杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

名杜氏逝く

2009-07-17 22:51:29 | 吟醸王国しずおか

 とても残念なお知らせです。

 『開運』の名杜氏・波瀬正吉さんが15日、お亡くなりになりました。

 

 一昨日・昨日と、このブログでも波瀬さんを紹介したページのアクセス件数が急に増えたので、何かあったのかなと思っていましたが、まさか亡くなられたとは…。波瀬家のみなさま、土井酒造場のみなさま、そして全国の『開運』『波瀬正吉』ファンのみなさまに、心よりお悔やみ申し上げます。

 

 

Dsc_0010  波瀬さんに最後にお会いしたのは、ちょうど1年前の2008年8月20~21日でした。

 過去ブログでも紹介したとおり、『吟醸王国しずおか』で能登杜氏組合夏期講習会で講師を務める波瀬さん(右写真)を撮影し、夜は能登町のお宅へうかがって、講習会に参加した土井酒造場の若い蔵人衆と波瀬さんが呑み切りをする様子や、50年あまりの杜氏人生を振り返るインタビューを収録しました。

 翌日は、奥さまの農作業の様子を撮影し、波瀬さんの若かりし頃の写真などをお借りしました。朝、講習会に向かう波瀬さんを、ご自宅の前で見送ったのが、直接目にした最後のお姿でした。

 

 08年冬~09年春にかけ、波瀬さんの酒造りの様子を撮影すべく、土井酒造場に再三お願いをしたのですが、そのつど波瀬さんが足腰をいためた、入院した、リハビリ中だとの理由でNG。春、蔵の門の前の見事な桜を撮りたいとお願いしたときは、前夜になって急にNG。連絡がつかなかったカメラマンの成岡さんが、早朝、蔵へ向かってしまったというトラブルもありました。…蔵元に快く撮影を受け入れてもらわねば、いい映像は撮れませんから、こちらも無理強いはせず、波瀬さんのお元気な姿が撮れるようになるまで、気長に待とうと思っていました。

 

Dsc_0030

 08年夏にお会いした時の波瀬さんは、確かに足腰が弱っている印象でしたが、パイロット版09バージョンでも紹介したとおり、矍鑠としたお姿で、「おいそれとはやめられん、酒造り人生だから」という名言を聞かせてくださいました。

 呑み切りで試飲するときに、一瞬見せた厳しい表情は、東大寺戒檀院の四天王像―中でも私が一番好きな広目天のお顔によく似ていて、帰宅してからスケッチ画にして、雑誌『sizo;ka』で紹介したほど。体調は万全でなくても、秋からは『開運』の現場で守護神のごとく蔵人衆を見守り、指Imgp1197揮されるんだろうなと期待していました。

 

 

 

 まだ病名や死因など詳しいことはわかりませんし、知ったところで、どうしようもありません。今は、また一人、吟醸王国しずおかを築いた偉大な功労者が逝ってしまったことが、ただただ悔しくて寂しくて仕方ありません。

 

…蔵での波瀬さんは撮れなかったけど、故郷での貴重なお姿を記録できたことには、わずかばかりの安堵感を覚えます。無謀な計画だったけど、この時期に映画を撮ろうと思ったことが、少しは意味があったんじゃないかと…。

 『sizo;ka』の拙文の一部を再掲し、お悔やみの言葉に代えさせていただきます。

 

 

 波瀬さんのお宅と畑は、日本海に面した小さな漁村にある。

 漁師の父を継いで、若い頃はイカ漁に出ていた波瀬さんは、先細りする漁業に見切りをつけ、冬場は酒蔵へ出稼ぎ、夏場はこの地区の農地活性化事業で導入されたタバコ栽培に活路を得た。最初の出稼ぎ先は、静岡県御殿場市にあった「富士自慢」の酒蔵だった(現在は廃業)。

Photo  妻の豊子さんに「富士自慢」で酒造り修業を始めた当時の波瀬さんの写真(一番左はし)を見せていただいたとき、富士山をバックに、凛とした表情で立つその姿に、思わず「カッコいい!」。ああ、この人は、富士山を見ながら杜氏の道を歩き出し、今は静岡を代表する銘醸の看板杜氏を務める、静岡にとって得難い職人なんだ…と実感した。

 どんよりと曇り空に覆われる能登半島先端の小さな漁村。昼間は道行く若者の姿をほとんど見かけない。

 「家にカギなんかかけたことはないんだ」と笑う豊子さん。

 隣近所の高齢者同士が肩寄せ合って暮らすこのまちで生まれた、一人の不世出の杜氏が、モノや情報に満ち溢れたわが静岡県の酒造技術を日本屈指のものへと高めた。

 我ら地酒ファンだけでも、そのことを深く深く受け止めたい。

●雑誌sizo;ka 9号(08年秋号) 「真弓のスケッチブック~酒蔵を巡るしぞーかスケッチ旅行」より抜粋

 

 


地酒ファンのコミュニケーションエンジニアリング

2009-07-15 12:14:46 | しずおか地酒研究会

 13日(月)は、昼間、東京の某ホテルで、ホテルの企画として『吟醸王国しずおか』パイロット版試写会&トークセッションを開催したいという有難い申し出をいただき、打ち合わせに行ってきました。静岡県出身で地酒ファンの総支配人が、テレビ版『しずおか吟醸物語』を観て、うちのホテルで応援したい!と名乗りを上げてくださったのです。

 

 地元じゃなくて東京からこういうお話が来たというのは、感慨深いこと。思えば、1年前のパイロット版初上映のときも、静岡よりも東京のギャラリーのほうが温かくて好意的で、情報量の多い大消費地で、生産量の少ない静岡酒の実力を認め、積極的にチョイスされる方々のモノの見方が、自分が目指す映像の方向性に合っていたことを確認できて嬉しかった…!。今回も、まさに、昨年来から続く在京静岡酒ファンのネットワークによって実現します。

