杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

祝!松下明弘著『ロジカルな田んぼ』発刊(その2)

2013-04-11 12:16:21 | 本と雑誌

 松下明弘さんの本『ロジカルな田んぼ』発行にちなんでの写真紹介つづきです。

 

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 1996年10月27日。青島孝さんが静岡県沼津工業技術センターの試験醸造に研修生として参加しており、有志で陣中見舞いに行きました。

 

 

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 松下さんが気になるのは、やっぱり米を蒸す工程。甑(こしき)の構造をじっくり観察していました。

 

 

 

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 1996年12月8日。しずおか地酒研究会の『年忘れお酒菜Party』。農家のお母さんたちの伝承郷土料理と山田錦の玄米ごはんを味わう忘年会で、当時、静岡新聞社で農産物情報誌『旬平くん』を編集していた平野斗紀子さんが司会進行をしてくれました。松下さんは初めて育てたとは思えない堂々とした山田錦を披露。ちなみに玄米で食べたのは永谷正治先生が調達してくれた徳島県産の山田錦です。松下さんの米には手をつけていませんのでご安心を(笑)。

 

 

 

 

 

 

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 年明けの1997年1月。いよいよ松下米の初仕込みです。現場で「松下の米は胴割れしない」と真っ先に評価した杜氏の富山初雄さん。

 

 

 

 

 

 

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1997年1月25日。初搾りの日は松下さんも立会い、上槽作業に特別参加しました。

 

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 洗い場で、タメに残ったもろみの米粒をすくって食べる松下さん。一粒たりともムダにしたくないんですね。なんだか正しい「お百姓さんの姿」を見ました・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  こうして生まれた喜久醉純米大吟醸松下米。最初の1997年製造酒は、未だに空けられず、冷蔵庫の奥底で眠り続けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後におまけ。1997年のデビュー時に作らせてもらった松下米のしおりです。当時は私が自分のワープロで打ち込んでプリントしたものを、簡易印刷で刷って、青島酒造のみなさんが1枚1枚朱印を手押しした、完全アナログチラシ(苦笑)。ささやかながら、この酒の誕生に関わることが出来て幸せです。

 

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祝!松下明弘著『ロジカルな田んぼ』発刊(その1)

2013-04-11 11:32:56 | 本と雑誌

 2日のしずおか地酒サロンではサプライズがありました。『喜久醉純米大吟醸松下米』でおなじImgp1278み、稲作農家の松下明弘さんが、【ロジカルな田んぼ】(日経新聞社発行)を4月10日に発行、と発表したのです。本を書いているとは聞いていましたが、こんなに早く、しかも日経新聞社から全国発売とは、ビッグサプライズです。

 

 

 この日は講師の松崎晴雄さんと私が会を代表して見本を頂戴しました。それから連日仕事であわただしい日が続き、風邪をこじらせたりもして、合間合間に各章をつなぎ読みする程度でしたが、松下さんが田んぼや酒の会など折々で熱く語っていた、稲作という仕事への真摯な姿が口語体に近い簡易な表現で、誠実に再現されていたことはしっかり読み取れました。「ライターが聞き取って理解したような言葉をつなぎ合わせるのとは、やっぱり違う・・・」ということも、すぐに解りました(苦笑)。

 

 

 

 

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 松下さんはご存知の通り、日本でおそらく初めて、山田錦の有機無農薬栽培に成功し、静岡県では初めて個人で農水省から品種登録を受けた「カミアカリ」を作り、大きな面積すべてで有機JIS認定を持つ県内唯一の稲作農家です。そういう彼が、「農作業の一つ一つには、すべて意味がある。その意味を知れば、工夫の余地が生まれ、これまでにない新しい農業が可能になる。農業とはどんな仕事かを、一般的に、ここまで技術ディティールに踏み込んで解説した本は、これまでないはず。」という本です。

 

 

 

 門外漢の勝手な心象で言えば、ひょっとしたら日本の農業に革命を起こす本になるかもしれない。・・・もう少し時間をかけてじっくり読み込んでみたいと思いますが、とりあえず、松下さんにどんな発刊のお祝いがいいかと考え、自分に出来ることといったらこういうことしかないなあ、ということで、本書でもドラマチックに紹介されている松下さんと青島酒造との出会いにちなみ、『喜久醉純米大吟醸松下米』という酒が生まれた1996年から97年にかけて、私が撮りためていた写真を2回に分けて紹介します。当時を知る方々にとっては懐かしいショットだと思います。記録用のプリント写真なので画像の粗さはご容赦くださいね。

