杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

詩作する雨森芳洲と三社祭囃子

2015-04-07 08:48:28 | 朝鮮通信使

 4月3~5日まで開催された遠州横須賀(現・掛川市大須賀)の三熊野神社大祭。古い城下町に残る全国屈指の伝統の祭りです。この祭りを支える酒蔵「葵天下」の山中久典さんの取材を兼ねて、5日本祭の神輿渡御行列と禰里(山車)行列を見学しました。あいにくのお天気でしたが、すばらしいお祭でした!

 

 

 江戸の元禄年間に端を発し、享保年間(1716~35年頃)に現在の形になったとされる三熊野神社大祭は、のちに江戸幕府の老中になった横須賀城主・西尾隠岐守忠尚(にしお おきのかみ ただなお)公が、江戸天下祭(神田・山王両祭礼)の祭り文化を横須賀に伝え、発展させたたと言われます。禰里(ねり)と呼ばれる「一本柱万度型」の山車は、江戸中期の天下祭を克明に伝える「神田明神祭礼絵巻」の中に、ほぼ同一のものが描かれています。発祥の神田明神ではすでに姿を消し、遠く離れたここ遠州横須賀とその近隣に残るのみ。江戸の祭り文化の伝承を地方の小さな城下町が担っているなんて頼もしいですね。今年5月9・10日の神田祭は遷座400年記念として盛大に開かれ、ここの禰里2台が“里帰り”参加するそうです。東京の方はぜひご覧になってみてください!

 

 享保年間といえば、前回記事でふれた朝鮮通信使接待役の雨森芳洲や白隠禅師が活躍した時代。享保4年(1719)には第9回朝鮮通信使(正使/洪致中)が9月20日に見付~掛川を巡行しています。春に巡行した記録はなく、東海道から離れた横須賀城下を朝鮮通信使が訪ねることもなく、当然、この祭りを見たことはないだろうとは思いますが、この時代、街道にはさまざまな人・モノ・情報が往来し、新たな伝統が萌芽していたことを再認識させられます。

 抜群のフットワークと情報収集能力を兼ね備えていた芳洲さんや白隠さんのことですから、ひょっとしたら遠州横須賀に面白い祭りがあるらしいって聞いていたかも。享保4年当時、芳洲さんは52歳。私と同い年です。・・・同級生扱いするのは畏れ多いですが、歴史って具体的な「誰か」の目線でその時代背景を追ってみると教科書では教わらない発見があってワクワクします。

 

 さて前回報告途中だった滋賀県高月での芳洲会記念講演【雨森芳洲と漢詩】。講演者・康盛国先生(大阪大学大学院特任研究員)のお話に、私が2007年に書いた映像作品【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】シノプシスの抜粋を加えて報告します。

 芳洲は前述の享保4年52歳の時、泉南の豪商・唐金喜右衛門への手紙で

 「詩才のある者には必ずしも詩学はない。逆に詩学のある者には、必ずしも詩才はない。才学兼備にして人を驚かす語句を作れる(新井)白石のような人は、まことに現代の第一人者と存じます。木下(順庵)先生の学塾におりました時には時折詩を作ってみましたが、とかく気に入らず、いったん取りやめ、その後白石さんたってのおすすめで二十首ばかり作って白石さんに添削をお願いしました。白石さんも私を努力させようと圏点など大分加えてくださいましたが、自分で自分の才能のなさを知っておりましたから、ふたたび中止しました。私が24~25歳頃のことです」

 と書いています。若い頃はあんまり詩が得意ではなく、木下順庵の同門だった新井白石を尊敬し、詩の添削までしてもらっていたことが判りますね。年齢は白石のほうが11歳も年上でしたが、入門は芳洲のほうが1年早いという関係。白石はその後、幕僚として出世し、芳洲は朝鮮語と中国語2ヶ国語に精通する当代屈指の国際派として対馬藩に仕え、朝鮮通信使外交を支えました。

 

 正徳元年(1711)の第8回朝鮮通信使訪日で、白石と芳洲は接待方法について激しく対立しました。徳川将軍交替時に朝鮮通信使という外交使節団を招くことは、一大国家プロジェクトです。かかった費用は18世紀初頭の頃で約100万両。当時の国家予算78万両をかるく越えていました。17世紀末頃から幕府の財政が厳しくなってきたことから、ときの財政担当だった白石は、通信使の接待費用を大幅に節約することを命じ、次のような「聘礼改革」を行って物議をかもします。

