは四百年祭春のシンボルイベントが加わり、京都葵祭の斎王代が葵使として初参加し、朝鮮通信使とともに歓迎式に登場するなど例年以上の盛り上がりを見せています。

 

 私が映像作品【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】の制作にかかわったのは2007年。もう8年も経ってしまいました。朝鮮通信使のことをほとんど知らず一夜漬け勉強状態で書き上げたシナリオは、私にとっていわば入試論文みたいなもので、映画製作が終わってから本当の朝鮮通信使学習が始まったのでした。シナリオ監修でお世話になった朝鮮通信使研究家北村欽哉先生の勉強会に参加するほか、ロケでお世話になった広島の鞆の浦、京都、滋賀高月とは今もご縁をいただき、今もって研究途上といわれる朝鮮通信使の足跡解明と歴史的評価について学ぶ機会を得ています。

 肝心の地元静岡で行なわれる朝鮮通信使イベントや清見寺関連事業にはとんと声がかからず、事後に新聞記事で知る程度。開催中の四百年祭でも8年前の映像作品のことは一切取り上げられず。出演してくださった林隆三さんが昨年亡くなったとき、追悼上映会でも開いてもらえたら…と願ったのですが、残念ながら市役所や清見寺関係者で作品のことを顧みてくれる人は今はいないよう。当然、下請スタッフの一人に過ぎなかった自分に声がかかることもないだろうと、ため息をついていた先月半ば、滋賀高月の『芳洲会』から3月29日開催の総会と記念講演会の案内が届きました。

 

 『芳洲会』は朝鮮通信使の接待役として活躍した対馬藩外交官の雨森芳洲を顕彰する市民団体。大正時代に発足した歴史ある団体です。私は高月観音の里歴史民俗資料館の佐々木悦也先生に案内をいただいて2年前に入会し、総会案内が届いたのは今回が初めて。やっと会員として認められた!と感無量でした。直前まで酒蔵取材スケジュールが確定せず、行くと決めたのは前夜。酒蔵取材で早起きの体になっていたせいか翌朝3時前に目が醒めて、目が醒めたのならのんびり車で出掛けようと思い立ち、せっかく車で行くなら、車じゃなきゃ行けないところへ寄り道していこうと、かねてから行きたいと思っていた美濃加茂の白隠坐禅岩に向かいました。

 

 白隠坐禅岩とは、岐阜県美濃加茂市の巌滝山という小さな山の中腹にあります。1715年春、ちょうど今から300年前、白隠さん31歳のとき、この岩の上に坐って約1年9ヶ月もの間、禅定(坐禅で精神集中)に専念されたそうです。もともとこの岩は地元の人から「祟り石」と怖れられていた奇岩だったそう。そういう場所を選んでひたすら禅定するなんて、白隠さんの修行に臨む覚悟のほどが伝わってきます。

 

 

 

 朝7時過ぎに着いたのですが、ふもとの賑済寺には300年記念を知らせる案内はなく、近くのゴルフ場へ行く車が数台行き交う程度。寺の裏道から岩までは500メートルほどの距離でしたが山中に人影はまったくなく、独りで登るには少々心細く、白隠さんがお守りしてくださるはずだと言い聞かせ、急勾配の山道を登って坐禅岩に到着。かなりの角度の斜面にドンと鎮座する巨石の上に、もう一つ、平べったい石が乗っかっていました。土砂崩れや地震でもあれば落下してもおかしくないのに、この形状で300年耐えてきたんですね・・・。

 

 

 白隠さんは翌1716年11月、沼津の原の実家から父が倒れたと連絡を受け、松蔭寺に戻ったのですが、この頃、禅病―今で言う〈うつ〉を患っていたそうです。31~32歳頃というと、今の感覚でいえば己の立ち位置を定めるというか、そろそろ身を固めよと周囲からプレッシャーを受ける時期ではないでしょうか。現代感覚で白隠さんを語ってはいけないとは思いますが、50歳を過ぎても立ち位置が定まらない宙ぶらりんな自分にとって、白隠さんが理想と現実の狭間で葛藤し、心の病と闘っておられた場所にこうして導かれたご縁を思うと、なにやら勇気が沸いてきます。