 

 

 

 

 

 

 

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 日付が見当たらなかったのですが、。1996年6月、山田錦の田植えです。苗を疎に植える(一株2~3本の苗を間隔を空けて薄く植える)ので、傍目には苗だか雑草だかよくわからない(苦笑)。本当にこれで米が実るのかなあと心配でした。

 

 

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 1996年6月23日。しずおか地酒研究会で山田錦研究の大家・永谷正治先生を招いて地酒塾『お酒の原点・お米の不思議』を開催。その後の有志による現地見学会で松下さんの田んぼを先生に見ていただきました。

 

 

 

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 1996年8月末~9月初め。日付は不明ですが、出穂の頃です。あんなにスカスカだった田んぼがこんなに美しく黄緑色に輝いていました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 1996年10月5日。再び永谷先生を招いて田んぼ見学会。青島孝さん(右端)がニューヨークから帰国して2~3日後で、彼の最初の仕事?が、この田んぼ見学会でした。

 

 

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 河村傳兵衛先生が、初めて実った松下さんの有機無農薬の山田錦を根っこから持ち上げる貴重なショットです!

 (続きはその2へ)。

 

 


しずおか地酒サロン「松崎晴雄さんの日本酒トレンド解説2013」報告2

2013-04-06 13:59:20 | しずおか地酒研究会

。第41回しずおか地酒サロン『松崎晴雄さんの日本酒トレンド解説~2013静岡県清酒鑑評会を振り返って』 その2

(文責/鈴木真弓)

 

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□日時 2013年4月2日(火) 19時~20時30分

□会場 静岡労政会館5階会議室 

 

 

□全国のみならず注目の地方鑑評会

 全国新酒鑑評会は今から100年余り前に始まった、国をあげての大きなコンテストです。明治の中期、酒造技術の向上のため、国が中心になって始めた公的なものですね。明治30年代の富国強兵時代、日清・日露という大きな戦争を経験し、国の財源確保が急務でした。酒税は税収全体の3割を占めており、科学技術が今ほど発達していない当時、いかに酒を安定的に造り、安定収入を得るかが課題だったという背景もあります。

 

 ほぼ1世紀にわたって国が主導して行うコンテストとして権威も相応にありましたので、各蔵元も入賞を目指して大いに努力しました。

 

 

 その一方で、全国新酒鑑評会のみならず、地方の国税局単位、あるいは県単位でも鑑評会が行われています。

 行政単位だけでなく、南部杜氏や能登杜氏といった職人集団ごとに行う自醸会というコンテストもあります。能登杜氏組合自醸会も100年以上続いていますし、南部杜氏自醸会も90年はゆうに超えています。南部杜氏は北は北海道、南は四国まで派遣されており、地元岩手に戻れば幼馴染みや顔見知りが多い。確か南部杜氏自醸会では順位が公表されますので、あいつが何位だった、自分は何位だったと判ると、当然、プレッシャーややりがいにつながるでしょう。その意味では、全国だけでなく、地域での鑑評会も非常にシビアで挑戦しがいのある高いハードルの技術醸成の場である、といえるでしょう。

 

□初めて飲んだ静岡酒の衝撃

 吟醸酒というのは、この、鑑評会出品用に生まれた技術研鑽のための酒です。本来は門外不出のもので、鑑評会に出品することでひとつの使命は終わり、残った酒は他の酒と混ぜてしまうか、一般にはほとんど知られていない「吟醸酒」ですから、「超特選」というラベルで売るなどしていました。

 

 地方の銘酒が注目され始めたのは、ここ30~40年ぐらいのことです。古くは、吟醸酒造りの発祥の地広島とか、もっとさかのぼれば加賀の「菊酒」や河内の「天野酒」など地方の伝承酒が都に伝わって評判になったという例もありますが、今の地酒ブームは40年ぐらい前、昭和50年前後が黎明期とされています。当時、私は中学生でしたので、日本酒とはまったく縁のない暮らしをしておりましたが、大学生になってから日本酒に目覚め、酒質を追いかけてみると、静岡県の吟醸酒が世に出て注目されるようになったのも、大きなひとつの流れの必然だったような気がしています。