①     将軍の称号を日本国王とする

②     若君への聘礼をやめる

③     礼曹から老中への書翰・礼物をやめる

④     往復での饗応は5ヶ所に限る

⑤     客館への慰問は老中ではなく高家を使者とする

⑥     将軍使の来訪には階下で迎送する

⑦     謁見の際、国書は正使が奉持する

⑧     聘礼の際、御三家は使臣と同座しない

⑨     饗宴の相伴に御三家は出席しない

 

 このうち、接待役を老中から高家に格下げしたり、御三家を聘礼・饗宴に参加させないというのは、経費節約とはあまり関係のないこと。ほか、通信使の江戸往復の先導を務めた対馬藩には、こまかい儀礼の変更が指示されました。たとえば、それまで通信使は輿に乗ったまま客館に入り、幕府の使者の訪問に三使の送迎は無用でしたが、客館へは輿から降りて入れ、幕府の使者は階下に降りて送迎せよ、というようにです。到底、通信使は納得せず、抗議し、対馬藩の奉行はその対応に苦労します。

 大坂ではこんなやりとりがあったと、朝鮮通信使随行員の日記『東槎日記』に記録があります。

 「この事は聞き入れることが極めて難しい。島主(対馬藩主)が助けてくれとまで哀願してその切迫した様相は十分知り得る。我等もまた善処したいが、もしこの事を許すようになれば、将来ある聞入れ難い要請があるかもしれない。このために決して許すことが難しい」というと、奉行達は「この事を許されるならば、今後江戸でたとえ他の事があっても、我等が正に島主とともに命を懸けてでも関白の前で必死に諫言して必ず無事にいたします。この事は心配されることはない。願わくは、首訳たちと共に島主がいるところに行き、直接約束してまいります」というので、ついに首訳たちを送ってよく処理するようにさせたが、島主が折りしも病床に臥していたが、強いて起きて来て会って言うには、「私は今、生きるを得ました。三使の恩恵は死んでも忘れ難い。今後他の憂いがないことを保障して、たとえあったとしても一島の上下が正に死を以て厳しく諫言して決してご心配をおかけいたしません」とあって、直ちに奉行たちをして謝礼に来させ、館伴と両長老も共に使いを送って謝礼した。(第8回 東槎日記より)

 

 江戸での国書交換のとき、新井白石が作成した朝鮮国王への返書に、朝鮮の昔の国王の諱(いみな)の一文字が入っていました。朝鮮通信使側は変更を要求しますが、白石は「朝鮮国王の国書にも、現将軍家宣の祖父・家光の「光」の字が入っているではないか」と反論し、対立します。朝鮮では亡くなった人の名を呼び捨てにするのはタブーとされ、日本では亡くなった人の字をもらうのは栄誉なこととされています。白石ほどの知恵者がこのことを知らないはずはなく、芳洲は、この白石のこじつけとも思える行動に強く反発します。

 「雨森東が言うには「三使が国書を改めるを請うは事理にかなったことであり、わが国で終始これを難しく思い、当然改めない光の字を改めることを請うたことに対しては、誠に蛮の称号を免れないところである」とのことであった。(第8回 東槎日記より)

 

 この一件は、双方が国書を書き直し、対馬で交換するという異例のかたちで決着しました。朝鮮側は書き換えに応じたものの、使節団責任者を辱国の罪で処罰しました。白石の改革は、享保元年(1716)、徳川将軍が8代吉宗に交替したところであっけなく終わり、白石はお役御免となりました。通信使への聘礼改革も1回で終わり、1719年の第9回からは、またもと通りになりました。しかし皮肉なことに白石が懸念したとおり、通信使外交はその後、日本と朝鮮双方の国家財政を圧迫し、12回目(1811)で終わりました。最後は対馬までしか来ませんでした。

 