 

 ビジネスベースで販売戦略や集金システムを構築しようとするギョーカイ人の方々からは、「なんでいきなり東京のホテルでそんなことができるの?」「酒造組合に頼んだの?」「どこの代理店の口利き?」なんて聞かれそうですが(実際に聞いてきた広告会社の人もいましたが)、ファンの口コミというのは、ホント、いざというとき大変な力になります。これも、静岡の蔵元が、ファンの気持ちを大事にした、ファンが自ら応援したくなるというような品質を築いてきた証拠であり、映画作りも、蔵元側のウリを押しつけるPRビデオではなく、ファンが見たい・知りたい蔵元の素顔を追っている=ファンの気持ちを代弁する思いで取り組んでいるからかなと思います。

 東京のファンのほうが、静岡の酒は「探し求めないと買えない」飢餓感を持っているからこそ、思いが深いのでしょうね…。

 

 開催は10月初旬を予定しています。詳細が決まったらご報告しますので、在京静岡酒ファンのみなさま、また昨年のパイロット版をご覧のみなさま、今回は東京では初披露の映像もふんだんに入った09バージョンですので、ぜひご期待くださいまし!

 

 

Imgp1190  さて、13日は夜、静岡へ戻って(社)静岡県ニュービジネス協議会中部サロンを取材しました。講師は㈱リクルートHR静岡グループ・ゼネラルマネージャーの大黒光一さん。リクルートって、1960年に大学新聞専門の広告会社として創業し、就職情報、住宅情報、旅行、中古車、生涯学習、結婚情報、子育て、タウン情報等など、あらゆる生活情報を網羅し、紙ベース・ネット・イベント研修などさまざまな方法で発信していますよね。

 グループ会社がいくつあって、社員が何人いるのか、把握できないぐらいだそうですが、グループ内では転職異動は本人の自由意思だそうで、上司は命令できないとか。社員に出て行かれた会社は、魅力のない組織だというレッテルを貼られるので、上司はウカウカしてられない…つねに「クライアント先(の組織風土や社員のモチベーション)と、自社を比較し、自社の市場価値を確認する」…そんな社風のようです。

  

 Imgp1189_2順風満帆に成長したように見えるリクルートさんですが、大黒さん曰く、「新規事業の成功率は1勝9敗です」と苦笑いします。新しく挑戦したものがすんなり当たればラッキー。失敗しても挑戦しないよりはいいと、いたって明快です。

 

 

 さて、大黒さんのお話の中で興味深かったのは、静岡県出身の学生の就職動向です。この春、県内の高校を卒業した18000人の進路を調査したところ、県内大学・短大に進学したのは約4500人、東京へ進学したのは約8300人、東海圏に進学したのは約2500人、関西へは約1300人でした。

 

 県内に進学した人はそのまま地元へ、県外に出た人もUターンしてくれれば県内企業としては申し分ないわけですが、実は静岡県はUターン率が25%ぐらい。7割以上の学生は、県外へ出て行ったまま、戻ってこないのです。とくに県東部出身者はUターン率が低く、有名進学校のひとつN高などは、ほとんどが首都圏の有名大学に進み、そのまま就職、というパターンだそうです。

 

 かつて、静岡県はUターン率の高い県として知られていましたが、県内大学→地元企業の人も5割ぐらいしかいないというから、Uターン優秀県なんて言ってられない状況です。

 今、東大や早慶などのトップクラスの学生のもとには、米国グーグルやマイクロソフト、韓国サムスンといった海外企業が、3年生のうちから奨学金を出して研究活動を支援し、卒業後はそのまま就職…などというパターンも。「うちは静大や県大の学生さえ採れればいい」なんて言っている県内企業は、優秀な人材が県外・海外へ吸い上げられている現実に早く気づくべきだと、大黒さんも注意喚起します。

 

 

 サロン終了後は、さすがリクルートさんだけあって、本やマガジンなどお土産資料をどっさりいただきました。

 その中に人材開発トレーナー大川修二氏の『人材価値による経営の時代』(幻冬舎刊・1400円)がありました。サロンImgp1192 は1000円の参加費なのに、ビール飲み放題・軽食付きで、1400円のお土産が付くなんてラッキー!と思って帰宅後、パラパラとめくってみたら、ケーススタディで紹介されていたのが、業務用酒類卸日本一の㈱カクヤスでした。1年365日毎日配達、ビール1本でも無料配達、都内23区内ならビール1本2時間以内、契約外の店にも夜9時までに注文があればビール1本から届けて現金支払いOK等など画期的なサービスで、大卒の3代目社長が、社員16人のこじんまりした典型的な酒類業務卸販売の店を、社員650人・売上630億円の急成長企業に育てました。

 

 「ディスカウント酒屋の成功事例か、どうせ品質重視のメーカーや蔵元とは縁のない酒屋だろうな」と思いつつ、読み進めると、これがなかなか面白い。成功の秘訣とは、私もよく知る酒の業界の旧態依然とした世界で、スタッフをいかにやる気にさせるか、スタッフ自身で判断し動かせる組織を作るかという経営手法=コミュニケーションエンジニアリングを機能させたこと。著者の大川氏が挙げた、この会社の5つの特徴が印象に残りました。

 

つねに顧客の立場に立って考えようとする姿勢が明確で、顧客の声によく耳を傾けている。

意思決定の基準が確立され一貫している。

相当に困難なことであっても、良いと思えることや、必要なことはまず実践。その上で結果を検証し、当初の仮説を常に修正・補強していこうとする姿勢が浸透している。

 「やりたい」という思いに突き動かされた提案・実践がなされている。

階層や役割に縛られない本音のコミュニケーションが交わされており、そのことによって上記4つの特性が顕在化している。

 

 

