4月25日は建仁寺両足院の『多聞会』に参加した後、お世話になっている方と木屋町界隈をはしご酒し、泊めてもらう約束をした友人の二条城近くのマンションまでふらふらナイトウォーキング。目印となる建物が多く、ほとんどの通りに名前が付いている京都の街の良さをしみじみ満喫しました。
翌26日は念願だった千本えんま堂の古桜・普賢象を観に行きました。こちらで紹介したとおり、ヤエザクラ系最古の品種。古い品種と聞いて薄くて清楚な花をイメージしていたのですが、実際はご覧のとおりの華やかさ。すでに満開ピークを過ぎ、加えて真夏のような暑さの中、若々しい新緑の葉をバックに「まだ若いもんには負けないぞっ」って踏ん張って咲いていた姿が心を打ちます。今年はいろいろな桜を意識して観て来ましたが、トリを飾るにふさわしい美桜でした。
次いで訪れたのは円町にある法輪寺。通称“だるま寺”です。境内にある起上達磨堂には、全国の信者が持ち寄ったダルマさんがズラリ。2月のだるま寺節分会は善男善女でにぎわうそうです。
日本人なら知らない人はたぶんいないダルマさんですが、こちらで書いたとおりインドから中国へ禅を伝えるためにやってきて、遼の武帝を「無功徳」と喝破した後、少林寺に籠もって壁に向かって9年間坐り続け、手足を失い尻が腐ると噂されるほどの忍苦の苦行をし、禅の始祖となった―噂の信憑性は別として、法輪寺の由来書には、
「七転八起とは、倒れても自力で起き上がる力である。転んだ力の大きさで起き上がり、無抵抗の力で、苦にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間生活のシンボルが、起き上がり達磨の本質である」
とあります。ダルマに目を入れるのって、選挙で当選した人やノルマ達成した営業マンは単なるセレモニーとして行なっているのでしょうけど、本来は仏像同様、開眼することで魂を迎え入れるということ。満願成就して両眼をいれるのは願(がん)と眼(がん)をかけているともいわれます。身近にありすぎて、本来の意味を考えることなどほとんどないけれど、この由来書の一文は忘れないで心に留めておこうと思いました。
昭和のはじめごろ、法輪寺第10代住職を務めた伊山和尚は、『白隠和尚全集』を刊行し、白隠さんの名を世に知らしめた功績者のお一人。こちらで紹介したとおり、白隠さんは30代の頃、禅病に苦しみ、京都の北白川に棲む仙人白幽子から内観の秘法を授かって治療したと伝わりますが、その白幽子の墓石が明治34年に吉田神葬墓地(現・神楽岡墓地)から盗まれ、しばらく行方不明だったところ、終戦直後の昭和21年に東京で見つけて自寺に移したのも伊山和尚でした。こちらがその墓石です。
墓石には宝永6年(1709)没とあり、白幽子が伝説の仙人ではなく実在した人物だと判明した一方で、白隠さんが宝永7年(1710年)に北白川を訪ねたときはすでに亡くなっていたわけですから、白隠さんが訪問年を勘違いしたか、白幽子本人ではなく別の人から秘法を授かったということになります。・・・う~ん。
こちらで書いたように、明治34年に吉田神葬墓地から盗まれた後、明治36年、富岡鉄斎が私費で墓地を再建しました。現在、神楽岡墓地にあるのはこの墓石。鉄斎直筆の字だとしたら価値がありますね。墓地の入口に建っていた「南無阿弥陀仏」の石碑は、一説には白幽子直筆を刻したものとか。墓守のおじさんに訊いてみたのですが、さっぱりわからないとのこと。白隠さんのフィクション疑惑からして、いったい何が事実で何が作り話なのかわからなくなっちゃいますが、白隠さんが実際に北白川瓜生山の山中を歩いたことは事実のようです。
実は25日、建仁寺両足院に行く前に少し時間があったので、北白川にあるという白幽子寓居跡を訪ねてみようと瓜生山のトレイルを途中まで歩いてみたのです。バス停北白川仕伏町からバプテスト病院裏に入り、「北白川歴史と自然の道」の看板を見つけてしばらく歩くと大山祇神社。そこまでは案内看板があったのですが、その先に延びるのはただのけものみち。仙人といわれた人の棲み処なんだから難路なのは仕方ないと、足元の濡れ落ち葉で何度も滑りそうになりながら進んだのはいいけど、何度か分かれ道に出くわし、まったく方角がわからず。気づけば小1時間、汗びっしょりでタウンシューズはドロドロ。このままでは多聞会に遅参するどころか、遭難するかも・・・と怖くなって、元来た道を戻りました。
先日訪ねた美濃加茂の白隠坐禅石のように、ちょっと歩けばすぐに見つかると思った己の軽率さを恥じると同時に、ひと気のない山道で迷ったことで、禅病に苦しみ、救い主を求めて必死に歩いた白隠さんのお気持ちがほんの少し疑似体験できたような、不思議な錯覚を覚えました。
バスに乗って、白幽子寓居跡を見つけたらそこで読もうと思っていた『夜船閑話』を開いて、白隠さんが山を降りるとき、白幽子が、
「人迹不倒の山路、西東分ち難し。恐くは歸客を惱せん。老夫しばらく歸程を導ん」(人も入らぬ山路で方角もわからず、お困りであろう。しばらくお送りしよう)
と、途中まで見送ってくれたくだりを読んだら、フッと涙が湧いてきました。このときの白隠さんはさぞかし心強かったでしょう。白幽子に直接会ったことがフィクションだとしても、このように書き残したいと思った白隠さんのお気持ちは理解できる気がします。白隠さんのように命を削って禅定に徹した人でなければ出合えない救い主かもしれないけれど、自分もこの先、こうして寄り添ってくれる人と出合えるといいな・・・。
そんなこんなで、翌26日の法輪寺では、誰もいない静かな本堂で新緑の光に包まれた庭園を前に、30分ほど瞑想しました。瞑想といえば聴こえはいいのですが、前日の歩き疲れと呑み疲れで眠気に襲われただけ(苦笑)。本堂の縁側角に置かれた彫像の牛に嗤われているような気がしました。
白幽子関連史跡は、京都における白隠さんの数少ない貴重な足跡のようです。確かに白隠さん本人ではなく、白隠さんの師匠の縁地しかないとしたら、ちょっと物足りないかも。
私はいつも、京都にしかない歴史文化にふれる旅をしているのですが、京都にはないものもあるんだな、と改めて実感しました。白隠さんの足跡は京都に少ないかわりに、地方創生の種子のように全国に点在しています。ホームタウンである駿河沼津は、ますます頑張らなければいけないな、と思います。
4月29日(水・祝)は原の松蔭寺と徳源寺で寺宝の虫干し見学会が開かれ、白隠画を直接観ることができます。生家跡や東海の植物園として名高い帯笑園の一般公開もあるそうです。時間は松蔭寺は9時30分から16時まで。徳源寺は10時から14時まで。帯笑園は桜草鑑賞会とお琴の演奏会が9時30分から12時まで。抹茶野点の席もあります。お時間のある方はぜひいらしてください。