 新井白石はかなりプライドの高い人のようで、自伝『折りたく柴の記』では芳洲のことを「対馬国にありつるなま学匠」と小馬鹿にしています。私はこの2人が木下門下生時代からライバル同士で、公の舞台でも対立した相性の悪い者同士、と思い込んでいたのですが、今回、康先生のお話をうかがい、少し認識を改めました。白石は享保元年(1715)に編集した順庵門下生の詩集『木門十四家詩集』と、享保3年(1718)に刊行した同時代の白石セレクト漢詩集『停雲集』に、芳洲の漢詩9首をちゃんと選んでいます。芳洲は芳洲で、享保5年(1720)にも白石に詩の批評や添削をお願いしていた。 文化人・教養人として互いに認め合っていたのです。・・・こういう関係性ってオモテの教科書だけじゃわからないなあと反省させられました。

 芳洲は54歳で対馬藩朝鮮方佐役(通信使接待役)を退き、本職である儒学者兼外交アドバイザーとして引き続き対馬藩に仕えます。そして61歳のとき、外交接待の心構え書『交隣提醒』(こうりんていせい)を記し、有名な「誠信と申し候は実意を申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実を以って交わり候を誠信とは申し候」を明言します。ちなみに日韓ワールドカップが開かれた平成14年(2002)、来日した韓国の盧泰愚大統領がこの一文を取り上げ、雨森芳洲の名が一気にメジャーになり、その後訪韓した小泉首相も「それぞれの民族の文化を深く知って尊ぶ芳洲の姿勢に大いに学ぶべき」と語っています。

 

 20~30代のとき、「寿命を5年縮める覚悟で」と臨んだ朝鮮語の修得成果を36歳で『交隣須知』にまとめた芳洲。48歳のとき』『隣交始末物語』を書いて白石に提出。53歳のとき林大学の求めで『朝鮮風俗考』を著し、57歳で『天竜院公実録』、60歳で『通詞仕立帳』、62歳で『全一道人』、63歳で『誠信堂記』、68歳で『読荘窾言』、80歳で『橘窓茶話』を書き上げるなど執筆活動に精力的で、81歳で公式に隠居した後は和歌の研究を始め、84歳までに古今和歌集千篇読みを達成。次いで万葉集の研究を始め、自らに1万首の詠歌ノルマを課したそうです。

 興味深いのは、晩年の著書『橘窓茶話』で、自分が9歳のときに作った詩を「韻・平仄(漢詩の発音ルール)に誤りがある」と指摘し、79歳で修正・改作したものと一緒に並べて掲載しているところ。康先生は「テクニックに誤りがあっても詩意はそのまま。つまり、子どもの頃に定まった性情や度量は巧妙な表現で飾っても覆い隠すことは出来ないもの。自分の性情が聖人のようでなくても、敢えて飾らず、ありのままを率直に表現し、子孫に伝えようとした」と解説されました。

 また芳洲は18世紀当時、荻生徂徠等を中心に中国の宋や明の詩を模範とした“古文辞派”と呼ばれる思想を批判しています。『橘窓茶話』では宋詩を指して「凡そ詩は晩唐以下に詩無し。その工を小処に用いるを以っての故なり」とし、明詩を真似て作詩することを「嬌妾妖姫の素り天然の妙姿無くして掩映装飾して嫵媚を希求するが如し(天然の妙姿のない嬌妾妖姫が厚い化粧と派手な飾りでみめよい姿態を求めるようだ)」と一刀両断。

 漢詩のことはよくわからないので、なんとも判断しようがないのですが、芳洲が宋・明代の流行の詩風を安易に模倣したり技巧に走るなど、外面をつくろうような詩作を嫌い、自分を飾らず、素直に表現しようとした人だ、ということは理解できました。朝鮮通信使と「互いに欺かず、争わず、真実を以って交わり候」という関係を築き上げた外交官らしいですね。その上、80歳を過ぎてから日本の和歌を猛勉強し始めた。この飽くなき向上心には、大いに刺激をもらいます!