 私は組織で働いた経験がほとんどないので、想像するしかありませんが、しずおか地酒研究会や吟醸王国しずおか製作プロジェクトは、③や④がベースになっているかも…と少し自信が湧いてきました。

 静岡酒ファンのために地酒サロンや映画制作を手掛けるのは、エンジニアリング(技術)などとは言えない、趣味の範疇の作業ですが、リクリートさんが提唱し、カクヤスで成功したコミュニケーションエンジニアリングとは、根っこの部分で共鳴できるような気がします。

 

 『人材価値による経営の時代』、興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

 

 


朝鮮通信使の絵心経

2009-07-14 10:33:19 | 朝鮮通信使

 10日(金)夜、久しぶりに静岡県朝鮮通信使研究会の例会がありました。今回は北村欽哉先生(朝鮮通信使研究家)が浜松市旧引佐町の名刹・龍潭寺で見つけた通信使の足跡がテーマです。

 北村先生は、通信使のミステリーハンターというのか、世が世なら和製インディ・ジョーンズですか!?ってぐらい、朝鮮通信使ゆかりの史書や文物の発掘・探求に情熱を傾けておられる方で、今回も先生の通信使名ハンターぶりがいかんなく発揮?された楽しい報告会でした。

 

Imgp1177  先生が龍潭寺に着目されたきっかけは、一枚の絵心経です。

 絵心経というのは、文字の読めない村の人々のために、般若心経の言葉(発音)を絵に置き換えたもの。・・・たとえば〈摩訶般若波羅密多心経〉は、逆さの釜(マカ)・般若の面(ハンギャ)・出っ腹(ハラ)・蓑(ミ)・田んぼ(タ)・神鏡(シンキョウ)の絵で読ませる。今読むと推理ゲームみたいで面白いです!。

 

 絵心経には3つの流派があり、「田山系絵心経」は、元禄時代に岩手の田山村(現在の岩手県二戸郡安代町あたり)に赴任した善八という平泉の役人が、貧民の心の救済を目的に描いたもの。「盛岡系」は、天保年間に盛岡の舞田屋理作という商人が遊び心で作ったもの。そしてもうひとつが「龍潭寺版」。北村先生は、龍潭寺で売られていたらしい一枚の絵心経を、清水の古い廻船問屋の蔵から発見し、その絵の中にラッパを吹く朝鮮通信使らしき人物を見つけてさっそく龍潭寺へ。

 

 アポなしで寺を訪ね、運よくご住職にお会いでき、通信使とのつながりを訊ねたところ、寺の門に掲げられた山号額「萬松山」と寺号額「龍潭寺」が、第6回朝鮮通信使(1655)の写字官・金義信の書であることを教えてもらったとか。通信使行列が通った東海道筋からはかなり距離のある引佐町井伊谷のこの寺に、なぜ通信使の扁額が残っているのか、先生のハンターの虫がにわかにうごめきだしました。

 

 

 龍潭寺のある旧引佐町井伊谷は、文字通り、井伊家発祥の地で、龍潭寺は井伊家の菩提寺です。山門の扁額がいつ誰の手で作られたものか長い間、不明だったそうですが、現在のご住職が、扁額の裏にそのいきさつが記された一文を見つけた。そこには『明暦元乙未仲冬の日朝鮮国の官士雪峯老人、江府において寺・山の両号を書く』とあり、1655年11月に雪峯(金義信のペンネーム)が近江国彦根で書いたということが判明しました。

 

 どうやら、龍潭寺で新しい山門を作った時に、(当時、文化知識人の憧れの的だった)朝鮮通信使にぜひ山号寺号を書いてもらいたいと思ったが、通信使の書や絵は大変な人気で、おいそれと頼めない。そこで、彦根の井伊の殿様に口利きをしてもらおうと、宗元という寺男が彦根まで出向いて、憧れの通信使の書を無事、入手。喜び勇んで、さっそく井伊谷に戻って扁額にし、「歴却不壊、高着眼看、至祝不尽珍重」とタイヘンな感激ぶりだった…ということです。

 

 

2009071408480000  肝心の絵心経ですが、先生が清水の廻船問屋の蔵で見つけたものは、紙や印刷の状態からして、明治以降の比較的新しいものではないかとのこと。参考までに、同じような絵心経で「大覚寺版(1973年)」と「杉本健吉版(1985年)」(写真右)のコピーを資料としていただきましたが、大覚寺版には、朝鮮通信使の絵がなくて、杉本健吉版にはありました。

 

2009071408510000  ラッパを吹く朝鮮通信使の絵は、般若心経の“耳鼻舌身意無色”の“鼻(ビー)”に充てられています。大覚寺版では通信使ではなくて、松明(火)に点々(、、)でビーと読ませたようです。「作者が通信使の存在を知らなかったのかも?」と先生も首をかしげます。通信使の絵は、盛岡系、龍潭寺版には描かれていて、杉本健吉もこれらを参考に描いたようです。

 

…実は私、昨年4月に名古屋で開かれた東海四県日本酒の会に参加したとき、愛知県美術館で開催していた杉本健吉展に寄って、偶然、この絵心経をお土産に買っていたんです。「私、それ1000円で買いました」と言うと、「値段をバラさないでください」と先生に苦笑いされてしまいました。

 

 

 盛岡系絵心経が登場した1835年(天保6年)は、すでに通信使の最後の来日(1811年)から20年以上経っていましたが、朝鮮通信使ブームというのは東北一円まで広がっていて、絵心経のほか、下形(弘前)、花巻人形Imgp1178 (岩手)、堤人形(仙台)、相良人形(米沢)、唐人笛(宮城鎌埼温泉・長野野沢温泉村)といった郷土玩具や民芸品の中にも、通信使を彷彿とさせるデザインが取り組まれています。

 

 東京都内では大名屋敷跡の発掘で通信使をかたどった土人形が大量に発見されるなど、江戸中期~後期の日本では、今の韓流ブームどころの騒ぎではない一大ブームが富裕層から貧民層まであらゆる階層を席捲していたということがよく判ります。