 

 

 

 昭和48年は、地酒が注目される大きな転機でした。この年、日本酒の出荷量がピークを迎えたのです。昭和のはじめ、戦時中や終戦間もない頃は米が統制されて、蔵元が思うように酒を造れない時代もありましたが、高度経済成長期になると自由に造れるようになり、大手メーカーは地方から桶買いをしてまで積極的に売るようになりました。

 

 ピークを過ぎると、大量生産の時代の、三倍醸造はじめ、糖類や醸造アルコールの大量添加による量産水増し体制に批判が向けられるようになり、アルコール添加量を低く抑えた本醸造酒や、添加物をなくした純米酒に注目が集まるようになります。もっとも当時は純米酒という言い方ではなく「無添加酒」と言っていたようですが、そういう一部の酒を通して、量から質へと酒に対する価値観が変化していったのですね。

 

 

 ちょうどそのころ、国鉄がディスカバージャパンのキャンペーンを始めるなど“地方の時代”がキーワードになりました。東京一極集中ではなく、地方にこそ日本の真の豊かさがあり、本来の日本の良さを発掘しようという動きですね。日本酒も、この動きに呼応するように地酒が注目され始めました。

 

 もっとも、当時は、酒造りがどのように行われ、蔵元がどんなこだわりを持っているかという突っ込んだレベルまではいかず、地酒の中にも糖類やアルコール添加量の多いものや、米も普通の飯米で造られたものが多かったようです。

 酒の知識云々よりも、たとえば「越乃寒梅」が幻の酒として名声を得たり、樽酒の「樽平」、にごり酒の「月の桂」など変り種の酒が話題になった。これらブームのきっかけは、酒屋さんが一生懸命仕掛けて売ったというよりも、文人墨客といいますか、有名な作家や文化人が雑誌・小説で取り上げて人気に火がついたものですね。その内容も「この県にはこういう銘柄がある」「あの観光地では○○○という地酒が人気だ」といったレベルでした。

 

 私はこの頃、大学生でしたので、1升瓶で1200円ぐらいの2級酒しか飲めませんでしたが、とにかくいろいろな2級酒を飲んではラベルを剥がして収集したりして、愉しんでいました。

 

 ちょうど、伊豆の宇佐美でゼミの合宿があったとき、御殿場の「富士自慢」という酒を飲みました。初めて飲んだ静岡の酒です。

 そのころ飲んでいた2級酒は糖類添加で精米も低い、甘くゴツゴツした酒がほとんどでしたが、「富士自慢」は同じような値段帯にもかかわらず、口当たりの良いすっきりとした味わいで、たちまち5合ぐらい飲んでしまいました。おそらく当時、すでに実用化されていた静岡酵母のスタンダードSY103と富士山湧水によって醸された軽やかで、ほのかに吟醸香のようないい香りがしたのですね。お煎餅だけかじって5合スイスイ飲んでしまい、翌日二日酔いをしたことをよく覚えています(苦笑)。それが昭和54~55年頃でした。

 

 

 

□量から質へ

 やがて日本名門酒会のような全国組織の酒販店グループが各地の地酒の流通に力を入れ始め、「一ノ蔵」や「司牡丹」のような人気銘柄が生まれました。それら地方から発掘された地酒は、大手メーカーの酒よりも酒精米歩合が数パーセント高く、醸造アルコール添加量も少なく、飲めばあきらかに違いが判ります。

 当時はまだ級別制度によって酒の良し悪しが判断されていた時代でしたが、級別というのは、たとえば、特級で(プレミア感を出して)売りたければ国税局で特級の鑑査を受ける、いわば自主申告制でした。鑑査を受けない酒はすべて2級酒扱いです。「一ノ蔵」は、それを逆手に「無鑑査」をウリにしたのです。級別よりも、本醸造酒や純米酒など製法や酒質の違いに価値を置く、そういう時代に変わってきた証拠です。