 

 三熊野神社大祭の禰里の上では三社祭礼囃子が祭りを盛り上げました。横須賀城主西尾忠尚公が参勤交代の折り、御家人衆が江戸で習ったものが原型とされ、以後、横須賀独自の調子が加えられ、今日の形となったそうです。大間(おおま)、屋台下(やたした)、馬鹿囃子(ばかばやし)の道中囃子3曲と、昇殿(しょうてん)、鎌倉(かまくら)、四丁目(しちょうめ)の3曲からなる役太鼓があり、演奏にあわせて「ひょっとこ」「おかめ」の面をつけた手古舞(てこまい)がつきます。「葵天下」蔵元杜氏の山中久典さんは「このお囃子を酒のもろみに聴かせて醗酵させたんですよ」と祭りラベルの酒を披露して、禰里の曳き手が一升瓶をラッパ飲み!「毎年朝っぱらからこんな調子」と嬉しそうです。山中さんの酒も、今流行りの香味派手な酵母は使わずオーソドックスな9号酵母で地元の人々は何杯もお代わりできる地酒らしい味です。


 三社祭礼囃子は昭和30年に静岡県指定無形文化財第1号に指定されています。軽快なお囃子リズムを耳にするうちに、素直な詩意を朴訥と詠み続けた雨森芳洲の晩年の姿が想起されました。江戸で流行っていたものを地方が取り入れ、地方ならではのリズムにアレンジし、江戸でなくなった今もしっかり残している。・・・芳州さんが聴いたら「都会の真似をするな」と怒るのか、はたまた「素直に愉しめ」と温かく見てくれたのでしょうか。

 異なる文化が入ってきたとき、その文化に敬意を示し、懐深く醗酵させ、その土地にあった新たな文化へと仕込んでいく・・・「葵天下」をちびちび舐めながら、朝鮮半島と江戸と遠州横須賀を線で結び、愉しい妄想にふけっています。


白隠坐禅岩と富岡鉄斎名品展

2015-04-03 20:26:23 | 白隠禅師

 静岡市では現在、徳川家康没後400年を記念した顕彰事業『家康公四百年祭』を開催中です。4日・5日の恒例静岡まつりでは四百年祭春のシンボルイベントが加わり、京都葵祭の斎王代が葵使として初参加し、朝鮮通信使とともに歓迎式に登場するなど例年以上の盛り上がりを見せています。

 

 私が映像作品【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】の制作にかかわったのは2007年。もう8年も経ってしまいました。朝鮮通信使のことをほとんど知らず一夜漬け勉強状態で書き上げたシナリオは、私にとっていわば入試論文みたいなもので、映画製作が終わってから本当の朝鮮通信使学習が始まったのでした。シナリオ監修でお世話になった朝鮮通信使研究家北村欽哉先生の勉強会に参加するほか、ロケでお世話になった広島の鞆の浦、京都、滋賀高月とは今もご縁をいただき、今もって研究途上といわれる朝鮮通信使の足跡解明と歴史的評価について学ぶ機会を得ています。

 肝心の地元静岡で行なわれる朝鮮通信使イベントや清見寺関連事業にはとんと声がかからず、事後に新聞記事で知る程度。開催中の四百年祭でも8年前の映像作品のことは一切取り上げられず。出演してくださった林隆三さんが昨年亡くなったとき、追悼上映会でも開いてもらえたら…と願ったのですが、残念ながら市役所や清見寺関係者で作品のことを顧みてくれる人は今はいないよう。当然、下請スタッフの一人に過ぎなかった自分に声がかかることもないだろうと、ため息をついていた先月半ば、滋賀高月の『芳洲会』から3月29日開催の総会と記念講演会の案内が届きました。

 

 『芳洲会』は朝鮮通信使の接待役として活躍した対馬藩外交官の雨森芳洲を顕彰する市民団体。大正時代に発足した歴史ある団体です。私は高月観音の里歴史民俗資料館の佐々木悦也先生に案内をいただいて2年前に入会し、総会案内が届いたのは今回が初めて。やっと会員として認められた!と感無量でした。直前まで酒蔵取材スケジュールが確定せず、行くと決めたのは前夜。酒蔵取材で早起きの体になっていたせいか翌朝3時前に目が醒めて、目が醒めたのならのんびり車で出掛けようと思い立ち、せっかく車で行くなら、車じゃなきゃ行けないところへ寄り道していこうと、かねてから行きたいと思っていた美濃加茂の白隠坐禅岩に向かいました。

 

 白隠坐禅岩とは、岐阜県美濃加茂市の巌滝山という小さな山の中腹にあります。1715年春、ちょうど今から300年前、白隠さん31歳のとき、この岩の上に坐って約1年9ヶ月もの間、禅定(坐禅で精神集中)に専念されたそうです。もともとこの岩は地元の人から「祟り石」と怖れられていた奇岩だったそう。そういう場所を選んでひたすら禅定するなんて、白隠さんの修行に臨む覚悟のほどが伝わってきます。