 文字の読めない東北の村人まで、通信使がラッパを吹く絵を、「ビー」という発音代わりにすんなり読んでいたわけですから、いかに通信使の存在が日本津々浦々まで浸透していたか…。

 

 

 今年は富士山静岡空港のソウル就航にともない、一昨年の朝鮮通信使400周年記念時にも増して、県内でもさまざまな日韓交流イベントが企画されています。朝鮮通信使に関していえば、10月に雨森芳洲ゆかりの滋賀県高月町でImgp1181 朝鮮通信使全国大会が開かれますが、その滋賀県高月町の町長と、映像作品『朝鮮通信使』のロケで大変お世話になった高月町観音の里歴史民俗資料館の佐々木悦也さんが、来月静岡へ来てくださいます

 朝鮮通信使に関心のある方はもちろん、私がこのブログでも再三絶賛する高月の観音像の魅力や、文化財を活かした町づくりの取り組みについて、興味深い講演をしてくださいますので、ぜひお運びくださいまし!(総選挙の日と重なってしまったみたいですが、投票に行くついでにぜひ!)

 

 

『映像とお話し会~ゆとりと品位のまちづくり』

(平成21年度「静岡に文化の風を」の会・葵生涯学習センター共催事業)

 

講師 佐々木悦也氏(滋賀県高月町教育委員会・高月町観音の里歴史民俗資料館学芸員)

日時 8月30日(日) 13時30分~16時

場所 アイセル21 1階ホール (静岡市葵区東草深町3-18)

定員 200名 参加無料

申込 7月28日(火)10時より電話受付 054-246-6191

 

*現在、アイセル21・2階エントランスで、高月町を紹介するパネル展示会を開催中です。


「見直そう地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値」その2

2009-07-11 10:38:15 | しずおか地酒研究会

財団法人静岡観光コンベンション協会賛助会員の集い2009

トークセッション『見直そう、地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値~静岡の酒造りに見る地域力』

 

■日時 2009年7月9日(木) 15時~16時50分

■場所 ホテルセンチュリー静岡 4階クリスタルルーム

<パネリスト>

 青島 孝 (「喜久醉」青島酒造 蔵元杜氏)

 松下明弘 (稲作農家)

 鈴木真弓 (しずおか地酒研究会主宰)

 

 

(つづき)

(鈴木)さて、ふるさと藤枝を離れ、地球の一番尖がったニューヨークと、一番凹んだアフリカ・エチオピアの暮らしを経験したこの2人が出会ったのは、面白い巡り合わせでした。もともとの知り合いとか、家同士のつきあいがあったというわけではありません。

 私が「しずおか地酒研究会」の発会式を、この近くの「あざれあ」の会議室で行ったのは1996年3月1日でした。その前日か前々日に、松下さんは青島酒造に酒米のことを聞きたいと訪ねたんですよね?

 

 

(松下)96年2月29日だから前日ですね。3年前に親父がガンで亡くなり、後を継ぐ気でいろいろな設備を直したり機械をそろえたりしていた頃でした。  

 アフリカから帰ってきたとき、近所の酒屋で買った日本酒を呑んだらびっくりするほどうまかった。行く前に呑んでいた日本酒というのは、いわゆる大手の酒でひどい酔い方をしました。たまたま行った酒屋にいい地酒が置いてあったImgp1168_2 のがよかったんですが、いろいろな地酒を呑み比べてみて、一番気に入ったのが喜久醉だった。呑んで何もひっかかりがなく、体にスーッと溶け込んでいく美味しい酒だった。どうせ専業で米を作るならこういう酒の原料になるような米も作りたいと思いました。で、裏貼りを見たら、「なんだ、自分ちから一番近い酒蔵じゃないか」と気がついた。青島酒造(藤枝市上青島)とうちは(藤枝市青南町)は、もともと同じ村なんです。

 帰国後はしばらく会社勤めをしながら親父の農業を手伝っていたんですが、親父が亡くなったことで専業農家になろうと腹をくくり、96年2月28日にそれまで勤めていた会社を辞め、翌3月から心機一転スタートだと決めていました。ところがこの年はうるう年で、2月29日まであることに気がつき、1日ぽっかり空いてしまった。で、一度酒蔵というところを見てみようと思い切って訪ねてみたんです。

 

 

(鈴木)アポなしでフラッと訪ねたんですよね。後で青島酒造の奥さんから「いきなり変な子が来てビックリした」と聞きました(笑)。

 

 

(松下)「今日から専業農家になるんですけど、酒米について教えてくれるところがわからないので、酒蔵へ行けば教えてくれるかなと思って来ました」と切り出しました。青島酒造の社長は仕事の手を休めて30~40分、酒米の話をひととおりしてくれました。

 話の流れで、社長が「自分は旅行が好きでね」と言い、「最近どこに行ったんですか」と聞いたら「ケニアに行ってきたんだよ、アフリカが好きでね」と社長。私「じゃあキリマンジャロにも?」、社長「もちろん」、私「どこのルートから入りました?」、社長「なに、君、知っているの?行ったことあるの?」、私「アフリカに住んでました」、社長「!?」(笑)。

 で、そこから2時間、延々アフリカの話で大盛り上がりでした。後から奥さんに聞いたんですが、社長が周囲に「アフリカに行ってきた」と話しても、誰も行ったことがないから想像がつかず、まともに聞いてくれる人がいなかったそうで、アフリカ話ができる相手がいきなり現われて、初めて会った相手とは思えないぐらい意気投合した、と喜んでいたそうです。

 

 

(鈴木)そして翌日の3月1日、しずおか地酒研究会の発会式に、青島の社長が「昨日、うちに来たばかりの変なやつだけど、面白いから連れて行く」と連絡をもらい、そこで初めて松下さんとお会いしました。