 吟醸酒が注目され始めたのは昭和60年頃だと思います。地酒の中の、本醸造や純米酒の価値はそこそこ浸透してきた中で、精米歩合が異様に高く、口当たりがなめらかで、他の酒にはない華やかな香りがする・・・日本酒を初めて飲む人も、長く飲み続けてきた人にも、一口で、質の違いを認知できたと思います。

 

 ときはちょうどバブル経済の入り口でした。私は社会人2年目で、郊外の百貨店の酒売り場にいたのですが、吟醸酒を名指しで買いに来る人が、週に2~3人ぐらいいたでしょうか。その人たちは、当然、吟醸酒がなんたるかを知っていて、新しい銘柄が入るたびに試し買いする。吟醸酒は、新しい酒質と新しい価値観を日本酒の世界に吹き込んだのだと現場で実感しました。

 

 

□興奮を隠せなかった静岡県の大量入賞

 その吟醸酒ブームの始まりの頃、昭和61年(1986)の全国新酒鑑評会で静岡県が10銘柄が金賞を獲得しました。この年、金賞を授与された酒は全国で100銘柄ちょっとでしたので、静岡県が金賞の1割を占めたというのは異例の出来事でした。

 吟醸酒は“デリシャスリンゴのきれいな香り” “味の線は細いが後きれがドライ” “口あたりがなめらか”な酒といわれます。精米歩合は大吟醸で40~50%程度。今では30~40%ぐらいの大吟醸もゴロゴロありますが、精米歩合60~70%程度の本醸造酒や純米酒とはあきらかに違う。日本酒の最高峰に位置する圧倒的な存在感を示しました。その吟醸酒の酒質を競い合う全国新酒鑑評会で、まったくノーマークだった静岡県が一躍、主産地として躍り出たことに、私も当時、興奮を覚えたものです。地酒を扱う酒販店や居酒屋のオーナーたちも、なんだなんだと目を見張りましたね。

 

 

 静岡県のことをいろいろ調べてみたら、河村傳兵衛さんという立派な先生がいて、静岡酵母を開発し、何年もかけて実用化させ、吟醸酒造りを牽引してきたとわかりました。いきなりその年、奇跡的に成功した、というわけではなく、それにいたるまでの助走期間があったのですね。 

 なぜ静岡県の蔵元が吟醸酒に賭けなければならなかったのかという背景もありました。静岡の蔵は規模や小さく、物流が活発で他県から潤沢に入ってくる。その中で地元の蔵が自立するには、普通に造っていたのでは無理で、何か技術的な付加価値が必要だった。それが吟醸酒だったのですね。河村先生はじめ、各蔵元もその意識をもって取り組んだわけです。

 表に出る成果も大切ですが、それにいたるまでの理由やきっかけがあり、静岡県の場合は厳しい環境があったということです。

 

 

□県の戦略によって産地化された好例

 

 静岡県の大量入賞の前、昭和59年(1984)頃だったと思いますが、東京の酒販店が主催する酒の会で、「國香」を飲みました。普通の本醸造でしたが、吟醸香が素晴らしかった。おそらく静岡酵母HD-1を使っていた吟醸規格の酒だったでしょう。その瞬間、学生の頃に出会った「富士自慢」とフッとつながったのです。20代だった私は静岡の酒を「青春の味」と形容しました。酒質そのものも軽やかでほろ苦さがあり、蔵元の、本当にいいものを造りたいという純粋な思いが伝わってくるような酒だったからです。

 静岡の酒の功績は、吟醸酒で名を上げたばかりではありません。県の酵母ですね。今まではある有名な蔵が牽引役となってその地域全体のネームバリューが上がるというパターンが多かった。典型的な例では、新潟が、越乃寒梅によって一気に銘醸地になりましたね。他の地域でも、名だたる人気銘柄があって、酒質の方向性を決め、産地化されていった。

 一方、静岡県の場合は、県としての戦略があって、方向性を明確にし、酒質が統一されていったという特徴があります。新しい銘醸地醸成のパターンですね。そこに静岡酵母が存在し、吟醸酒としてはっきりした特徴を持っていた。このパターンを他県も参考にし、独自の酵母を開発し、戦略を持って産地化に乗り出すという流れが出来ました。静岡県はまさにその先鞭をつけたのです。

 

 

