杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

語り部の資格

2015-05-02 23:14:33 | 日記・エッセイ・コラム

 久々に自宅のデスクの前で不動明王?のごとく一歩も動かず、がっつりモノ書きしています。箸休めにネットサーフィンして見つけ、心に残ったのが、NHKあさイチの柳澤秀夫解説委員が、親交のあった故・後藤健二さんについて語ったインタビュー記事でした。

 あさイチで後藤さんの訃報にふれたとき、柳澤さんの「後藤さんが何を伝えようとしたかに目を向けて」という言葉が反響を呼びました。当時、日本の報道では、紛争地での取材手法や後藤さんのプライバシーについて、また日本政府の責任問題といった論調が目立つ中、本当に見落としてならないのは、命を賭して彼が伝えたかったものは何かを問いかけたものでした。インタビューでは大手メディアとフリーランサーの違いにも触れ、大手メディアの「危ないところにはフリーに行ってもらう」「撮って来てもらった素材で番組をつくる」という短絡的な発想や、フリーの人たちが「自分たちがヤバイところへ行って仕事して稼いでいるんだ」とかっこつけるのも、何かちょっと違うと柳澤さん。

 フリーだろうと大手所属だろうと、ジャーナリストを自認する以上、危険な地域で取材活動するリスクは同じ。消防士や警察官が危険を承知で仕事するのと同じ。その現場で、今語るのに最もふさわしい人間が伝えるのが理想だと。でなければ、今そこで起きていることが正しく伝わらない。後藤さんはつねづね「伝えるべきことがちゃんと伝われば(誰が伝えようと)いい」というスタンスだったそうです。私たちは、ややもすると、「何を伝えたか」より、「誰が伝えたか」にとらわれてしまいがちですが、これは日本が、ホンネと建前を使い分ける社会のせいかもしれませんね。

 

 私が書くものは戦場ジャーナリストの世界とは程遠い、平和でローカルなテーマですが、取材やインタビューをする中で、「書かないほうがいいかな」と思われるかなりセンシティブな話は多々あります。それを聞かなかったことにして体裁を繕った記事を書く・・・それが求められた仕事で、クライアントの要求に応えて書くのがプロなんだと自分に言い聞かせてきました。でも取材したテーマの根源的な問題が必ずそこにはある。はっきり「オフレコだ」と言われたらもちろん書きませんが、かりに、私が自己判断できわどい話も暴露したら、取材対象者からの信頼は失われ、私が懸命に問題提起しようとしても、スズキが書くものはNOのレッテルを貼られ、問題解決からはむしろ遠ざかってしまう。以前、そんな失敗をした私は、あの時点で、そのテーマについて語るにふさわしい人間ではなかったのだ・・・柳澤さんの記事を見てそう感じました。

 

 最近読んだ、あるニッチなテーマに関する2冊の本。1冊はそのテーマの“体現者”が書いたもので、もう1冊は“研究者”が書いたもの。体現者は「自ら体現しない者は論ずる資格がない」とし、研究者は「幅広い人間が自由に論じることでテーマが伝播し、価値が高まる」としています。取材者の感覚からすれば、体現者の言っていることは極論に思えますが、テーマを曲解して論じたり営利目的に価値を高めようとする輩がいたとしたら、体現者の言い分は理解できないこともない。ちなみに私が読んだ研究者の本はそんな輩とは程遠い、極めてまっとうなもの。体現者には研究者に対し、どこか理屈では説明できない複雑な思いがあるのかな、と想像しました。テーマへの思いは同じように深いのに、立場が違う者同士が共同歩調をとるのはそんなに難しいことなんだろうか・・・。

 

 関わった取材テーマについて、そのつど実体験するわけにはいかない自分にとって、体現者の言葉は重く厳しいものがあります。酒のことを書くのに、酒を造ったことのない人間に書く資格はないと言われるようなもの(・・・実際、そう思っている酒造関係者がいるかもしれません)。そんな体現者に“対抗”するには、現場をしっかり観察し、ひたすら想像力を働かせるしかない。それも中途半端な理解や思い込みで想像するのではなく、記録や文献や証言を、丁寧に、慎重に検証しながら・・・。

  

 後藤さんの映像は、紛争地の一般庶民の苦しみに寄り添っていたといわれます。声に出して訴えることの出来ない弱者の痛みを思いやっていたと。人として、想像力をまっとうに働かせていたのでしょう。私も想像力を間違った方向にふらないよう、まっとうな判断力を持てるよう日々精進し、取材テーマにはまっすぐ向き合って当事者に寄り添いたい、と思います。

 ・・・今日は内容のない駄文になってしまいました。すみません。