杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

宇治川の水といのち

2015-05-28 17:30:39 | 歴史

 5月は前半ゴールデンウィークは自宅にお籠もり状態。後半はほとんど自宅におらず放浪状態で、ブログ更新も滞ってしまいました。(物忘れが加速してるので)なんとか月内に行動記録しとかねばと疲れ眼をこすりながら書いてます。

 

 まずは2週間前の報告ですが、5月16~17日と友人と車で京都に行ってきました。

 16日、私は京都大学宇治キャンパスで開催された生き物文化誌学会宇治例会『宇治川の水といのち』に参加。今例会は、平等院鳳凰堂が昨年10月に修理復元を終えて創建当時の姿に生まれ変わったことと、昨年初めて宇治川でウミウの人工育雛に成功したことを契機に企画され、「水」がキーワードになっていることで、地元特産品である宇治茶の歴史と現状についても興味深いお話が聴けました(生き物文化誌学会についてはこちらをご参照ください)。

 第1部では平等院住職の神居文彰氏が、平等院に構築される「いのち」の表現について画像を中心に解説されました。宇治という言葉、もともと「内と外の境界」「憂しの場」という意味が込められているそうな。鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像の胎内には、径37.6cm、高19.7cm、上面には阿弥陀如来の大呪小呪を輪形に景祐天竺字源(梵字)で墨書された世界で最も古い月輪蓮台が残っており、一千年間、完璧に保存されていました。水の比喩によるいのちの救済表現が綴られているそうです。

 平等院は、敬愛する樹木医塚本こなみ先生がフジの治療を担当されていたご縁もあって、こなみ先生と何度か訪ねており、昨年6月には茶道研究会の仲間と訪ねました。鳳凰堂の平成修理は平成24年9月から26年9月まで。判明しうる最も創建時(1052年)に近い姿に復元されました。創建当時、究極の美しさを求めて造営されたため、屋根の張り出しが大き過ぎる無理な構造になってしまった。そのため、日本の古代建築の修理が通常150年に一度ぐらいで済むところ、鳳凰堂は60~70年ごとに中規模修理、120~130年ごとに抜本的な修理が必要だったそうです。

 創建してから50年後の1101年に最初の大規模な修理が行なわれ、このとき、木製の瓦葺から、本瓦葺(焼瓦)になったそうです。瓦って平安時代は木製だったんだーとビックリ。1101年には河内向山(現在の大阪八尾市)の瓦工房に特注してすべて焼瓦に。今の瓦と比べても遜色のない上質な瓦だとか。今回は瓦総数約5万点のうち、1500点の平安瓦を葺き直したそうです。燻し銀を使わず古色に仕上げたシックな色です。これが、極楽の宝池の浮かぶ竜宮城のように水面に映る。大型クレーンやリフトのない時代に、こういった空間デザインが出来たって凄いなあ・・・。

 鳳凰堂内部は、花々な象徴的に配置され、復元された西扉「日想観図」(国宝)には海に沈む夕日が描かれています。日想観とは、沈む日輪を沈んだ後もいつまでも思い浮かべること。当時の人々の自然観が偲ばれます。

 

 第2部は宇治観光協会所属の女性鵜匠・澤木万理子さんが、昨年、全国で初めて成功したウミウの人工育雛についてお話されました。宇治川の鵜飼は平安時代から始まったそうで、貴族の別荘地でもあった宇治の風物詩となっていましたが、平安後期から仏教の影響で殺生が戒められ、貴族の没落とともに衰退。現在の鵜飼は大正15年に再興したそうです。日本ではほかに岐阜長良川、京都嵐山など全国で12ヶ所で開催されています。

 ウミウは鋭いクチバシと爪を持ち、水中深く潜ってすばやく魚を捕らえる渡り鳥。鵜飼に使うウミウは、捕獲された野生のウミウを、鵜匠が鵜小屋で飼育しながら訓練を施します。人工的な飼育環境下では繁殖しないと言われてきましたが、昨年5月、鵜小屋で産卵した卵から1羽のヒナが誕生し、今年もつい先日誕生のニュースが伝わったばかりです。

 鵜飼の面白さは、人間と、野生の渡り鳥であるウミウによる絶妙なコンビネーションにあり、ウミウと信頼関係を築き上げるため鵜匠は日頃から献身的なケアをされるそう。若い女性が鵜匠の世界で活躍されているということも面白いな、と思いましたが、平等院の自然観のお話を聞いたあとだけに、野生の渡り鳥であるウミウが追い網紐を首元と胴体に装着させられ、ひたすら鮎を捕り続ける。捕った鮎を飲み込まないようウミウの首元は窒息しない程度に縛られている・・・それを自分は素直に風流だと愉しめるだろうかと、ふと感じます。