□多様化する鑑評会と吟醸酒への評価

 静岡酵母のあと、長野県のアルプス酵母、秋田県の秋田花酵母など、1990年代前半、各県の酵母開発競争が活況をみせました。バブル経済の後押しもあり、1本1万円の吟醸酒とか、一杯1000円以上で飲ませる吟醸バーのような店も出現しました。

 全国新酒鑑評会も、平成3年ぐらいから金賞の数が200銘柄ぐらいにグッと増えました。それだけ吟醸酒造りが体系化され、それまで吟醸酒を造ったことのない蔵や地域まで造るようになりました。

 各県の酵母開発はエスカレートし、強烈な香りを発する酵母が続々と誕生します。鑑評会の審査は目隠しをして行い、採点するのですが、何十品、何百品ときき酒していけば、どうしても香りの強い酒のほうが印象に残ります。もちろん、審査では、香りだけではなく全体のバランスのよさをみるわけですが、香りがあって、味が濃くて密度がある酒のほうが有利になってしまうのは確かです。

 

 

 出品酒の多くは原酒で、アルコール度数18度ぐらい。もともとが香りが高く濃厚な酒です。いちいち飲み込んでいたら審査になりませんので、一口含んで、一瞬でバランスのよさや欠点がないかを判断する。今、全体のレベルが上がっていますので、欠点のある酒はさほどありませんが、全国新酒鑑評会できき酒してみて実感するのは、はっきり言って量を飲む酒ではないということ。自動車でいえばF1レースの世界です。技術の粋を込めたレース用のマシンは、乗り心地や燃費等は考慮されません。それと同じです。

 1990年代の吟醸酒ブームでは、そういう酒が全盛になりました。確かに吟醸酒は酒造りの技術の粋を結集した最高峰の酒であることに違いはありませんが、元来、持っていた郷土性は失われていったという疑問の声も聞かれるようになりました。郷土性というか技術格差がなくなったということですね。吟醸酒を造ったことのない地方の小さな蔵でも造るようになった一方で、日本酒自体が低迷する中、最高峰を目指すばかりではなく、もう少し、消費者のほうに目を向けるべきではないか、ということでしょうか。

 

 地方の鑑評会でも、吟醸酒というひとつの雛型に押し込めるよりも、むしろ、従来ある市販酒の中で、個性を判断するとか、飲み方として冷酒ではなく燗酒でうまい酒というものを評価する動きがみられます。燗酒部門を設けた県、純米酒に限定あるいは使用する酒米を地元産に限定する県もあるくらいです。

 そのように鑑評会の方向性そのものもどんどん変わりつつあります。吟醸酒に対する評価も変わってきました。酒販店の中には「ああいう香水みたいな酒を高く売るから日本酒はダメになった」と言う人もいますが、吟醸酒は、酒を造るプロセスの中で、いろいろなドラマを生む、夢のある酒に相違ありません。もう少し多角的なものさしで、吟醸酒というものをみてほしいと思いますね。

 静岡県のようなレベルの高い県の鑑評会で審査する者にとって、あるいは当然のことながら蔵元さんや杜氏さんにとって、吟醸酒というのは、自らを高めてくれる素晴らしい酒です。酒の販売を経験した身で言えば、自分が仕入れた吟醸酒が初めて売れたときはとても感動しました。無名の酒で、吟醸酒という言葉も浸透していない時代でしたが、そういう経験は吟醸酒あってのことだと思います。

 

 

 

 静岡県は、知られざる吟醸酒の実力を世に知らしめ、今では「静岡吟醸」という言葉が生まれたほどの産地です。最初に言いましたように、今年は米が硬く、静岡の酒も若干、線が細いという印象を受けましたが、他県の新酒に比べるとブレがない。それは「静岡吟醸」のスタイルが確立しており、造り手にもしっかり継承されている証拠だと思います。そのことをお伝えできれば幸いです。(了)

 

 

 


しずおか地酒サロン「松崎晴雄さんの日本酒トレンド解説2013」報告1

2013-04-04 10:08:40 | しずおか地酒研究会

 お待たせしました。4月2日に開催した第41回しずおか地酒サロン『松崎晴雄さんの日本酒トレンド解説~2013静岡県清酒鑑評会を振り返って』、急ぎ書き起こしました。ライターが主宰する地酒の会の唯一の強みは、こうしてすぐに内容を活字化できるぐらいなので(苦笑)。

