杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

細川家起請文の世界

2015-04-13 11:35:50 | 駿河茶禅の会

 2011年から(一社)静岡県ニュービジネス協議会の研究部会として活動していた【茶道に学ぶ経営哲学研究会】。2015年3月を以って(協議会の助成を受けての)部会としての活動を終了し、この4月から有志による【駿河茶禅の会(仮称)】としてリニューアルすることになりました。引き続き、裏千家インターナショナル・アソシエーション運営理事の望月静雄先生を中心に、禅の教えをベースとした茶の湯精神を学び、茶どころ静岡人として然るべき和の文化を身に着けようという教養講座です。私自身、歴史や禅を学びたい意志が強いことに加え、先生からも「茶道教室数あれど、茶史や禅学を学ぶ機会は皆無。こういう会はぜひ続けてほしい」と太鼓判をいただき、参加者の賛同を得ての再スタートです。

 第1回は4月22日(水)18時30分から。静岡市内の会員さんの企業オフィスをお借りし、参加者の自己紹介や近況報告をかねて「私の好きな禅語」を発表し合い、みんなでディスカッションする予定です。参加無料。興味のある方はぜひご一報ください。msj@quartz.ocn.ne.jp

 

  駿河茶禅の会のスタート準備、というわけではありませんが、利休七哲の一人・細川三斎にまつわる興味深い展覧会が東京の永青文庫で開催中とのことで、11日に行ってきました。

 

 ご承知のとおり、細川家2代当主・細川忠興(三斎)は、明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)を妻にし、本能寺の変で明智方からの誘いを断り、妻とも離縁しなかった偉丈夫。師匠の千利休が切腹を言い渡された後、彼と古田織部だけが(秀吉の眼を怖れず)利休を見舞ったと言われ、男気がある!と好感を持っていたのですが、今回の展覧会『細川家起請文の世界』(こちらを)を観ると、隠居して三斎と名乗った後は内内でかなりやっかいな存在だったようです。

 

 起請文とはいわば武士の誓約書。誰が敵か味方か判らない戦国時代は、神仏にかけて嘘偽りなく約束を果すと誓いの言葉を文言にし、血判を押します。・・・と、ここまでは戦国ドラマでもよく見る光景ですね。今回展示されていたのは元和6年(1620)に3男忠利に家督を譲って隠居し、三斎を名乗ってからの時代のもの。誰が誰に、どういう誓約をしたかというと、細川家の家臣が、3代当主となった細川忠利とその息子光尚に「私は三斎派ではありません!」と。・・・そう、隠居した三斎が家督を譲ったはずの3男やその孫と対立し、お家騒動が勃発していたのです。

 三斎は隠居後に与えられた八代の領地に、自分のいいなりになる4男5男の領地を勝手に加えて熊本藩から“独立”しようとしていました。なにせ戦国時代を生き抜いたカリスマ性たっぷりの偉丈夫。長年仕え、心酔しきっている家臣も少なくない。老いてもなお血気盛ん、というわけです。

 一方家督を継いだ忠利は、「戦国の世は終わった。これからの藩の運営には、新しい時代にふさわしい官僚組織が必要だ」と考えた。まあそれも道理ですよね。カリスマリーダーがトップダウンで組織を率いた実力主義の時代が終わり、2代目3代目になれば、組織を個人の資質ではなく“しくみ”として機能させる必要がある・・・現代に置き代えてみれば、戦後の混乱期から高度経済成長までを牽引したカリスマ経営者の手法は、経済安定→成熟期には通じないってことです。新社長は、いつまでも口出ししようとする先代や先代一派を、いつかは一掃しなければなりません。

 そんなわけで忠利は、やっかいな先代一派に対処する担当部署を設けるのですが、担当役になった小笠原長貞が他の家臣から「あいつ、三斎側と通じてるんじゃないか?」と疑いをかけられ、神仏にかけて否定した起請文をしたためます。また忠興時代に重用され、途中で無役となり、三斎時代になって再び重用されようとした沢村大学が「もう二度と三斎には奉公しません。なぜならこんなひどい目にあったからです」と、忠興時代に受けた嫌がらせや女性をめぐって忠興と対立したことなど私生活のあれやこれやを起請文に書き連ねています。

 

 さらに同情しちゃうのは、三斎末子で家老職に就いた松井寄之が病気でたびたび出仕しなかったことで「やっぱり親父に通じてるんじゃないか?」と疑われて、「ホントに病気なんです!」と必死に否定し、医師からウツ病の診断書まで書いてもらったという起請文。・・・肥後熊本藩細川家といえば700年続く名門中の名門で、現当主は総理大臣まで務めたという、ひょっとしたら日本史上一番の勝ち組名家ってイメージを持っていましたが、初期のころ、藩の組織が磐石になるまでは、本当にいろいろあったんですね。ギャラリートークで学芸員が「戦国世代(前時代)と官僚世代(新時代)の主導権争い」と的確に解説してくれましたが、茶人としても名高い三斎が、案外生臭い人だったとわかってちょっとガッカリ(苦笑)・・・というか、最近の大塚家具騒動をみても、経営を引き継ぐとき、というのが組織にとって最大のリスクなんだってしみじみ実感します。

 

 ほか、

○忠利が急死した後、家臣たちが新当主光尚に対し「御国家を大事とし、私的利害を排して職務に専念します」と約束。この当時の「国家」とはお家(組織)とお国(領地)を合わせた概念。

○三斎自身が忠利に対し「沢村吉重に増領したそうだが、あいつには昔、借米があり、利子を計算したら今なら3万石ぐらいになるぞ。その分しっかり差っぴけ」と宛てた書状

○茶道役10人が「茶道具を大切にします。もし破損させたら隠さず報告します」と約束。解説の学芸員さんは「彼らはいわば元祖学芸員。僕たちの大先輩です」と(笑)。

○お毒見役が「お殿様の御膳に関わるすべての者(料理人や配膳役など)本人に直接毒見をさせます」と約束。

○「天草島原の乱で功績のあった者には、自分の部隊所属の者であってもえこひいきせず、査定が完了するまで決して秘密は漏らさない」って約束。

 

 などなど、面白い(っていっちゃ失礼ですが)起請文や書状がズラリ。戦国の世が終わり、平和になったとはいえ、こういう起請文が必要なぐらい“息苦しい”時代だったよう。・・・そういう息苦しさは、昔も今も変わらないかもしれませんが。

 

 

 永青文庫の春季展【細川家起請文の世界】は6月28日まで開催中。【大名細川家の茶席と加賀九谷焼展・加賀の九谷焼現代作家作品展】を同時開催しています。なんで九谷焼?と思いましたが、三斎の長男で関ヶ原で豊臣側に与した疑いで廃嫡となった細川忠隆が加賀・前田利家の娘千世を正室に迎えており、さらに九谷焼が今年開窯360年の節目&北陸新幹線開通祝いとのこと。茶懐石に使う名品が展示されていますので、茶の湯に興味のある方はぜひ!