 

 

 

 朝7時過ぎに着いたのですが、ふもとの賑済寺には300年記念を知らせる案内はなく、近くのゴルフ場へ行く車が数台行き交う程度。寺の裏道から岩までは500メートルほどの距離でしたが山中に人影はまったくなく、独りで登るには少々心細く、白隠さんがお守りしてくださるはずだと言い聞かせ、急勾配の山道を登って坐禅岩に到着。かなりの角度の斜面にドンと鎮座する巨石の上に、もう一つ、平べったい石が乗っかっていました。土砂崩れや地震でもあれば落下してもおかしくないのに、この形状で300年耐えてきたんですね・・・。

 

 

 白隠さんは翌1716年11月、沼津の原の実家から父が倒れたと連絡を受け、松蔭寺に戻ったのですが、この頃、禅病―今で言う〈うつ〉を患っていたそうです。31~32歳頃というと、今の感覚でいえば己の立ち位置を定めるというか、そろそろ身を固めよと周囲からプレッシャーを受ける時期ではないでしょうか。現代感覚で白隠さんを語ってはいけないとは思いますが、50歳を過ぎても立ち位置が定まらない宙ぶらりんな自分にとって、白隠さんが理想と現実の狭間で葛藤し、心の病と闘っておられた場所にこうして導かれたご縁を思うと、なにやら勇気が沸いてきます。

 「祟り石」といわれた奇岩の上で、身心がボロボロになるまで坐り続けた白隠さん。岩の一角を両腕で抱え、300年の時空を越えて白隠さんの息吹を感じようと試みましたが、ブルッと身震いがし、安易に近づいてはいけない気がして後ずさりし、合掌低頭しました。

 

 

 賑済寺まで戻って一息ついたところで案内板に目を通してみたら、面白い一文がありました。我々静岡人は「駿河に過ぎたるものあり、富士のお山と原の白隠」と教わっていますが、ここの案内板は「日の本に過ぎたるものが二つある、駿河の富士に原の白隠」。白隠生誕300年記念(1985年)に大本山妙心寺642世管主が書かれたようです。さすが!日本に収まりきれないスケールの人物なんですね・・・。

 

 

 

 美濃加茂市街に出てファミレスでモーニングを食べた後、一般道を使って滋賀の長浜へ。今は長浜市に合併された高月町の渡岸寺で国宝十一面観音を拝み、隣接する高月観音の里歴史民俗資料館を訪ねて佐々木先生にご挨拶。資料館ではちょうど特別陳列布施美術館名品展【富岡鉄斎と妻春子】を開催中でした。富岡鉄斎は、よく「なんでも鑑定団」で名前を聞く近代文人画の巨匠・・・程度の認識しか持ち合わせていませんでしたが、展示されていた自画像もどきの「維摩居士像」や、狐の妖怪「白蔵主図」を眺めていたら、白隠さんの画に似ているなあと思えてきました。画風は全然違いますが、賛をしっかり描き込むところとか、晩年の作品になればなるほど大胆でおおらかになっている点など等。

 

 帰宅後、ネットで調べてみたら、富岡鉄斎は京都瓜生山で隠遁者・白幽子と白隠さんが対面した〈白幽子寓居跡〉を建碑したそうな。白幽子とは書・天文・医学等に長け、白隠さんが『夜船閑話』で紹介した“内観の秘法”を授けた仙人。美濃の山中で「一度死ぬつもりで坐禅しよう」と禅病を患った白隠さんが、宝永7年(1710)に白幽子のもとを訪ねています。鉄斎はその逸話をズバリ『白隠訪白幽子図』という作品で描いていたのです。

 今回拝見した高月の展示作品には白隠さんを描いたものはありませんでしたが、坐禅岩にお座りになっていた頃の白隠さんが、白幽仙人から授かった内観の秘法で禅病を治療しながら修行されていたと知って、坐禅岩の白隠さんがいっそうリアルに感じられました。と同時に、〈近代文人画の巨匠〉という教科書的ワードでしか見ていなかった富岡鉄斎にも急に親近感が沸いてきます。・・・今度、京都へ行くとき訪ねる場所はこれで決まり!

