杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

乱読記

2015-05-13 16:28:30 | 本と雑誌

 先日、久しぶりに大井川鉄道「五和」駅の中屋酒店コップ酒場に行き、店オリジナルの酒『かなや日和』の新酒を堪能しました。仕込みは島田の大村屋酒造場。この日は酒の仕込みがひと段落した大村屋酒造場の杜氏や蔵人の皆さんも店に来ていて、ともに親睦を深めました(この店のことは6年前の記事をどうぞ)。

 たまたまお店に来ていた近所のおっちゃんとコップ酒で乾杯したとき、おっちゃんから職業を訊かれ、「好きな仕事でメシが食えるって、ねえちゃん幸せだなあ」としみじみ言われてしまい、今はバイトを掛け持ちしなければ書く仕事を続けられない苦しい身の上を愚痴りたくなるのをグッとガマンして、「そうですねえ、ありがたいですねえ」と空威張りしてしまいました。バイトしなければライターを続けられない自分をミジメだと思うか、この歳でもバイトがあってライターを続けられる自分は恵まれてると思うか、気持ちの持ち様って大きいですね。

 身近には、好きな仕事どころか、病気や家族の問題で暮らしそのものに縛りを抱え、苦しんでいる友人が何人かいます。自分はまだ空威張りできる余力がある。精一杯意地を張って書けるだけ書いて、ボロボロになったらなったで仕方ない。死ぬまでには、まだ間があるだろうし、自分にこそ書けるものがあるだろう。いつかはそんなチャンスに出合えるかもしれないし、一生縁がないかもしれない。でもあきらめたら終わり。当たりが出るまで買い続けなきゃならない宝くじみたいなもんだなあ・・・『かなや日和』をちびちびやりながら、つらつら思いました。

 

 生活の不安を抱えながら、書く仕事のモチベーションをキープするのに、とりあえずの処方箋は読書です。今は自分でも信じられないけど、飲酒時間より読書時間のほうが長い。眼精疲労はMAXだけど胃腸はすこぶる快調です(笑)。

 

 直近で読んで面白かったのが、稲垣栄洋さんの【なぜ仏像はハスの花の上に坐っているのか】(幻冬舎新書)。稲垣先生は静岡大学大学院農学研究科教授で、以前、我が酒友・松下明弘さんと共著で【田んぼの学校】を上梓された気鋭の農学博士。身近な先生が仏教と植物について書いたとあって興味深く拝読しました。

 ハスは約1億年前の白亜紀から生息する古代植物で、おしべとめしべが無秩序にゴチャゴチャしている。めしべがずんぐりしていて実に間違えられるので、「ハスは花が咲くと同時に実をつける」と珍しがられ、原因と結果がつねに一致する“因果倶時”という仏法の喩えに用いられるとか。泥の中でも花を咲かせることができるのは、地下茎(レンコン)に穴があって空気を運ぶことができるから。清浄と不浄が混在する人間社会において、新鮮な空気を循環させる大切さを実感させてくれます。以前、量子力学や宇宙物理学と仏教の講演を聞いたときはあまりにレベルが高すぎてチンプンカンプンでしたが、同じ理系の専門家でも稲垣先生は自分の身の丈にあったわかり易い解説をしてくださり、心に染み入ります。一度講義を拝聴したいなあ。

 

 

 奈良興福寺の多川俊映貫首がお書きになった【唯識入門】(春秋社)は、小難しい唯識仏教解説書の中で比較的スーッと入ってきた入門書。唯識って単純に言えば「気持ちの持ち様」を論理的に検証する心理学のようなもの、と、とらえています。この本に触手したのは、冒頭に陶淵明の漢詩「飲酒」が載っていたから(笑)。「飲酒」のこの一節が唯識の要のようで、

 

  心遠ければ地自ずから偏なり

 

 ワイワイガヤガヤした人境(街中)にあっても、心が執着から遠く離脱している情態ならば、喧騒は気にならない。凡人は喧騒にうつつをぬかし、小隠者は誰もいない山中に遁れたいと思うが、真の大隠者は市井に遁る、という中国の諺がベースにあるそうです。生涯、市井の寺の住職を務めた白隠禅師を思い出さずにはいられません。もっとも私は、騒がしい酒場でも独酌が楽しめる心の余裕を指す言葉だと素直に解釈しましたが(笑)。