 「祟り石」といわれた奇岩の上で、身心がボロボロになるまで坐り続けた白隠さん。岩の一角を両腕で抱え、300年の時空を越えて白隠さんの息吹を感じようと試みましたが、ブルッと身震いがし、安易に近づいてはいけない気がして後ずさりし、合掌低頭しました。

 

 

 賑済寺まで戻って一息ついたところで案内板に目を通してみたら、面白い一文がありました。我々静岡人は「駿河に過ぎたるものあり、富士のお山と原の白隠」と教わっていますが、ここの案内板は「日の本に過ぎたるものが二つある、駿河の富士に原の白隠」。白隠生誕300年記念(1985年)に大本山妙心寺642世管主が書かれたようです。さすが!日本に収まりきれないスケールの人物なんですね・・・。

 

 

 

 美濃加茂市街に出てファミレスでモーニングを食べた後、一般道を使って滋賀の長浜へ。今は長浜市に合併された高月町の渡岸寺で国宝十一面観音を拝み、隣接する高月観音の里歴史民俗資料館を訪ねて佐々木先生にご挨拶。資料館ではちょうど特別陳列布施美術館名品展【富岡鉄斎と妻春子】を開催中でした。富岡鉄斎は、よく「なんでも鑑定団」で名前を聞く近代文人画の巨匠・・・程度の認識しか持ち合わせていませんでしたが、展示されていた自画像もどきの「維摩居士像」や、狐の妖怪「白蔵主図」を眺めていたら、白隠さんの画に似ているなあと思えてきました。画風は全然違いますが、賛をしっかり描き込むところとか、晩年の作品になればなるほど大胆でおおらかになっている点など等。

 

 帰宅後、ネットで調べてみたら、富岡鉄斎は京都瓜生山で隠遁者・白幽子と白隠さんが対面した〈白幽子寓居跡〉を建碑したそうな。白幽子とは書・天文・医学等に長け、白隠さんが『夜船閑話』で紹介した“内観の秘法”を授けた仙人。美濃の山中で「一度死ぬつもりで坐禅しよう」と禅病を患った白隠さんが、宝永7年(1710)に白幽子のもとを訪ねています。鉄斎はその逸話をズバリ『白隠訪白幽子図』という作品で描いていたのです。

 今回拝見した高月の展示作品には白隠さんを描いたものはありませんでしたが、坐禅岩にお座りになっていた頃の白隠さんが、白幽仙人から授かった内観の秘法で禅病を治療しながら修行されていたと知って、坐禅岩の白隠さんがいっそうリアルに感じられました。と同時に、〈近代文人画の巨匠〉という教科書的ワードでしか見ていなかった富岡鉄斎にも急に親近感が沸いてきます。・・・今度、京都へ行くとき訪ねる場所はこれで決まり!

 

 高月公民館で開かれた芳洲会の記念講演会は、【雨森芳洲と漢詩】と題し、大阪大学大学院特任研究員の康盛国(カン ソングク)先生が芳洲の詩風や漢詩観についてお話されました。韓国人の康先生が芳洲に興味を持ったのは、先生と同年の36歳頃(1703年頃)の芳洲が朝鮮語の習得に苦労し、「命を5年縮めるつもりで取り組めば、成就しない道理はない」と自らを奮い立たせていたエピソードだそうです。

 白隠禅師(1685~1768)と雨森芳洲(1668~1755)。若い頃は命を賭して己の使命に向き合い、長寿をまっとうした2人の足跡を、私自身なんとも不思議な縁でこの先も長く深く辿ることになりそうです。康先生の講演については次回へ。