4月25~26日は京都に行ってきました。半年ぶりの京都は、外国人観光客の激増ぶりにビックリ。25日は建仁寺両足院で開催中の『多聞会』に参加したのですが、祇園界隈は何ヶ国語も飛び交う外国人向けテーマパークと化し、市バスには一日フリー乗車券と英語路線図持参の外国人がごっちゃり。ひところはグループ行動の修学旅行生がごっちゃりだったのが、まさに主役交替の感あり。地元住民のみなさんの心境はいかばかりでしょうか・・・。
両足院の『多聞会』とは、多聞=広く多くの物事を聞き知る、という仏教語を具現化した勉強会。寺を、多分野の知識を共有し、自己研鑽できる場所にしていこうと、5年の構想を経てこの4月からスタートしたそうです。院の鎮守が毘沙門天(多聞天)というご縁もあって、『多聞会』と命名されたとのこと。以前、大徳寺龍光院の欠伸会について紹介しましたが(こちら)、こういう活動はお寺のあるべき理想だ・・・と感じ入ります。私は多聞会の運営をボランティアで支えておられる元高麗美術館学芸員の片山真理子さんからお誘いをいただき、馳せ参じました。
多聞会初年度のテーマは「琳派」。企画したのは2013年から両足院を会場に活動中のアートムーブメント「京・焼・今・展」実行委員会のみなさん。両足院が所蔵する焼き物の名作と、現在京都で活躍する京焼の若手陶芸家たちの作品を重層させることで、焼き物のこれからについて探る、という展覧会だそうで、3年目の今年は琳派400年の節目にあたることから、琳派を焼き物その他、総合的な観点で考察する講座を6回シリーズで開催(こちら)。私が参加した25日は第2回目で、大津市歴史学物館学芸員の横谷賢一郎氏が「一歩ひいて琳派を知る」と題してお話くださいました。
今年が琳派400年記念だということは、恥ずかしながら、この会の案内をもらって初めて知りました。琳派の創始者とされる書家・芸術家の本阿弥光悦が、400年前の元和元年(1615)、徳川家康公から鷹峯の地を拝領され、法華宗の門徒を引き連れ、いわば“芸術村”を創った。これを記念しているようですが、同じく琳派創始者で、建仁寺の「風神雷神図」で知られる俵屋宗達はどういう人物だったのか不明だそう。「俵屋」という絵画工房(絵屋)を経営し、紙製品全般の絵やデザインを請け負っていた、いわばグラフィックデザイナーの走り、みたいな人。芸術家とは異なるスタンスで仕事をしていたようです。
「風神雷神図」も、もともと宇多野の妙光寺にあったもので、京都の豪商・打它公軌(うだきんのり)が妙光寺再興の記念に俵屋に製作を依頼。著名絵師の作品、というわけではなかったため、当時はまったく知られていませんでしたが、約100年後、尾形光琳が偶然発掘し、カルチャーショックを受けたとか。その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されたそうです。
横谷先生の解説によって、室町~桃山期にホンモノの中国画を間近に教材に出来た画僧や、オールラウンドに優れた作品を輩出した狩野派等の御用絵師が“正統派”だとすると、正当な絵の修業はできなかったかわりに描写より構図で勝負・腕はそこそこ・コストをかけない宗達ら町衆向け絵師の立場や役割がよくわかりました。尾形光琳も裕福な呉服商出身で40歳過ぎから趣味で絵を描き始めた非正統派。狩野派の勉強もしたそうですが「宗達スタイルなら自分でも描けると思った」そうで、その光琳の作風を、さらに後年の大正時代に「琳派」と名付けた。「琳派」とは特定の集団や様式ではなく、伝統を大胆にカスタマイズし、さまざまな応用を可能にした、という意味なんですね。琳派の代表的な技法とされる「たらしこみ」も、正統派絵師の「にじみ」「ぼかし」のテクニックが持てない彼らがアバウトに水墨表現したものだそうですが、その大雑把さが意匠的面白さを醸しだしています。
講座では横谷先生持参の御用絵師と琳派の絵を比較鑑賞し、「この細密な筆遣いは御用絵師タイプ」「こっちの大胆な構図は琳派」とわかりやすく解説していただきました。ホンモノの画をこんなふうに身近に観られ、写真撮影自由、なんて、なかなかない機会でした。
今年は奇しくも家康公没後400年。17世紀頃の日本が戦争のない平和で経済成長していた時代で、町衆もアート観賞できる余裕が生まれたからこそ、「琳派」という現象が現れ、「風神雷神図」は今や、浮世絵と同じように外国人ウケするニッポンアートのシンボルになった・・・そう考えると、家康没400年と琳派誕生400年が重なり、記念行事が開かれる今年は非常に意義深い年ですね。