。第41回しずおか地酒サロン『松崎晴雄さんの日本酒トレンド解説~2013静岡県清酒鑑評会を振り返って』 その2
(文責/鈴木真弓)
□日時 2013年4月2日(火) 19時~20時30分
□会場 静岡労政会館5階会議室
□全国のみならず注目の地方鑑評会
全国新酒鑑評会は今から100年余り前に始まった、国をあげての大きなコンテストです。明治の中期、酒造技術の向上のため、国が中心になって始めた公的なものですね。明治30年代の富国強兵時代、日清・日露という大きな戦争を経験し、国の財源確保が急務でした。酒税は税収全体の3割を占めており、科学技術が今ほど発達していない当時、いかに酒を安定的に造り、安定収入を得るかが課題だったという背景もあります。
ほぼ1世紀にわたって国が主導して行うコンテストとして権威も相応にありましたので、各蔵元も入賞を目指して大いに努力しました。
その一方で、全国新酒鑑評会のみならず、地方の国税局単位、あるいは県単位でも鑑評会が行われています。
行政単位だけでなく、南部杜氏や能登杜氏といった職人集団ごとに行う自醸会というコンテストもあります。能登杜氏組合自醸会も100年以上続いていますし、南部杜氏自醸会も90年はゆうに超えています。南部杜氏は北は北海道、南は四国まで派遣されており、地元岩手に戻れば幼馴染みや顔見知りが多い。確か南部杜氏自醸会では順位が公表されますので、あいつが何位だった、自分は何位だったと判ると、当然、プレッシャーややりがいにつながるでしょう。その意味では、全国だけでなく、地域での鑑評会も非常にシビアで挑戦しがいのある高いハードルの技術醸成の場である、といえるでしょう。
□初めて飲んだ静岡酒の衝撃
吟醸酒というのは、この、鑑評会出品用に生まれた技術研鑽のための酒です。本来は門外不出のもので、鑑評会に出品することでひとつの使命は終わり、残った酒は他の酒と混ぜてしまうか、一般にはほとんど知られていない「吟醸酒」ですから、「超特選」というラベルで売るなどしていました。
地方の銘酒が注目され始めたのは、ここ30~40年ぐらいのことです。古くは、吟醸酒造りの発祥の地広島とか、もっとさかのぼれば加賀の「菊酒」や河内の「天野酒」など地方の伝承酒が都に伝わって評判になったという例もありますが、今の地酒ブームは40年ぐらい前、昭和50年前後が黎明期とされています。当時、私は中学生でしたので、日本酒とはまったく縁のない暮らしをしておりましたが、大学生になってから日本酒に目覚め、酒質を追いかけてみると、静岡県の吟醸酒が世に出て注目されるようになったのも、大きなひとつの流れの必然だったような気がしています。
昭和48年は、地酒が注目される大きな転機でした。この年、日本酒の出荷量がピークを迎えたのです。昭和のはじめ、戦時中や終戦間もない頃は米が統制されて、蔵元が思うように酒を造れない時代もありましたが、高度経済成長期になると自由に造れるようになり、大手メーカーは地方から桶買いをしてまで積極的に売るようになりました。
ピークを過ぎると、大量生産の時代の、三倍醸造はじめ、糖類や醸造アルコールの大量添加による量産水増し体制に批判が向けられるようになり、アルコール添加量を低く抑えた本醸造酒や、添加物をなくした純米酒に注目が集まるようになります。もっとも当時は純米酒という言い方ではなく「無添加酒」と言っていたようですが、そういう一部の酒を通して、量から質へと酒に対する価値観が変化していったのですね。
ちょうどそのころ、国鉄がディスカバージャパンのキャンペーンを始めるなど“地方の時代”がキーワードになりました。東京一極集中ではなく、地方にこそ日本の真の豊かさがあり、本来の日本の良さを発掘しようという動きですね。日本酒も、この動きに呼応するように地酒が注目され始めました。
もっとも、当時は、酒造りがどのように行われ、蔵元がどんなこだわりを持っているかという突っ込んだレベルまではいかず、地酒の中にも糖類やアルコール添加量の多いものや、米も普通の飯米で造られたものが多かったようです。
酒の知識云々よりも、たとえば「越乃寒梅」が幻の酒として名声を得たり、樽酒の「樽平」、にごり酒の「月の桂」など変り種の酒が話題になった。これらブームのきっかけは、酒屋さんが一生懸命仕掛けて売ったというよりも、文人墨客といいますか、有名な作家や文化人が雑誌・小説で取り上げて人気に火がついたものですね。その内容も「この県にはこういう銘柄がある」「あの観光地では○○○という地酒が人気だ」といったレベルでした。