 

 高月公民館で開かれた芳洲会の記念講演会は、【雨森芳洲と漢詩】と題し、大阪大学大学院特任研究員の康盛国(カン ソングク)先生が芳洲の詩風や漢詩観についてお話されました。韓国人の康先生が芳洲に興味を持ったのは、先生と同年の36歳頃(1703年頃)の芳洲が朝鮮語の習得に苦労し、「命を5年縮めるつもりで取り組めば、成就しない道理はない」と自らを奮い立たせていたエピソードだそうです。

 白隠禅師(1685~1768)と雨森芳洲(1668~1755)。若い頃は命を賭して己の使命に向き合い、長寿をまっとうした2人の足跡を、私自身なんとも不思議な縁でこの先も長く深く辿ることになりそうです。康先生の講演については次回へ。


しずおか地酒サロン~2015静岡県清酒鑑評会をふりかえる

2015-04-01 21:46:00 | しずおか地酒研究会

 3月26日(木)夜、松崎晴雄さんを迎えての恒例春のしずおか地酒サロンを開催しました。会場は昨年と同じ、満寿一酒造の故増井浩二さんが蔵で使用していたテーブルのある建築家の事務所ギャラリーです(昨年の様子はこちら)。しずおか地酒研究会の催事は、今までこのブログで事前告知と参加者募集を行いましたが、今回は会員メールとフェイスブックでの告知で即満席になりました。各地で「日本酒ブーム再来」という声を聞く中、私のような個人がやってるささやかな小宴もその恩恵に浴することができたのか・・・とジワジワ手応え。当ブログでの告知をお待ちになった奇特な方がいらしたら申し訳ありません・・・。

 ということで、少し遅くなりましたが、いつものように松崎さんの講話を再録します。松崎さんは今年2年ぶりに静岡県清酒鑑評会審査員を務められたので、県鑑評会のお話から。

 

 第43回しずおか地酒サロン 松崎晴雄さんの日本酒トレンド解説~2015静岡県清酒鑑評会をふりかえって

□日時 2015年3月26日(木) 19時~22時

□会場 Salon de SAANA 酒井信吾建築設計事務所&永田デザイン建築設計事務所 

 

 

 みなさまこんばんは。毎年こういう機会をいただいておりますが、昨年は海外出張のため静岡県清酒鑑評会の審査に参加できず、この会でも審査の話ではなく、「杜氏の流派」について、磯自慢の多田さんのような名杜氏を前に緊張してお話させていただきました。2年ぶりに審査に参加出来ましたので、まずは県の審査の動向について、次いで全国の酒質のトレンドなどについてお話ししようと思います。

 

 静岡県では例年、吟醸酒・純米吟醸酒の2部門審査をさせていただきます。出品点数は22~23蔵から計90点弱。1審・2審でふるいにかけて最後に残った数点で決審するというやり方ですが、今回は吟醸酒部門は3審まで行って決着が付かず、最後に残った3品で決選投票を行ないました。白熱した大接戦でした。その結果、「開運」が県知事賞に決まったわけですが、これは静岡県全体のレベルが非常に高く、甲乙つけがたかったということでしょう。人間が審査することですので、なかなかズバッと割り切って決めるということが出来ないんですね。その大変さを改めて実感しました。

 1位になった「開運」は香りもさることながら、味のふくらみやまるみがたっぷりして非常にバランスがとれていましたね。2位の「花の舞」も静岡酵母らしい爽やかな香りでしたが開運に比べるとまだ若く、後口が硬い感じがしました。3位「磯自慢」も香りに“切れ込み”のある非常に静岡らしい爽快で繊細な酒でした。最後3品の審査では、味にふくらみがある「開運」に軍配が上がったということでしょうか。

 いずれにしても3者3様、非常に静岡らしい素晴らしい酒だったことは間違いありません。静岡酵母の特徴がよく出ており、どれが1位になってもおかしくなかったと思います。吟醸酒の場合は醸造アルコールを添加しますので、切れ味がよく、軽快で、審査していてもその特徴を感じたわけですが、3月13日の審査会ではどちらかというと純米吟醸のほうが軽やかで静岡らしさを感じました。というのは、吟醸の部のほうは全体的に“甘い酒”が多い、という印象だったのです。それに比べると純米吟醸のほうが若干酸が効いてアルコール度数も低めですので、静岡らしいスッキリ感や繊細さを感じた。ところが10日後の3月23日の一般公開では吟醸の部のほうが切れもあり、酒の軽さやバランスがよく、やっぱり吟醸のほうが全体的に出来がよかった。審査のときとは違う印象でしたね。純米はわずか10日で味がかなり進んだようです。香味とも締まった感じで酒質としてのバランスのとれたアルコール添加酒のほうが全体的に勝っていたかなと思いました。