 発会式で私は、会のスローガンを“造り手・売り手・飲み手の和”と掲げました。ビールやワインや焼酎は、造りの現場で職人の顔を気軽に見ることはできないけど、日本酒の蔵元は、昔は町内に1軒はあったぐらい、地域に溶け込んでいる存在で、造り手の顔がよく見える。ところが、国内はおろか静岡でも、地元で日本酒を造っていることを知らない人が多い。それはとてもモッタイナイ話だと思っていました。地域だからこそ、酒を造っている蔵元、紹介する小売店や飲食店、そして受け取る消費者である私たちが相互理解し、交流を広げる場ができると考えたのです。

 そんな宣言をしたところ、松下さんが「米農家が入っていないのはおかしい」と口を挟んできた。昨日初めて酒蔵にやってきて、これから酒米づくりに挑戦しようという奴が、何を生意気なことを…とカチンと来ましたが(笑)、とにかく松下さんの初めての酒米づくり…しかも青島の社長から「どうせ作るなら一番難しい山田錦を作ってみろ、失敗しても自分がポケットマネーで買い取ってやる」と背を押されたと聞いて、それなら会の仲間で応援しようじゃないかということになり、何度も田んぼに通って田植えを手伝ったり、草取りしたり山田錦研究の先生を招いたりして、秋の稲刈りを迎えたのです。

 孝さんがニューヨークから帰って来たのは、その稲刈り直前の、96年10月初旬でしたね。家の近所の田んぼでおかしな連中が盛り上がっているのを見て、さぞかしビックリしたでしょう?(笑)。

 

(青島)松下さんとうちの社長が初めて出会ってアフリカ話で盛り上がり、真弓さんがしずおか地酒研究会を作ったころ、自分はニューヨークでこのままでいいのかと悩み苦しんでいました(苦笑)。自分が大切にして行きたいと思うのはカネでは買えないものだと思い始めていた。松下さんが最終的に行きついたのは故郷の田んぼだったということと同じ思いだったかも知れません。

 ただ、すんなり実家の酒蔵へ戻ることを決めたわけではなくて、100年200年と長い年月をかけて生き残っていくモノづくりの世界・・・たとえば自然と携わる植林や森づくりみたいな仕事に憧れました。酒造りもそうなのかなと思いましたが、一度は拒否した世界だし、ニューヨークに渡った時は、「(家業から)逃げきった」とまで思ってましたから(苦笑)。

 

(鈴木)確か、宮大工の仕事にも憧れたと聞きましたが?

 

 

(青島)そう、職人の技が数百年経っても息づくようなモノづくりの世界ですよね。そんなとき、母親から「変わった農家の人が来たよ」「お父さんの心臓の具合がよくなくてね…」という手紙をもらい、改めて故郷で酒を造るという仕事を真正面から考えるようになりました。

 思えば、自分の故郷には大切なものがたくさんある。酒造りに欠かせないも のはなんといっても良質の水ですね。

 

 

Dsc_0061 (鈴木)先ほど観ていただいたパイロット版で、いくつかの酒蔵の米洗いのシーンを立て続けにつないでみたのですが、あんなに水をぜいたくに使える地域というのは実は貴重で、日本では、名水地といわれるところでも、水量が乏しいことが多いそうですね。

 

 

(青島)その意味で、酒造りというのは、その土地のいい水を守り、農業を守ることにつながると気づきました。この仕事が、何百年という年月の間、酒に携わる多くの人々の知恵や技に支えられて成り立っていると思った時、自分の代で簡単に辞めてはいけないんじゃないかと。

 現実的には、収入は10分の1ぐらいになるわけで、相応の葛藤はありましたが(苦笑)、帰ったのはちょうど松下さんの稲刈りの1週間ぐらい前でしたね。その直前、父に帰ると伝えたとき、最初は「ニューヨークで何か失敗していられなくなって逃げ帰ってくるのか」と反対されたんですよ。

 

 

(鈴木)社長に反対されたんですか? いやぁ、私も松下さんも、社長の奥さん(孝さんのお母さん)が「帰ってきてほしい」という手紙を書いたことは知っていましたが、ウォール街で巨額マネーを操る人がそう簡単に帰ってこれるの~?と半信半疑でした…。ただ、ご両親が帰ってきてほしいと願うのは自然なことで、社長も心のうちでは帰国を喜んでおられたと思ってました…。

 

(青島)…しかも、蔵へ入って、杜氏のもとで酒造りの修業を始めると言いだしたわけで(苦笑)。当時、酒蔵の経営者が職人の下で修業するというのは珍しいケースで、杜氏もやりにくいだろうと反対されました。それでも自分はここで酒造りをやる意味を考えたとき、土地の水に触れ、土まみれになって米を育て、この土地の四季の移ろいの中で酒造りを考えなければ意味がないと思いました。

Dsc_0012  ニューヨークから帰ってきて1週間後、初めての仕事が、松下さんの山田錦の稲刈りでした。田んぼ一面が黄金色に輝いて、信じられないぐらいの美しさでした。聞けば下がジャリ層で水はけがよく、いい田んぼだそうです。こういうところに自分の居場所が作れるなんて、こんな幸せはないと実感しました。

 

 

(鈴木)先ほどのパイロット版で、両名がはからずも「刈るのがもったいねぇ…」と吐露していました。あの田んぼは、特別、自然豊かな棚田とか、新潟あたりの絵になる穀倉地というわけではなく、どこにでもあるごくごく普通の郊外の住宅地の中の田んぼです。撮影の時、私が「あの電線が邪魔だなぁ」「そこの看板、取り外したいなぁ」「向こう側の家の洗濯物が…」とブツブツ言っていたら、カメラマンの成岡さんが、「ごくフツウの、生活に寄り添っているこういう田んぼで素晴らしい米が育つことに意味があるんじゃない?」と名言を吐いてくれましたっけ。