私はこの頃、大学生でしたので、1升瓶で1200円ぐらいの2級酒しか飲めませんでしたが、とにかくいろいろな2級酒を飲んではラベルを剥がして収集したりして、愉しんでいました。
ちょうど、伊豆の宇佐美でゼミの合宿があったとき、御殿場の「富士自慢」という酒を飲みました。初めて飲んだ静岡の酒です。
そのころ飲んでいた2級酒は糖類添加で精米も低い、甘くゴツゴツした酒がほとんどでしたが、「富士自慢」は同じような値段帯にもかかわらず、口当たりの良いすっきりとした味わいで、たちまち5合ぐらい飲んでしまいました。おそらく当時、すでに実用化されていた静岡酵母のスタンダードSY103と富士山湧水によって醸された軽やかで、ほのかに吟醸香のようないい香りがしたのですね。お煎餅だけかじって5合スイスイ飲んでしまい、翌日二日酔いをしたことをよく覚えています(苦笑)。それが昭和54~55年頃でした。
□量から質へ
やがて日本名門酒会のような全国組織の酒販店グループが各地の地酒の流通に力を入れ始め、「一ノ蔵」や「司牡丹」のような人気銘柄が生まれました。それら地方から発掘された地酒は、大手メーカーの酒よりも酒精米歩合が数パーセント高く、醸造アルコール添加量も少なく、飲めばあきらかに違いが判ります。
当時はまだ級別制度によって酒の良し悪しが判断されていた時代でしたが、級別というのは、たとえば、特級で(プレミア感を出して)売りたければ国税局で特級の鑑査を受ける、いわば自主申告制でした。鑑査を受けない酒はすべて2級酒扱いです。「一ノ蔵」は、それを逆手に「無鑑査」をウリにしたのです。級別よりも、本醸造酒や純米酒など製法や酒質の違いに価値を置く、そういう時代に変わってきた証拠です。
吟醸酒が注目され始めたのは昭和60年頃だと思います。地酒の中の、本醸造や純米酒の価値はそこそこ浸透してきた中で、精米歩合が異様に高く、口当たりがなめらかで、他の酒にはない華やかな香りがする・・・日本酒を初めて飲む人も、長く飲み続けてきた人にも、一口で、質の違いを認知できたと思います。
ときはちょうどバブル経済の入り口でした。私は社会人2年目で、郊外の百貨店の酒売り場にいたのですが、吟醸酒を名指しで買いに来る人が、週に2~3人ぐらいいたでしょうか。その人たちは、当然、吟醸酒がなんたるかを知っていて、新しい銘柄が入るたびに試し買いする。吟醸酒は、新しい酒質と新しい価値観を日本酒の世界に吹き込んだのだと現場で実感しました。
□興奮を隠せなかった静岡県の大量入賞
その吟醸酒ブームの始まりの頃、昭和61年(1986)の全国新酒鑑評会で静岡県が10銘柄が金賞を獲得しました。この年、金賞を授与された酒は全国で100銘柄ちょっとでしたので、静岡県が金賞の1割を占めたというのは異例の出来事でした。
吟醸酒は“デリシャスリンゴのきれいな香り” “味の線は細いが後きれがドライ” “口あたりがなめらか”な酒といわれます。精米歩合は大吟醸で40~50%程度。今では30~40%ぐらいの大吟醸もゴロゴロありますが、精米歩合60~70%程度の本醸造酒や純米酒とはあきらかに違う。日本酒の最高峰に位置する圧倒的な存在感を示しました。その吟醸酒の酒質を競い合う全国新酒鑑評会で、まったくノーマークだった静岡県が一躍、主産地として躍り出たことに、私も当時、興奮を覚えたものです。地酒を扱う酒販店や居酒屋のオーナーたちも、なんだなんだと目を見張りましたね。
静岡県のことをいろいろ調べてみたら、河村傳兵衛さんという立派な先生がいて、静岡酵母を開発し、何年もかけて実用化させ、吟醸酒造りを牽引してきたとわかりました。いきなりその年、奇跡的に成功した、というわけではなく、それにいたるまでの助走期間があったのですね。
なぜ静岡県の蔵元が吟醸酒に賭けなければならなかったのかという背景もありました。静岡の蔵は規模や小さく、物流が活発で他県から潤沢に入ってくる。その中で地元の蔵が自立するには、普通に造っていたのでは無理で、何か技術的な付加価値が必要だった。それが吟醸酒だったのですね。河村先生はじめ、各蔵元もその意識をもって取り組んだわけです。
表に出る成果も大切ですが、それにいたるまでの理由やきっかけがあり、静岡県の場合は厳しい環境があったということです。
□県の戦略によって産地化された好例
静岡県の大量入賞の前、昭和59年(1984)頃だったと思いますが、東京の酒販店が主催する酒の会で、「國香」を飲みました。普通の本醸造でしたが、吟醸香が素晴らしかった。おそらく静岡酵母HD-1を使っていた吟醸規格の酒だったでしょう。その瞬間、学生の頃に出会った「富士自慢」とフッとつながったのです。20代だった私は静岡の酒を「青春の味」と形容しました。酒質そのものも軽やかでほろ苦さがあり、蔵元の、本当にいいものを造りたいという純粋な思いが伝わってくるような酒だったからです。
