杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

詩作する雨森芳洲と三社祭囃子

2015-04-07 08:48:28 | 朝鮮通信使

 4月3~5日まで開催された遠州横須賀(現・掛川市大須賀)の三熊野神社大祭。古い城下町に残る全国屈指の伝統の祭りです。この祭りを支える酒蔵「葵天下」の山中久典さんの取材を兼ねて、5日本祭の神輿渡御行列と禰里(山車)行列を見学しました。あいにくのお天気でしたが、すばらしいお祭でした!

 

 

 江戸の元禄年間に端を発し、享保年間(1716~35年頃)に現在の形になったとされる三熊野神社大祭は、のちに江戸幕府の老中になった横須賀城主・西尾隠岐守忠尚(にしお おきのかみ ただなお)公が、江戸天下祭(神田・山王両祭礼)の祭り文化を横須賀に伝え、発展させたたと言われます。禰里(ねり)と呼ばれる「一本柱万度型」の山車は、江戸中期の天下祭を克明に伝える「神田明神祭礼絵巻」の中に、ほぼ同一のものが描かれています。発祥の神田明神ではすでに姿を消し、遠く離れたここ遠州横須賀とその近隣に残るのみ。江戸の祭り文化の伝承を地方の小さな城下町が担っているなんて頼もしいですね。今年5月9・10日の神田祭は遷座400年記念として盛大に開かれ、ここの禰里2台が“里帰り”参加するそうです。東京の方はぜひご覧になってみてください!

 

 享保年間といえば、前回記事でふれた朝鮮通信使接待役の雨森芳洲や白隠禅師が活躍した時代。享保4年(1719)には第9回朝鮮通信使(正使/洪致中)が9月20日に見付~掛川を巡行しています。春に巡行した記録はなく、東海道から離れた横須賀城下を朝鮮通信使が訪ねることもなく、当然、この祭りを見たことはないだろうとは思いますが、この時代、街道にはさまざまな人・モノ・情報が往来し、新たな伝統が萌芽していたことを再認識させられます。

 抜群のフットワークと情報収集能力を兼ね備えていた芳洲さんや白隠さんのことですから、ひょっとしたら遠州横須賀に面白い祭りがあるらしいって聞いていたかも。享保4年当時、芳洲さんは52歳。私と同い年です。・・・同級生扱いするのは畏れ多いですが、歴史って具体的な「誰か」の目線でその時代背景を追ってみると教科書では教わらない発見があってワクワクします。

 

 さて前回報告途中だった滋賀県高月での芳洲会記念講演【雨森芳洲と漢詩】。講演者・康盛国先生(大阪大学大学院特任研究員)のお話に、私が2007年に書いた映像作品【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】シノプシスの抜粋を加えて報告します。

 芳洲は前述の享保4年52歳の時、泉南の豪商・唐金喜右衛門への手紙で

 「詩才のある者には必ずしも詩学はない。逆に詩学のある者には、必ずしも詩才はない。才学兼備にして人を驚かす語句を作れる(新井)白石のような人は、まことに現代の第一人者と存じます。木下(順庵)先生の学塾におりました時には時折詩を作ってみましたが、とかく気に入らず、いったん取りやめ、その後白石さんたってのおすすめで二十首ばかり作って白石さんに添削をお願いしました。白石さんも私を努力させようと圏点など大分加えてくださいましたが、自分で自分の才能のなさを知っておりましたから、ふたたび中止しました。私が24~25歳頃のことです」

 と書いています。若い頃はあんまり詩が得意ではなく、木下順庵の同門だった新井白石を尊敬し、詩の添削までしてもらっていたことが判りますね。年齢は白石のほうが11歳も年上でしたが、入門は芳洲のほうが1年早いという関係。白石はその後、幕僚として出世し、芳洲は朝鮮語と中国語2ヶ国語に精通する当代屈指の国際派として対馬藩に仕え、朝鮮通信使外交を支えました。

 

 正徳元年(1711)の第8回朝鮮通信使訪日で、白石と芳洲は接待方法について激しく対立しました。徳川将軍交替時に朝鮮通信使という外交使節団を招くことは、一大国家プロジェクトです。かかった費用は18世紀初頭の頃で約100万両。当時の国家予算78万両をかるく越えていました。17世紀末頃から幕府の財政が厳しくなってきたことから、ときの財政担当だった白石は、通信使の接待費用を大幅に節約することを命じ、次のような「聘礼改革」を行って物議をかもします。

①     将軍の称号を日本国王とする

②     若君への聘礼をやめる

③     礼曹から老中への書翰・礼物をやめる

④     往復での饗応は5ヶ所に限る

⑤     客館への慰問は老中ではなく高家を使者とする

⑥     将軍使の来訪には階下で迎送する

⑦     謁見の際、国書は正使が奉持する

⑧     聘礼の際、御三家は使臣と同座しない

⑨     饗宴の相伴に御三家は出席しない

 