 

 静岡の酒が甘く感じたのは、米が溶けて甘みが出ているのではないかと思われます。例年、静岡の酒はスカッとしていてどちらかといえば後口が硬いのが特徴で、搾って間もない新酒らしい苦味や渋味があったのですが、今年は例年に比べて味が出ているという印象です。米が溶けて甘みが残るというのは全国的な傾向のようで、まだ新酒鑑評会が始まる前の2月ぐらいから、一部の蔵元さんから「例年に比べて米の出来がよくない」と聞いていました。もちろん米が溶けなければいい酒は出来ないのですが、溶け方がよくないと。酵母が米の糖分を栄養にしてアルコール醗酵するわけですが、アルコールがあまり出ないうちから米の溶けがどんどん進んでしまい、結果的に米の甘みが残ってしまった。山田錦を筆頭に酒造米全体にその傾向があったようです。

 今年私にとっては静岡県の審査会が一番最初で、その後、福島県の審査にも参加したのですが、福島でも若干そういう傾向がありました。昨日(3月25日)は大阪国税局の研究会に参加しましたが、味が甘くて重い酒が多かったという印象です。あまりいい傾向ではないのですが、ある種、現時点でまとまっている酒は味が進みすぎて、この先、味がもっと重くなってしまうのではないか・・・。もちろん鑑評会出品酒というのは特別な酒で、市販酒に即影響するというわけではありませんが、今年の酒質についてはそのような傾向があり、若干心配ではあります。

 酒が甘くなっているという傾向はここ10年ぐらいのトレンドです。米が溶ける、暖冬傾向にあるという条件以外に、酵母の特徴と麹の造り方にその理由があるような気がします。非常に香りの高い酵母を使うのが鑑評会用吟醸酒の主流になっており、それが市販酒として評価される傾向にあるようです。香りが高い酒というのは、相応の味の厚みも必要になります。最終的に味も香りもボリューム感のある酒にしていこうということになる。そういう酒は麹造りでグルコース濃度を上げる。昔、吟醸酒は酒粕をたくさん出してきれいな酒にするというのが常道でしたが、最近はグルコース濃度がひとつの目安になっているようですね。逆に静岡の酒はわりと硬めで軽くてカラッとしたスタイルの麹を造るので、今のトレンドとは一線を画しており、それが静岡酒たるゆえんであろうかと思います。

 なぜ甘くて濃密な酒が流行っているのかというと、ひとつは淡麗辛口への反動ですね。新潟の「久保田」「八海山」「上善水如」に代表される淡麗辛口酒が時代を席巻したのは1980年代から90年代半ばぐらい。水のように飲みやすい酒が一世風靡し、焼酎やパック酒まで“飲みやすさ”をウリにするようになりました。酒の同質化はやがて反動を生みます。若い造り手を中心に「無濾過」などインパクトのある酒や、香りの高い酵母へも対応するようになり、流れは完全に「芳醇旨口」へと変わりました。それは酒の呑み方自体の変化ともかかわりがあると思います。

 酒は、すいすいジャブジャブ呑めればいいやというものから、美味しい酒を少しずつ呑んで料理を愉しむというスタイル、酒そのものよりその場の雰囲気や美味しい料理を愉しむというスタイルに変わっています。若い世代でアルコールを呑まない人が増えているということもあるでしょう。食生活を見ても、出汁と素材の味を生かした和食に合う淡麗な日本酒、というよりも、居酒屋のメニューをみても食材は国産のものでも味付けは多国籍といいますか、さまざまな調味料を駆使した創作料理が増えている。そういう料理と合わせるとなると、香りや味に幅やふくらみのある酒のほうが合うのでしょう。飲酒の動向や食べ物の趣向性が多様化しているということが日本酒の酒質に少なからず影響しているようです。