 実際に鵜飼を観たことがないのでなんともいえませんが、ここが、平等院という極楽浄土を具現化させた地だと思うと、若干引っかかりを覚えないわけではない。・・・もちろん、鵜匠の皆さんは、生きものをパートナーにされているのですから、人一倍、いのちに対する深い思いを注いで仕事されていることでしょう。今回は、聴講した我々一人ひとりに、いのちについて考える好機を与えてくれた、ともいえますね。

 

 第3部は宇治茶伝道師で㈱小山園顧問の小山茂樹さんが【宇治川が育てた宇治茶】と題してお話されました。歴史教科書で習ったとおり、お茶は鎌倉時代に栄西禅師が種子を持ち帰り、それを譲り受けた明恵上人が京都栂ノ尾の高山寺境内に植えたのが日本で最初の茶園、ということになっています(以前、自分で検証旅行してみましたのでこちらをご参照ください)。

 明恵上人はさらに茶の栽培に適した場所として宇治を選び、分植しました。宇治川が運ぶ肥沃な土壌、適度な寒暖の差、川霧の発生が茶の栽培に適していたからです。現在、黄檗宗萬福寺山門前にある『駒の蹄影記念碑』には、「栂山の尾の上の茶の樹 分け植えて、跡ぞ生うべし 駒の蹄影」とありますが、これは、上人から茶の樹を与えられた宇治の里人はどうやって植えたらいいのかわからず、上人から「馬の足跡に千鳥植えしなさい」と指導されたことを謳ったそうです。

 宇治川は宇治橋を過ぎたあたりから巨椋池(おぐらいけ)に流れ込みます。この池は昭和初期に干拓されてしまいましたが、もともとは宇治川、桂川、鴨川、木津川などの遊水池で、太閤秀吉が宇治川に太閤堤を整備したころは1200ヘクタール、水深は2m近くあったそうです。ここに群生する葦が、茶園のこも掛け(覆い)に利用され、上質茶を育てました。宇治川流域は粘土質で、うまみのある濃厚な茶になり、木津川流域は砂地なので香りよくあっさりしたのど越しのよい茶になる。2タイプをブレンドすることにより、香味ともに優れた茶になり、抹茶として大いに珍重され、巨椋池発の水運を利用して京の都に運ばれた。都における茶道の興隆とともに宇治茶業も大いに発展した、というわけです。・・・やっぱり地の利って大切ですね。

 この地はもともと黄檗断層が走り、地震の多い場所でしたが、断層のある地は名水が湧くともいわれます。いにしえの人々は地盤の悪い土地に竹を植え、その延長線上に茶を植えた。戦乱の多い土地ゆえ、米を作ってもどうせ奪われる。結果として、巨椋池周辺には伏見の酒、向日市の筍、宇治の茶という特産品が生まれた、ということです。地の不利をも活かしたわけですね。

 

 小山さんのお話で印象的だったのは、現在、年1回、茶産地の市町村長約80人が集まって開催する全国お茶サミットのこと。参加資格は各市町村で100ヘクタール以上の茶園がある、ということだそうですが、宇治市は平成20年度時点で80ヘクタール以下となり、観光客から「宇治の茶園はどこにあるんですか?」と訊かれる状況。数年前のお茶サミットで、伝統ある宇治を外すわけにはいかないと、掛川市長が「概ね100ヘクタールに」と配慮を示し、宇治市がかろうじて参加可能となったそうです。宇治では70年ぐらい前まで平等院周辺にも茶畑が広がっていましたが、日当たりよく、水利があり、風通しもよいということで、固定資産税が高く、相続税が払えない後継者が土地を手放し、急激に宅地化が進んだそうです。

 そんな状況でも、ゆるぎない宇治茶ブランド。平成18年に「京都府、奈良県、滋賀県、三重県の4府県産茶を、京都府内の業者が宇治地域に由来する製法により仕上げた緑茶は“宇治茶”と認める」ことが取り決められ、団体登録商標として〈宇治茶〉が認定されました。

 

 宇治市内の小学校20校では、お昼どきに蛇口からお茶が出るそうです。子どもの頃からお茶を飲む習慣を身に着ければ、五味のうち子どもの苦手な「苦味」を覚え、味覚の豊かな大人になる、という“茶育”が徹底しているのです。静岡では川根筋の小学校で蛇口からお茶が出ると聞いたことがありますが、都市部ではどうなんでしょうか・・・宇治茶から学ぶことはまだまだたくさんありそうだ、と実感させられました。