 

 

(松下)静岡県は米の輸入県で、県内で消費される米の7割は他県から買っています。静岡では3割の人しか地元の米を食べることが出来ないんですよ。米にしろ酒にしろ、静岡の人は「なければ他県から買えばいい」という感覚なので、地元の農家がいざ自前で作ろうとするといろいろな障害があります。最初に酒米を作った時も、周囲には「酒もこれからは地域オリジナルの原料米が絶対に必要になるから」といったんですが、まったく理解されなかった。

 酒米のように加工品の原料となるものを作るには、本来、加工側の希望や要求に合わせるもの。原料供給者なら当然のことです。自分は最初の年、喜久醉の杜氏さんから「もう少し締まった米を作れ」と言われたんですが、締まった米の作り方なんて誰も教えてくれないし、どの教科書にも載っていない。自分の田んぼで実験するしかありません。3年ぐらい試行錯誤しましたね。

 ふつうの企業なら、そんなふうにクライアントのニーズに応える努力をするのが当然ですが、農家にはそんな発想はありません。出来たものは農協に出して、出来なければ国が補てんしてくれる。何も考えず、工夫もせず、のうのうとしているのが日本の農家です。そんな中に自分みたいな異物が入れば変人扱いですよ(苦笑)。

 最初の頃は、「松下のところは親父が死んだから、まぁ大目にみてやろう」でしたが、こっちが「農薬は意味がないからやめます」と宣言して、田んぼに草がボウボウに生え、稲が2割・雑草8割なんて状態になり、周囲の田んぼが1000平方メートルで500キロ収穫できるところ、うちは150キロしか採れなかったりすると、「あいつは何やってんだ」と白い目です。自分は、自分の田んぼの実力がなんぼのものか、農薬や肥料なしでどれだけ米が採れるのか試したかったわけで、何もしなくても150キロ採れたというのは、自分的にはすごい成果だったんですが、周囲は「あんな草ぼうぼうで、ろくに米がとれない田んぼ」と冷笑していました。

 自分はよく「土ってなんですか?」って聞きます。そう聞かれて正確に答えられる人は、この会場に何人いるでしょうか?

 さきほどの孝くんの話のように、水とは何かを生活の中で深く考えることなんてないでしょう。土も同様です。自分はひたすら土の本を読み、自分の田んぼであらゆる実験し、農業の本質は土を育てることなんだと理解できたんです。Dsc_0048 有機肥料が微生物によって分解し、どんな微生物がどれくらいいて、どの程度活動するかによって土が変わってくる。有機肥料は、微生物を育てるために入れているんです。その微生物が健全に動くことで、病害虫を防ぎ、あらゆる稲の健康を保障してくれる。現場で実践してみて、そのことに気がついて、今度は微生物の勉強を始めました。

 …キリがないですね。どれもこれも命の根源は何かにつながっている。だから農業というのは素晴らしい産業なんだと。いや、産業という言葉は似合わないな。生きていくための糧というのかな、とても崇高な職業だと思えるようになりました。

 一度故郷を離れてみてわかったんですが、静岡県は緑のイメージが強い。他県の人から見ると、お茶畑や富士山や南アルプスなど、緑豊かなの県という印象を持たれているようです。では農業県かどうかといえば、メロンやみかんなど一部突出した作物を除けば、多くの農産物の生産高は平均以下。他県がせっかく自然豊かな緑の県だと思っているのに、現実には有機無農薬の農産物も少ないし、ふつうに農薬を使って栽培してふつうに売れてしまうので、頑張る必要がない。近所の農家と摩擦を起こしてまで有機無農薬にこだわらなくても、ふつうに作って売れればいいということになる。そのうちに、他県の人から「静岡って緑豊かな県だと思っていたけど実態は違うんだ」と思われてしまうんじゃないか・・・それって静岡県の損失じゃないかと思えてきます。

 ああ、さすがに静岡って豊かだなと思ってもらうためにも、農産物が豊かさの象徴につながるような農業をやっていきたいと思っています。

 

 

(鈴木)ありがとうございます。今日、この後、隣の会場で、青島・松下両名が育て創り上げた「喜久醉松下米」という酒を試飲していただきますが、こういう酒が、静岡県の豊さや、農業とモノづくりが一体となった真の豊かさの象徴になればと願っています。富士宮やきそばや静岡おでんもいいんですが、気がつかないだけで実は静岡には実力ある産物がたくさんあるということを、今日はお酒を通じて実感していただければ。下手な進行で、時間をオーバーしてしまいました。最後までご静聴ありがとうございました。

 

 

 


「見直そう地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値」その1

2009-07-10 16:27:18 | しずおか地酒研究会

 昨日(9日)は、ホテルセンチュリー静岡で開かれた財団法人静岡観光コンベンション協会賛助会員の集い2009にお招きをいただき、『吟醸王国しずおか』パイロット版09編と、青島孝さん(喜久醉)と松下明弘さん(稲作農家)と私のトークセッションをお楽しみただきました。

 昨年10月にアイセル21で開いた金両基先生と青島・松下両名のトークセッション「国境を越えた匠たち」を聴講し、とてもよかったと褒めてくださったコンベンション協会事務局の佐野さんが、「ぜひうちの協会でも」とオファーをくださり、さらに協会として大吟醸会員に入会しますという夢のようなお話。パイロット版の試写会はこれまでもいろいろなところで実施し、募金箱で浄財を集めてくださった団体や、関心を持って入会してくださった個人の方も数名おりましたが、このようにまとまった資金提供をしていただいた例は初めてで、本当にありがたかったです! 佐野さんならびに静岡観光コンベンション協会のみなさま、助っ人に来てくれたカメラマンの成岡正之さん、心より感謝申し上げます。

 

 