 

 会の開催にあたり、ご協力をいただいたみなさま、当日ご参加のみなさま、本当にありがとうございました。体調不良等でやむなくキャンセルされた方々、都合がつかずに参加できなかった方々にも、少しでも松崎さんの“静岡酒愛”“吟醸酒愛”をお届けできれば幸いです。

 

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第41回しずおか地酒サロン『松崎晴雄さんの日本酒トレンド解説~2013静岡県清酒鑑評会を振り返って』 その1
(文責/鈴木真弓)

 

□日時 2013年4月2日(火) 19時~20時30分

□会場 静岡労政会館5階会議室 

 

 

 

 

 毎年この時期、静岡へ来てお話させていただいております。ありがとうございます。今日は吟醸酒の歴史をふまえて鑑評会のことについてお話しようと思います。

 

 まずは今年の静岡県清酒鑑評会について、最初に今期の酒造り全般の傾向からお話しようと思います。

 

 今期は寒さが厳しく、酒造りにとっては好条件で、環境的には恵まれていました。一方、原料である米はというと、ブドウの出来具合によって品質が左右されるワイン等に比べると、日本酒の場合はさほど影響はないといわれますが、今春、全国の酒蔵や鑑評会を巡って当事者の声を聞く限り、一様に「今期は米がよくなかった、米に苦労した」という反応でした。

 

 

 昨年はとくに凶作でもなければ大きな自然災害もなかったのですが、ひとつは、猛暑による高温障害の問題ですね。実っているけれど中身がよくない。酒を仕込むとき、米が硬くて融けていかないのですね。酒造りとは、米のデンプンを麹によって糖化させ、酵母が栄養にして発酵させるというメカニズムです。米が溶けていかないと結果として味がのらない・・・そんな苦労があったと聞きました。

 

 実際に、各地の新酒鑑評会で出品酒を唎いても、そんな傾向が見受けられました。元来、新酒というのは若い状態の酒が多いのですが、例年に比べるとさらに味が軽い。気候的には寒すぎるくらい寒く、低温発酵できれいに仕上がったという面もあろうかと思いますが、結果として、全国的に味の軽い酒が多かったという印象でした。

 

 

 日本酒にとって最高の米といわれる山田錦を、北海道から九州までほとんどの酒蔵が最高級の大吟醸=鑑評会出品用に使うわけですが、山田錦で仕込んだ酒らしい、味のふくらみや伸びやかさというものが、今期はどうも感じられませんでした。

 

 山田錦以外の米はどうかといえば、代表的な酒造好適米の五百万石、静岡県でいえば誉富士、東北の方ではササニシキのような飯米も使いますし、銘柄米ではない一般米も酒造りに活用されていますが、どの米も共通してあまりよくない出来だったようです。

 先ほども触れたように米によって酒の出来が決定してしまうわけではありませんが、出来たての新酒というのは、米の素性や性質が出やすいものですので、その点から見ても軽い酒が多いという印象ですね。一昨年、大震災があった年も同じような傾向でした。冬が寒く、その前年の夏が非常に暑く、結果として酒が軽かった。新酒のこの時期、新酒特有の荒さや強さがなく、サラッとしていました。

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では静岡の酒はどうだったかというと、本来、静岡県の酒造りは、あまり米を溶かさず、硬めに仕込み、きれいに仕上げます。麹造りも長期低温ですので、今期特有のハンディはあまり感じず、逆に言えば、静岡流の酒は今年のような米の不出来な年にも影響を受けず、静岡らしさを保っている、と言えるでしょう。

 

 静岡県清酒鑑評会には吟醸の部と純米の部の2部門あります。純米の部は純米らしく味が濃く、太めになる傾向がありますが、全体的にバランス感のよい酒が多かったですね。

 

 一方、吟醸の部の出品酒は、純米よりも精米歩合が5%ほど高く、醸造アルコールも添加しますので、元来、純米よりも繊細で軽いのですが、これに加え、ほとんどの出品酒が兵庫県産山田錦を使用しますので、今期の山田錦の特徴が影響し、若干、例年よりも硬さや細さを感じました。それでも他県に比べると、静岡県の酒は米の影響をあまり受けていないと思われます。静岡県の吟醸酒のスタイルがしっかり確立されているからでしょう。