 このうち、接待役を老中から高家に格下げしたり、御三家を聘礼・饗宴に参加させないというのは、経費節約とはあまり関係のないこと。ほか、通信使の江戸往復の先導を務めた対馬藩には、こまかい儀礼の変更が指示されました。たとえば、それまで通信使は輿に乗ったまま客館に入り、幕府の使者の訪問に三使の送迎は無用でしたが、客館へは輿から降りて入れ、幕府の使者は階下に降りて送迎せよ、というようにです。到底、通信使は納得せず、抗議し、対馬藩の奉行はその対応に苦労します。

 大坂ではこんなやりとりがあったと、朝鮮通信使随行員の日記『東槎日記』に記録があります。

 「この事は聞き入れることが極めて難しい。島主(対馬藩主)が助けてくれとまで哀願してその切迫した様相は十分知り得る。我等もまた善処したいが、もしこの事を許すようになれば、将来ある聞入れ難い要請があるかもしれない。このために決して許すことが難しい」というと、奉行達は「この事を許されるならば、今後江戸でたとえ他の事があっても、我等が正に島主とともに命を懸けてでも関白の前で必死に諫言して必ず無事にいたします。この事は心配されることはない。願わくは、首訳たちと共に島主がいるところに行き、直接約束してまいります」というので、ついに首訳たちを送ってよく処理するようにさせたが、島主が折りしも病床に臥していたが、強いて起きて来て会って言うには、「私は今、生きるを得ました。三使の恩恵は死んでも忘れ難い。今後他の憂いがないことを保障して、たとえあったとしても一島の上下が正に死を以て厳しく諫言して決してご心配をおかけいたしません」とあって、直ちに奉行たちをして謝礼に来させ、館伴と両長老も共に使いを送って謝礼した。(第8回 東槎日記より)

 

 江戸での国書交換のとき、新井白石が作成した朝鮮国王への返書に、朝鮮の昔の国王の諱(いみな)の一文字が入っていました。朝鮮通信使側は変更を要求しますが、白石は「朝鮮国王の国書にも、現将軍家宣の祖父・家光の「光」の字が入っているではないか」と反論し、対立します。朝鮮では亡くなった人の名を呼び捨てにするのはタブーとされ、日本では亡くなった人の字をもらうのは栄誉なこととされています。白石ほどの知恵者がこのことを知らないはずはなく、芳洲は、この白石のこじつけとも思える行動に強く反発します。

 「雨森東が言うには「三使が国書を改めるを請うは事理にかなったことであり、わが国で終始これを難しく思い、当然改めない光の字を改めることを請うたことに対しては、誠に蛮の称号を免れないところである」とのことであった。(第8回 東槎日記より)

 

 この一件は、双方が国書を書き直し、対馬で交換するという異例のかたちで決着しました。朝鮮側は書き換えに応じたものの、使節団責任者を辱国の罪で処罰しました。白石の改革は、享保元年(1716)、徳川将軍が8代吉宗に交替したところであっけなく終わり、白石はお役御免となりました。通信使への聘礼改革も1回で終わり、1719年の第9回からは、またもと通りになりました。しかし皮肉なことに白石が懸念したとおり、通信使外交はその後、日本と朝鮮双方の国家財政を圧迫し、12回目(1811)で終わりました。最後は対馬までしか来ませんでした。

 

 新井白石はかなりプライドの高い人のようで、自伝『折りたく柴の記』では芳洲のことを「対馬国にありつるなま学匠」と小馬鹿にしています。私はこの2人が木下門下生時代からライバル同士で、公の舞台でも対立した相性の悪い者同士、と思い込んでいたのですが、今回、康先生のお話をうかがい、少し認識を改めました。白石は享保元年(1715)に編集した順庵門下生の詩集『木門十四家詩集』と、享保3年(1718)に刊行した同時代の白石セレクト漢詩集『停雲集』に、芳洲の漢詩9首をちゃんと選んでいます。芳洲は芳洲で、享保5年(1720)にも白石に詩の批評や添削をお願いしていた。 文化人・教養人として互いに認め合っていたのです。・・・こういう関係性ってオモテの教科書だけじゃわからないなあと反省させられました。