 内容は、吟醸王国しずおかパイロット版09編(20分)鑑賞Imgp1166後、青島・松下・鈴木の3人による座談会、そして試飲ブースを設けての懇親会という流れ。参加者は小嶋静岡市長はじめ、コンベンション協会の役員を務める静岡を代表する企業経営者、観光関連業者、飲食店組合等の代表の方々170名。私たち3人は、相手によって態度を切り替える器用さを持ち合わせない鈍感人間なので、トークでは会場の目もお構いなしに日常会話の延長みたいにダラダラとしゃべってしまいましたが、懇親会で顔を合わせた静岡鉄道の酒井社長、静岡新聞の松井社長、田宮模型の田宮社長から「おもしろかったよ」と慰労していただいたときは、ありゃぁ、こんなスゴイ方々に聞かれてたのかぁとにわかにビビってしまいました(苦笑)。

 

Imgp1170

 乾杯のあいさつで酒井社長が「今日のトークセッションは、協会の総会議事の内容がふっとんでしまうぐらい面白くて、夢中になって聞きましたよ。今はもう頭の中が酒のことしかない(笑)。公務で中座された小嶋市長は大損したと思います。公務なんかよりよっぽどタメになる話でした」と大変なリップサービスをしてくださったりして…。後で静鉄関係者に「社長が人前であんなに褒めることなんて滅多にありませんよ」と言われ、歯がゆい気持ちで一杯でした。

 

 映画も、トークセッションも、内容にはもちろん自信があってご披露したわけですが、素晴らしい業績を上げたでもなく、メディアで注目されるスターでもなく、政治や経済を語るわけでもない市井の3人が、ふだんやっている仕事のことを、普段着の言葉で語り合ったことを、静岡を代表するお歴々の方々が面白いと評価されたのは、ある意味興味深いことでした。立場上、さまざまな会議や講演会に参加され、肩書に応じた議論をする方々にしてみれば、実体験を本音でしゃべる現役世代の話が、手垢の付いていない新鮮なものに聞こえたのかもしれません。また酒をテーマにしながらも、青島・松下両名の話が、人の生き方やモノを育てることの価値といった普遍的な内容だっただけに、多くの皆さんの共感を得たのでしょう。

 

 自分が壇上にいた事情で、会場の写真は撮れませんでしたが、トークセッションの内容はICレコーダーでばっちり収録しましたので、2回に分けてご紹介します。

 

 

 

◆見直そう、地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値~静岡の酒造りに見る地域力

 パネリスト> 

 青島孝(「喜久醉」青島酒造 蔵元杜氏)

 松下明弘(稲作農家)

 鈴木真弓(しずおか地酒研究会主宰)

 

(鈴木)今日のこのテーマを決めるにあたっては、酒造りも農業も、地元に根を張って、何があっても地元から動かずに生き抜いていかねばならない仕事であり、観光に携わる皆さま方も地元に腰を据え、地元の魅力をじっくり掘り起こし、外に発信する仕事をされておられるということで、業種は違えども相通じるものがあるのではと考えました。青島さんも松下さんも若い頃は地元にいるのが窮屈で、外に飛び出し、地球の裏側でさまざまな経験を積み、ふたたび地元に戻ってきたお2人です。自分と地元地域とのかかわりについて、過去を振り返りながらお話しいただけますか?

 

 

 

(青島)私が育った時代は、大量生産・大量消費の中、地方の酒蔵が見過ごされていた時代で、小学校に上がって物心ついたころから、父から「ゆめゆめ造り酒屋を継ごうと思うな」と言われてきました。父も本当は他にやりたいことがあったようで、やむをえず家業を継ぎ、時代も時代で、このまま地方で酒造りを続けても意味がない、自分の代で華々しく辞めてやろうと思ったのでしょう。

 小さい頃から、朝早く24時間休みのない酒造りの厳しい現場を見ていましたから、早くこんな家は出たい出たいと思い続け、大学進学を機に東京へ出ました。東京へ出ると外へ外へと目が行き、バックパッカーで世界80か国ぐらい回りましたね。卒業したら世界を舞台に働く仕事をしようと、国際金融の道へ進みました。最初は国内の投資顧問会社に勤め、次いでニューヨークへ渡ってファンドマネーの仕事に就きました。

 

 

(鈴木)ハゲタカというドラマを観たとき、青島さんはこういう世界にいたのかと驚きましたっけ(笑)。

 

 

(青島)ヘッジファンドと聞くとハゲタカだの何だのと悪者イメージに思われますが、ちゃんと仕事している者もいまして(笑)、私はもちろん、ちゃんと仕事してました(笑)。

 実際、自分自身、生まれ育った土地から離れ、まったく文化習慣の違う世界に身を置いたとき、自分のアイデンティティとは何かを嫌が上でも考えさせられます。とくにニューヨークという街は自分の居場所を確保するのに大変なところでしたから、つねに暗中模索状態でした。

 あるとき、体を壊して1週間休んだんですが、自分がそれまでやっていたデスクに別の人間が入っていて、何の支障もなく仕事をこなしていた。グローバルスタンダードの世界とはそういうことなんですが、誰が担当しようと滞りなく物事が進む現実に、少しショックを受けました。

 デスクにしがみついて、一瞬一瞬の判断で8000億円ぐらいの資金を動かしていましたので、100200億が端数に見えてしまう。そんな金銭感覚にずっといると、日本人が本来大切にしていた、ひとつのものをじっくり育てることや、みんなのチームワークでモノを作るということの価値に改めて気づかされます。カネを稼ぐことはもちろん大切ですが、もっともっと大切なことがあるんじゃないかと。

 いろいろ思いめぐらしているうちに、実家で両親がやっている酒造りというものが、なにか愛おしいものに感じてきたわけです。

 

 

(鈴木)ニューヨークには何年滞在していたんですか?