 

 

 毎度のことながら、県の鑑評会はトップの県知事賞を決めるわけですが、1次審査、2次審査をやって、結審(最終審査)に残った中で最も静岡県らしい酒、というのを私は選ばせてもらいました。

 他の審査員の先生方も静岡の酒のスタイルをよく熟知された方々です。静岡スタイルというのを言葉で表現するのはなかなか難しいのですが、少なくとも審査員の先生方の中では共通のコンセンサスがとれていたと思います。結果としてそのイメージがぶれることなく、結審まで一貫していた。県知事賞は結審では1品、満場一致で決まったようです。審査会としてのレベルも年々向上していると思います。

 

 

 酒の審査というのは、最終的には人間の官能審査です。人が唎き酒をして選ぶわけですね。そこに審査員の人としての感性が大事なファクターとしてかかわってきます。その中から選ばれた県知事賞は、静岡を代表する、最も静岡らしい酒と言って支障ないでしょう。(審査結果はこちらを)。

 

 温暖化の影響により、毎年暑い夏が続いています。その中で、米の品質をいかに保持していくかは、米に限らず他の作物でも同じ課題だと思います。酒米の作り方や栽培適地などを見直す時期にも来ているように思います。

 

 山田錦は兵庫県の山間部が主産地です。昔は灘の酒が日本酒のトレンドを推し進めて来た代表格でしたが、山田錦というのは、本来なら灘が持っている酒造りの技術、風土に適した技術を背景に生まれてきたものです。この地域の特異性というものが、だんだん変化しているように感じますね。

 

 

 もちろん、日本酒は嗜好品ですから時代に合わせて変えていかなければならないでしょうし、造り手が世代交代している影響もあるでしょう。それでも、日本酒が今、全体に消費低迷する中、本来持っていた地域性や風土に根ざした技術を見直し、よりPhoto、酒質の違いを意識しながら残す努力をしていかなければ、違うジャンルのものに凌駕されてしまうのではないか、と危惧しています。

 

 それは造り手だけが意識し、こだわっていてもダメで、流通業者や消費者にも理解を進める努力が必要です。その点、静岡県は、造り手と売り手と飲み手が一体となって静岡吟醸という形を守っています。静岡の酒は川上から川下まで一体となって守って伝えている。

 

酒自体の出来不出来や技術的にどうこう、というよりも、静岡吟醸がそういう形で守られているというところに、得難い気高さを感じます。(つづく)


精魂宿る桜と陶器と工芸菓子

2013-04-01 22:01:14 | アート・文化

 4月になりました。今日は一日、お寺で雑役バイト。庭の枝垂桜の淡いピンクが薄曇の空にDsc_0146_2
同化するのをいやいやと駄々をこねるように風に揺れていました。季節になればちゃんと咲く桜の木って、ほんと、豪いなあと思います。

 

 この桜を愛する90歳を過ぎた先代ご住職が、先日来、容態を悪くしています。こちらがバイトでやっている掃除仕事にも「きれいにしてくれてありがとう」と欠かさず声をかけてくれる慈愛に満ちた方です。桜はひとの命や生き様と重なって見えるときがありますが、どうか一日でも長く咲き続けてほしいと願うばかりです。

 

 

 

 

 

 先週末の土曜日は、染色画家の松井妙子先生、駿河蒔絵師の故・中條峰雄先生の奥様良枝さんと3人で、駿府博物館で始まった『夭折の陶芸家・中野一馬という男』、ツインメッセで31日まで開催の世界の菓子まつりを観に行きました。

 

 

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 夭折の陶芸家・中野一馬という男』、恥ずかしながらお誘いをいただくまで知らなかった陶芸家でした。島田市の製茶商の家に生まれ、デンマークで陶芸を学び、2007年に牧之原で工房を建てるも2年後、43歳の若さで急逝したという異色のキャリア。生まれ持って慣れ親しんだお茶の伝統とヨーロッパのモダンアートが融合した独特のデザイン性に惹き付けられました。展示方法も素晴らしく、大きな壷に豪快に野草を挿し込んだり、家具メーカーの協力でサイドボードやソファーセットを置いてテーブルコーディネートしたりと、作品が単なる鑑賞美術ではなく、暮らしの中で生きるものであると実証して見せる方法です。