 

 

 前々回の記事でふれた武田泰淳。文庫本で630ページの大作【富士】をようやく読破したところで、次にチャレンジしている純文学がグレアム・スウィフトの【ウォーターランド】(新潮クレストブックス)。こちらは単行本にして520ページ。2年前、翻訳家志望の知人青年から勧められ、あまりに話がとっちらかっているので途中で中断してしまったのですが、【富士】の読後に急に思い出して再読。泥沼に足をとられるが如く、ジワジワはまっています。52歳の歴史教師が生徒に語る自分の生まれ故郷の歴史、という体裁ながら、複雑怪奇な一族の物語やらビール醸造史やウナギの生態やらフランス革命や核戦争やらと、ゴッチャ煮感がハンパない。 歴史をこんなふうに物語に仕立てることの出来るのか・・・と目からウロコの構成です。だいぶ前に映画化(ジェレミー・アイアンズ主演『秘密』)されたみたいですが、原作のスケールには程遠いメロドラマらしい。ご覧になった方は感想を聞かせてください。

 

 最近読むのは歴史書や解説本やドキュメンタリーばかりですが、20代の頃はちゃんと読んでた純文学。先月末、京都で遅咲きのヤエザクラ普賢象を観た後、思い出して本棚の奥から引っ張り出したのが大岡昇平【花影】(新潮文庫)でした。主人公の葉子が死を選択する最終章の淡々とした表現、情感をはさまない、脚本のト書きのような表現が、20代のころは冷たく感じて腑に落ちなかったのですが、今はこういう書き方が沁みて来るんですね。人を信じては裏切られ、人を愛しては裏切られ、自らもまた誰かを傷つけてきた・・・葉子の物語にも近い、自分の歳相応の経験がそう感じさせるのでしょうか、最終章を読み進むうちにポロポロと泣けてきました。

 

 最近読んだ本の中で、書く仕事のモチベーションを盛り上げてくれた最良の書は、芳澤勝弘先生が花園大学国際禅学研究所退任記念に出版された【蛇足に靴下】(静嘉堂文庫)。先生はいわずとしれた白隠研究の第一人者であり禅学史の大家でいらっしゃいますが、最初は花園大学の一般職員からのスタート。同志社大学の経済学部ご出身で、禅学を専門に勉強されたわけではなかったそうです。その後、花園大学禅文化研究所に移って経営のテコ入れに大学学長の山田無文老師の講話テープを書き起こして書籍化。ワープロの走りである富士通オアシス1号機=当時380万円也を使ったそうです。思い切った初期投資、というわけですね。

 その後、雑誌『禅文化』の編集長として手腕を発揮され、禅語解読のための『基本典籍索引叢刊』全13巻を草案・プロデュース。さらに500年に一人の逸材で臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の全著作を完訳、しかも一般の人にも読めるよう解りやすい現代語訳で次々と刊行されました。その原動力は、既存の訳や解説に頼らず、原本に真正面から、自らの眼と頭で納得するまで向き合うという姿勢。そして辞書でさえご自分で創ってしまうというパワー。これらが宗門大学という特殊で閉鎖的な教育機関における“ニュービジネス”を次々と成功させたわけです。道理で、先生とお話していると、禅の研究家というよりも、ベンチャー企業のアントレプレナーのようなエネルギーを感じ、こちらまで元気になれるのです。

 

 本書は雑誌『禅文化』の編集後記をまとめた随筆集で、退官記念パーティーのお礼に配られた非売品とのこと。私は運よく駿河白隠塾の会合で手にすることが出来ました。大御所である先生が大学の一般職員からスタートし、編集者として、さらに研究者として未開の分野を切り拓かれたことを知り、こういうキャリアの先生だからこそ、私のような泥沼の中のミジンコのような存在にまで手を差し伸べてくださったのだ、と胸に迫ってきます。精一杯意地を張っていると、こういう“当たりくじ”にも出合えるんだなあ・・・なんて、つかの間の幸せ気分を味わっちゃいました。

 

 このほかにも(読まねばというプレッシャーを自分にかける意味で)ここで挙げておきたい読みかけの本が数冊ありますが、今日はこのへんで。