 芳洲は54歳で対馬藩朝鮮方佐役(通信使接待役)を退き、本職である儒学者兼外交アドバイザーとして引き続き対馬藩に仕えます。そして61歳のとき、外交接待の心構え書『交隣提醒』(こうりんていせい)を記し、有名な「誠信と申し候は実意を申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実を以って交わり候を誠信とは申し候」を明言します。ちなみに日韓ワールドカップが開かれた平成14年(2002)、来日した韓国の盧泰愚大統領がこの一文を取り上げ、雨森芳洲の名が一気にメジャーになり、その後訪韓した小泉首相も「それぞれの民族の文化を深く知って尊ぶ芳洲の姿勢に大いに学ぶべき」と語っています。

 

 20~30代のとき、「寿命を5年縮める覚悟で」と臨んだ朝鮮語の修得成果を36歳で『交隣須知』にまとめた芳洲。48歳のとき』『隣交始末物語』を書いて白石に提出。53歳のとき林大学の求めで『朝鮮風俗考』を著し、57歳で『天竜院公実録』、60歳で『通詞仕立帳』、62歳で『全一道人』、63歳で『誠信堂記』、68歳で『読荘窾言』、80歳で『橘窓茶話』を書き上げるなど執筆活動に精力的で、81歳で公式に隠居した後は和歌の研究を始め、84歳までに古今和歌集千篇読みを達成。次いで万葉集の研究を始め、自らに1万首の詠歌ノルマを課したそうです。

 興味深いのは、晩年の著書『橘窓茶話』で、自分が9歳のときに作った詩を「韻・平仄(漢詩の発音ルール)に誤りがある」と指摘し、79歳で修正・改作したものと一緒に並べて掲載しているところ。康先生は「テクニックに誤りがあっても詩意はそのまま。つまり、子どもの頃に定まった性情や度量は巧妙な表現で飾っても覆い隠すことは出来ないもの。自分の性情が聖人のようでなくても、敢えて飾らず、ありのままを率直に表現し、子孫に伝えようとした」と解説されました。

 また芳洲は18世紀当時、荻生徂徠等を中心に中国の宋や明の詩を模範とした“古文辞派”と呼ばれる思想を批判しています。『橘窓茶話』では宋詩を指して「凡そ詩は晩唐以下に詩無し。その工を小処に用いるを以っての故なり」とし、明詩を真似て作詩することを「嬌妾妖姫の素り天然の妙姿無くして掩映装飾して嫵媚を希求するが如し(天然の妙姿のない嬌妾妖姫が厚い化粧と派手な飾りでみめよい姿態を求めるようだ)」と一刀両断。

 漢詩のことはよくわからないので、なんとも判断しようがないのですが、芳洲が宋・明代の流行の詩風を安易に模倣したり技巧に走るなど、外面をつくろうような詩作を嫌い、自分を飾らず、素直に表現しようとした人だ、ということは理解できました。朝鮮通信使と「互いに欺かず、争わず、真実を以って交わり候」という関係を築き上げた外交官らしいですね。その上、80歳を過ぎてから日本の和歌を猛勉強し始めた。この飽くなき向上心には、大いに刺激をもらいます!

 

 三熊野神社大祭の禰里の上では三社祭礼囃子が祭りを盛り上げました。横須賀城主西尾忠尚公が参勤交代の折り、御家人衆が江戸で習ったものが原型とされ、以後、横須賀独自の調子が加えられ、今日の形となったそうです。大間(おおま)、屋台下(やたした)、馬鹿囃子(ばかばやし)の道中囃子3曲と、昇殿(しょうてん)、鎌倉(かまくら)、四丁目(しちょうめ)の3曲からなる役太鼓があり、演奏にあわせて「ひょっとこ」「おかめ」の面をつけた手古舞(てこまい)がつきます。「葵天下」蔵元杜氏の山中久典さんは「このお囃子を酒のもろみに聴かせて醗酵させたんですよ」と祭りラベルの酒を披露して、禰里の曳き手が一升瓶をラッパ飲み!「毎年朝っぱらからこんな調子」と嬉しそうです。山中さんの酒も、今流行りの香味派手な酵母は使わずオーソドックスな9号酵母で地元の人々は何杯もお代わりできる地酒らしい味です。


 三社祭礼囃子は昭和30年に静岡県指定無形文化財第1号に指定されています。軽快なお囃子リズムを耳にするうちに、素直な詩意を朴訥と詠み続けた雨森芳洲の晩年の姿が想起されました。江戸で流行っていたものを地方が取り入れ、地方ならではのリズムにアレンジし、江戸でなくなった今もしっかり残している。・・・芳州さんが聴いたら「都会の真似をするな」と怒るのか、はたまた「素直に愉しめ」と温かく見てくれたのでしょうか。

 異なる文化が入ってきたとき、その文化に敬意を示し、懐深く醗酵させ、その土地にあった新たな文化へと仕込んでいく・・・「葵天下」をちびちび舐めながら、朝鮮半島と江戸と遠州横須賀を線で結び、愉しい妄想にふけっています。