 

 

 別室には、実際に中野さんの茶器でお茶が飲める呈茶コーナーも用意されていました。さすが実家がお茶屋さんだけあります。美術展やアートギャラリーって、もちろん主役の作品の力は大事だけど、展示方法って大きいなあとつくづく感じました。この作品展も、中野さんの作品を盛りたてる華道家のセンスや、在りし日の中野さんの写真展示がポイントでした。アートディレクターの存在の重要性、ますます大きくなっていくんじゃないでしょうか。

 

 それにしても、43歳という働き盛りで命を散らしてしまった中野さん。過日、感動した白隠展でも、30~40代のころは迷いがあった白隠禅師の絵筆は、晩年になればなるほど作風が大らかにユーモラスに味わい深く変化していく様子を観ただけに、中野さんの今後の創作の変遷を見続けてみたかったなあと思いました。一見の鑑賞者の私でさえ、そう感じたのですから、身近にいらした中野さんのご家族や支援者のみなさんの思い、さぞ大きかったろうと察せられます。そんな、支援者の思いが結集しての見事な作品展、5月26日まで駿府博物館で開催中ですから、ぜひお運びください。

 

 

 

 

 

 次いで足を運んだ『世界の菓子まつり』、入場するだけで大人900円・子ども700円とられる、ファミリー向けにしては決して敷居が低いとはいえないイベントながら、会場内は親子連れやカップルで大賑わいでした。お菓子で作った駿府城天守閣をはじめ、目を見張るピエスモンテ(造形モニュメント)の数々に、子どもたちが目を輝かせています。

 3月23日のイベント開会前、かみかわ陽子ラジオシェイクで告知をした関係で、イベント内容やピエスモンテの歴史や由来を調べたので、関心がないわけではありませんでしたが、カップルやファミリーばっかりの有料イベントに一人で行く勇気?もなく(苦笑)、そのままにしていたところ、交友のある相良の和菓子店・扇子家の高橋克壽さん(こちらを参照)から「作品を出展するから」の連絡。しかも、松井妙子先生の“ふくろうと森”をモチーフにしたピエスモンテとのこと。高橋さんと松井先生は、私が主宰するしずおか地酒研究会の地酒サロンでお引き合わせをしていたのです。高橋さんはその後、松坂屋で開催した松井先生の作品展に観に行かれたとのこと。酒縁が生んだお菓子というわけですね。乙な話です・・・。

 

 

 

 高橋さんからはこんな意味深なメールをいただきました。

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「この作品、年明けからすぐに製作に掛かりましたが 父が亡くなったり 他の用事が重なったりで、しかもフクロウのイメージがどうしても立体的に浮かんでこなくて、2月後半まで製作が止まってしまいました。

 

 事業者のテレビ静岡の担当の方に作品出来なくなったの連絡を入れようと 自分自身追い詰められてしまっていました。そんな2月後半でしたが 父の四十九日の日の朝、仏前で手を合わせていたら、突然 お経の声が2~3秒聞こえたのです。ビックリして振り返ったけど、私しか居ない部屋でしたので、“あっ父の声なんだ”と思いました。
 とりあえず、お寺で法要を行い、待合室の広間に行ったところ、私が座った直ぐ目の前に実物そっくりのフクロウの置物が籠の中に入って置いてありました。これもビックリ!直ぐに和尚さんに事情を話して、フクロウをお借りしてきました。
 その日からは連日遅れを取り戻すように、毎日午前3時まで製作に取り掛かって、無事、本当にギリギリでしたが出来上がりました。亡き父に助けられた、自分にとって思い出深い作品になりました。」

 

 工芸菓子に生まれ変わったふくろうをご覧になった松井先生は、「一生懸命作ってらしたのねえ、お人柄が伝わるわねえ」とニッコリされていました。作品は全国菓子博覧会にも出品されるそうです。どんな結果になるにせよ、この春に、生まれるべくして生まれた作品なんですね。

 

 

 散り行く桜、咲き誇る桜、これから開花する晩生の桜・・・この春、逝ったいのち、生まれるいのち、出会ういのちが重なってみえます。日本人が桜を愛する理由が、しみじみ肌身に感じられます。