静岡の酒の功績は、吟醸酒で名を上げたばかりではありません。県の酵母ですね。今まではある有名な蔵が牽引役となってその地域全体のネームバリューが上がるというパターンが多かった。典型的な例では、新潟が、越乃寒梅によって一気に銘醸地になりましたね。他の地域でも、名だたる人気銘柄があって、酒質の方向性を決め、産地化されていった。
一方、静岡県の場合は、県としての戦略があって、方向性を明確にし、酒質が統一されていったという特徴があります。新しい銘醸地醸成のパターンですね。そこに静岡酵母が存在し、吟醸酒としてはっきりした特徴を持っていた。このパターンを他県も参考にし、独自の酵母を開発し、戦略を持って産地化に乗り出すという流れが出来ました。静岡県はまさにその先鞭をつけたのです。
□多様化する鑑評会と吟醸酒への評価
静岡酵母のあと、長野県のアルプス酵母、秋田県の秋田花酵母など、1990年代前半、各県の酵母開発競争が活況をみせました。バブル経済の後押しもあり、1本1万円の吟醸酒とか、一杯1000円以上で飲ませる吟醸バーのような店も出現しました。
全国新酒鑑評会も、平成3年ぐらいから金賞の数が200銘柄ぐらいにグッと増えました。それだけ吟醸酒造りが体系化され、それまで吟醸酒を造ったことのない蔵や地域まで造るようになりました。
各県の酵母開発はエスカレートし、強烈な香りを発する酵母が続々と誕生します。鑑評会の審査は目隠しをして行い、採点するのですが、何十品、何百品ときき酒していけば、どうしても香りの強い酒のほうが印象に残ります。もちろん、審査では、香りだけではなく全体のバランスのよさをみるわけですが、香りがあって、味が濃くて密度がある酒のほうが有利になってしまうのは確かです。
出品酒の多くは原酒で、アルコール度数18度ぐらい。もともとが香りが高く濃厚な酒です。いちいち飲み込んでいたら審査になりませんので、一口含んで、一瞬でバランスのよさや欠点がないかを判断する。今、全体のレベルが上がっていますので、欠点のある酒はさほどありませんが、全国新酒鑑評会できき酒してみて実感するのは、はっきり言って量を飲む酒ではないということ。自動車でいえばF1レースの世界です。技術の粋を込めたレース用のマシンは、乗り心地や燃費等は考慮されません。それと同じです。
1990年代の吟醸酒ブームでは、そういう酒が全盛になりました。確かに吟醸酒は酒造りの技術の粋を結集した最高峰の酒であることに違いはありませんが、元来、持っていた郷土性は失われていったという疑問の声も聞かれるようになりました。郷土性というか技術格差がなくなったということですね。吟醸酒を造ったことのない地方の小さな蔵でも造るようになった一方で、日本酒自体が低迷する中、最高峰を目指すばかりではなく、もう少し、消費者のほうに目を向けるべきではないか、ということでしょうか。
地方の鑑評会でも、吟醸酒というひとつの雛型に押し込めるよりも、むしろ、従来ある市販酒の中で、個性を判断するとか、飲み方として冷酒ではなく燗酒でうまい酒というものを評価する動きがみられます。燗酒部門を設けた県、純米酒に限定あるいは使用する酒米を地元産に限定する県もあるくらいです。
そのように鑑評会の方向性そのものもどんどん変わりつつあります。吟醸酒に対する評価も変わってきました。酒販店の中には「ああいう香水みたいな酒を高く売るから日本酒はダメになった」と言う人もいますが、吟醸酒は、酒を造るプロセスの中で、いろいろなドラマを生む、夢のある酒に相違ありません。もう少し多角的なものさしで、吟醸酒というものをみてほしいと思いますね。
静岡県のようなレベルの高い県の鑑評会で審査する者にとって、あるいは当然のことながら蔵元さんや杜氏さんにとって、吟醸酒というのは、自らを高めてくれる素晴らしい酒です。酒の販売を経験した身で言えば、自分が仕入れた吟醸酒が初めて売れたときはとても感動しました。無名の酒で、吟醸酒という言葉も浸透していない時代でしたが、そういう経験は吟醸酒あってのことだと思います。
静岡県は、知られざる吟醸酒の実力を世に知らしめ、今では「静岡吟醸」という言葉が生まれたほどの産地です。最初に言いましたように、今年は米が硬く、静岡の酒も若干、線が細いという印象を受けましたが、他県の新酒に比べるとブレがない。それは「静岡吟醸」のスタイルが確立しており、造り手にもしっかり継承されている証拠だと思います。そのことをお伝えできれば幸いです。(了)