 中には黒麹や白麹を使った酒というのも登場し、日本酒の多様化に伴って貯蔵や流通が発達していろいろな酒がいい状態で呑めるようになった。これも大きな要因です。酒飲みにとってはありがたい時代です。多様化し、個性的な酒が増えてきたというのは、日本酒が醸造酒であり、複雑な工程を経て人間の技術が介在している酒だからこそ、と思います。

 

 日本酒の蔵元は1400~1500社ほどありますが、それぞれの地域の食文化との組み合わせによって永く続いているという側面もあります。その土地の料理と合わせたときの味わいというのは、今風の特殊な創作料理との食べ合わせとは違う意味でゆるぎなく存在していると思います。このサロンでも何度かお話していますが、地酒というのはその土地で呑むのが美味しいと断言できます。静岡の酒は新潟とは違いますが酸の少ない淡麗型の酒です。数値上では辛口タイプ。そこに静岡酵母特有の爽やかなリンゴ、バナナ、梨のような香りが加わり、新鮮で素材に手を余り加えない魚料理や、苦味のある山菜等にも非常に合う。素材の持つ微妙な味わいにもマッチすると思っています。

 

 地酒は地元で呑むのが美味しいという理由を私なりにいろいろ考えてみると、ひとつはその土地の気候風土、とりわけ温度湿度が関係しているのではないかと。「地酒はその土地で呑むのが美味い」というのは情緒的な意味合いや、地元のほうが酒の回転がいいから等と言われ、自分もそうだろうと思っていたのですが、実際、旅行先で呑んで美味しかった酒を買って東京で呑んでみたらさほど感動しなかったり、蔵元から直接買ったのに蔵で呑んだときのほうが美味しかった・・・という経験もあって、これはその土地の温度や湿度が微妙に人間の生理に影響しているのではなかろうかと考えました。これは酒に限らず、食材や調味料でも同じことかもしれません。

 15~16年前の3月頃、ロサンジェルスからニューヨークへ移動したとき、ロスは砂漠地帯で暑く、ニューヨークは雪が降るくらい寒かった。同じ純米酒を呑んだら全然違う味だったのです。ロスでは冷酒で、ニューヨークでは常温だったと思いますが、ニューヨークで呑んだときのほうが断然美味しかった。同じ酒とは思えないダイナミックな差を感じました。飲み手の生理的な情態というのが酒の味に大きく影響するとつくづく実感しました。

 

  

 「芳醇旨口」が今のトレンドだといわれます。旨口というのは日本酒特有の表現ですが、ようするに米の旨味を生かした甘口ということでしょう。若い造り手は自分のブランドを立ち上げたり、従来とは違う新しい酒質で勝負しています。そんな中で、高い香りを敬遠するという人も増えているようです。新しい酒質を模索する中で香りの高い酒は何杯もお代わりできるような酒ではないと判断し、おだやかな味に戻ってきた。静岡の酒のようなタイプを目指すと標榜する蔵も登場しており、(県外では使用不可の)静岡酵母と同じ酢酸イソアミル系の金沢酵母(協会14号=市販酵母)を使う蔵が増えてきました。また協会酵母一番のロングセラー・6号酵母を使う「新政」のように、独自の醸造哲学と乳酸を使わず白麹で酒母を造るという大胆な姿勢の蔵元が、若い造り手に非常に注目されています。

 

 かつて淡麗辛口が一世風靡した頃は、その反動から芳醇旨口に流れ、芳醇旨口全盛の今、そこから脱却して独自性を構築しようという流れが生まれつつあります。ひとつの流行が行き過ぎるとそのより戻しが来る・・・そんな反動の繰り返しが20年ぐらいの周期で来ているようですが、その中にあって静岡の酒は独自のスタイルを貫き、完全に定着していますね。来年2016年は静岡酵母がブレイクした1986年から30周年という記念すべき年です。先日の県の審査会ではリアルタイムで当時を知らない若い審査員がいました。私は当時、審査員ではありませんでしたが、静岡酵母の酒に出合って衝撃と感動を受けた、その経験を若い世代に伝えるべきだろうとも思っています。東京でもぜひ何か出来れば、と考えております。来年はしずおか地酒研究会も20周年だそうですから、ぜひ大々的にやりましょう。(文責/鈴木真弓)