 

(青島)つごう3年いましたが、パソコンとインターネットがあればどこでもやれる仕事でした。だからこそ、1つの場所で、そこでしかできない仕事を、しっかり地に足を付けてやることの価値が見えてきたと思います。

 

 

(鈴木)松下さんも、小さい頃は家業(農業)が嫌で嫌でたまらなかったそうですね?

 

(松下)昭和40年代、世の中は高度成長まっしぐら状態でしたが、地方の農家はさほど豊かではなく、じいちゃんばあちゃんおやじおふくろが必死で働いて、長男の自分も小さい頃から田んぼ仕事をやらされてました。小学校のときも、友達は休日にあちこち遊びに行くのに、自分は家の仕事に縛られ、児童虐待強制労働だ!と思うぐらい働かされた(苦笑)。農家を継ごうなんて気はさらさらなくて、高校進学の時は何の気なしに農業高校へ進んでしまいましたが、まじめに勉強するわけではなく、夜の活動に熱心でした(笑)。

 ただ、なんとなく10代の頃から、日本の社会の在りようにどこか矛盾を感じていて、22歳の時オーストラリアへ旅行したとき、町の雰囲気や人の営みにすごく余裕があって、それに引き替え日本という国は…とネガティブに考えるようになりました。

 23歳の時オートバイ事故をやって2か月入院したんです。同室にたまたま戦争体験者のおじいちゃんたちがいて、いろんな話を聞かせてくれた。昔の日本人はそんな覚悟で戦争に行ってきたのか・・・日本はおかしい国だと思っていたけど、実際、日本のことを自分は何も知らなかったんだと思い知られました。

 入院中に海外青年協力隊の記事を読んで、アフリカで農業指導する仕事があると知り、「このまま藤枝でグダグダするより、未知の国・未知の世界に行って自分を試してみたい」と思い、退院後、両親に黙って試験を受けました。アフリカに行くとバレたとき、母親はそんな危ないところへは行かないでくれと反対しましたが、父親は「行くなら覚悟していけ、途中で帰ってくるな」と送り出してくれました。顔は似てないけど高倉健みたいな寡黙で筋を通す親父だったんです(笑)。

 私が行ったエチオピアの村は、電気も水も、農薬も肥料もない、完全な自給自足の村でした。エチオピア農水省の農場があり、いろいろな作物を育てる指導をしに行ったのですが、教えたことは1割ぐらい。日本流の農薬や肥料の使い方、資材の組み立て方なんてまったく役に立たないからです。彼らは農薬がなくてもちゃんと作物を作りますからね。

 現地の人々にしてみれば「こいつ何しに来たんだ」と思ったでしょう。現地語がわからないとコミュニケーションもとれないので、とりあえずは猛勉強して、半年後には飲み屋のおねえちゃんを口説くぐらいの日常会話は出来るようになりました(笑)。

 

 

(鈴木)派遣先に他に日本人はいたんですか?

 

 

(松下)自分がいた村の人々は、日本人はおろか東洋人を観るのも初めてで、最初に自分を見ると「コーリアか、チャイナか」「タイかマレーシアか」と指さします。で、ジャパニーズだと言うと、態度が変わる。彼らが知っている日本といえば、ソニーやトヨタやパナソニックで、やたら経済発展した豊かな国と思われていたようです。

 あるとき、現地のイスラム教信者に「お前の神は誰だ?」「日本が豊かなのは日頃どんな教えを守っているせいだ?」と聞かれ、一応自分は仏教徒だと答えると「ブッダはお前に何を教えてくれたんだ」と聞き返す。…答えようがありませんよね(苦笑)。中には日本のことにやたら詳しい日本オタクみたいな奴がいて、家康や秀吉のことを聞かれたときは何とか答えられましたが、宗教の話になるとお手上げです。日本の日の丸を背負っていったのに、恥ずかしくていたたまれませんでした。

 

(鈴木)松下さんは、よく、エチオピアに行っても教えたのは1割ぐらいで、残り9割は向こうで教わってきたと言いますよね。

 

(松下)農業をやっている上で一番教えられたのは、生きることは食べることの原点です。人間は土から離れては生きていけない生き物です。とくに日本の衣食住を考えた場合、家は木材だし、障子や畳も植物が原料だし、着物もそう、食べるものもそう。海の生物にしたって、森の灌漑がきちんと機能してこそ生きられる。人間は本当に土に根が生えるものに生かされているんです。

 エチオピアの生活は決して豊かではありませんし、1か月の収入は3000円ぐらい。国内ではしょっちゅう内戦をやっていたので、予算がなくなると、農業支援に充てられていた予算まで軍事費にとられてしまう。自分が任された農場ではお手伝いを雇っていたのですが、彼らに払う賃金も出ないという。なんとか交渉して契約賃金の半分を確保し、残り半分は自分のポケットマネーで払ったぐらいでした。そんな環境の中でも人間が生きる原点みたいなものをとことん教えられました。

 

 青島孝くんはニューヨークという地球上でもっとも尖がっていた場所にいて、自分は地球上でもっとも凹んでいた場所にいたわけです。孝くんはそこで「自分の居場所やアイデンティティを探していた」と言いましたが、自分の居場所は、やっぱり故郷の藤枝だなと思いました。

 うちを含めた志太平野というのは、もともと江戸時代、大井川の河原だったところを開墾し、平地にして田んぼを1枚1枚つくり、大井川の土手を築いて川の流れをせき止め、また開墾して田んぼをつくった。ものずごい年月をかけて田んぼを作ってくれた先祖たちのおかげで、こうして農業ができるわけです。

 エチオピアを経験したことで、今、自分がこんなに恵まれた環境で農業ができることが、つくづく幸せだと実感しています。バトンリレーみたいなものですね。先祖から引き継いだバトンを親が400メートル一周回って自分に渡し、自分も今ちょうど200メートルぐらいは走ったかな。息子が今度高校受験ですが、彼にバトンが渡せたらと思います。

(つづく)