村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

484.自分の人生は自分で考え、自分で決め、自分がやる(my life)

2019-11-07 18:35:41 | 人生
指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
講演例
  ・自分の人生論 ・山暮らし ・会話上達  ・老後の暮らし ・自主防災 ・資産運用 ・

   滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設

出来た・出来ます

テーマ:自分の人生は自分で考え、自分で決め、自分がやる(my life)


最近は、平和な一方で、従来には考えられない問題がいろいろ起きる
今や100歳以上生きるのは常識、あまりにも高齢まで生きる中で
自分のきちんとした人生観がないと苦しみ悩みも増幅する

 ・10月になって日本を襲う超巨大台風や洪水で大規模な被害
 ・大停電や交通マヒや巨大広域被害による大混乱続出
 ・超少子化と超高齢化社会、しかも高齢者は100歳時代
 ・まだ増え続ける膨大な国家の借金
 ・ひどいあおり運転と暴行、あまりにひどいクレーマー
 ・あちこちで起きる虐待やハラスメント
 ・失言の多いお粗末な、犯罪まがいなことを平気でやる政治家
 ・都会は、ビル化更に超高層ビル乱立、超過密化
 ・年を中心に水道ガス排水電柱橋梁道路などインフラが一斉に老朽化
 ・空き家や廃屋の増加・無縁墓の増加・ゴミ屋敷の増加
など、など、本当に次々に信じられない問題が続発し、
  大げさに言うと、今まさに日本は大苦難時代に突入しかかっている

想像を絶する大災害が日常的に発生し
「こんなことが起きるなんて考えもしなかった」と言う人が最近は増えている
でも、そんな甘いことでは混沌とした現代社会はまともに生きてはいけない
例えばリスクというものもきっちり自分なりに考えて予防することが大事だ
”考えもしない”ではなく”事前に十分考え予防しておく"ことだ
私の専門の仕事は管理技術だったが、管理の基本は、基本方針=人生観
自分の基本理念を自ら考え、自分で実践することが大事だ
自分で考えずに誰が考えると言うのだ”


”自前の考えを持つ”ことが大事だ、人間は立派な脳をもっているのだ
人は自分の考えを持たずに、何となく借り物の考え方や固定観念に従っている
自分自身の考えを定め、間違ったと気づいたら修正するような習慣が欲しい
他人に強制はしないが、「これが俺の生き方だ」と自分の生き方を堂々と表現する
完全な人生観がすぐに出来るわけではない、何十年もかけて洗練していく
ところが世間を観ていると、借り物の考えで済ましフラフラしている感じがある

現代は良き時代である一方、反作用として、問題が潜在又は顕在化してくる
高齢者は長生きし、素晴らしさを享受しながらも、正直戸惑っている
元気ない・家ない・金ない・身寄りない、災害多いの何重苦の老後になる

豊だが不確定な時代に生きるためにも自分自身の人生観がしっかりしていないと
続発する苦難や課題とタイムリーに向き合い、場合よってやり過ごすのは難しい
人生観は、出来れば遅くとも50歳くらいから立て始めないと手遅れになる
私が人生観をやっと構築し始めたのは、偶然55歳~60歳からだった
私には、そういうきっかけが遅まきながら、ある日突然やってきた
私は、若い頃悩み続けながら、人生を追い求めて続けて来た結果だろう

しかし多くの高齢者を観ていると、自分自身の生き方や人生観をきちんと
構築しようとか、結果的に構築出来ている人は少ないように思える
「私は人生観を持っています」と言う人でも、かなり程度が低い
「大きなお世話だ、今更そんなこと必要ない」と言い放つ高齢者も多い
頑固な人や考えを変えない人がいるが、そんな人の人生はすでに終わっている
歳を取るとは本来、本当の自分に出会うによい時期なのだが
ここぞと遊び惚けているようでは老人の価値、人間の値打ちは全く出ない

日本は平和で豊さが続いたせいか真剣に考えない癖が定着しつつある
戦後の最悪期から一挙に世界一まで上り詰め、発展に有頂天になっている
平和で便利で豊だから自分の生き方や人生観を深める必要がないが
むしろ、だからこそ、必死に考えることが必要なのであるが、結果は逆だ

私は55歳から山暮らしを始め、自然に交わり、不便さや山の災害に向き合い
何が起きても役所も誰も助けてくれない、自己責任の暮らしを体験した
水が出ない時は麓に水くみ背負ってあげて来たり、雨水をためて水浴もした
そして、そういうことが当たり前のような感じで山暮らしに慣れて行った
故郷の東京から離れ関西に来て、50年以上身内や身寄りなしで住んで来た
55歳で都会暮らしとは180°違う暮らしに約20年突入してしまったのである

偶然に始めた一人山暮らしのおかげで、私は人生観を深く考える機会を手にした
人は順調な時にそれに甘えてはならない、順調でない状況を忘れてはならない
横柄・横暴・油断・自信過剰・自分勝手になってはいけない
事故や病気や災害がない時に事故や病気や災害が起きた場合のことを考え、
健康な時に病気になった場合のことを考えなくてはならない
  多くの日本人が病気や巨大災害に備えをやっていない
  水没危険な地域でも基礎を高くしてはいない、海岸や崖下に平気で住む
  自動車や高額な物を水没する危険のある場所に平気で保管や設置する
  災害復旧はするが再発防止はほとんどやらない
巨大災害が我が身に降りかかって初めていい加減さに気付くようではいけない
昔貧しい時代には、台風が来る時は事前・事後に皆あれこれやったものだ
平和日本は、いい気になってはいけない、平和なんてものはある時突如崩壊する
家庭の平和や地域の平和や会社の平和も同様である
「平和や順調ほど怖いものはない」いよいよ大不幸が降りかかった時にそれが分かる

「戦争反対、世界に平和を」もいい「平和で何も悩み苦しみのないこと」もいいが
しかし、現実には大災害や病気周辺国からの脅威は100%やって来る
少子化問題や戦争や想定外の大災害や国膨大借金・・・を忘れてはならない
「戦争絶対反対です、戦争なんかとんでもない」と叫んでも、平和は保証されない
「軍備反対」と言ったところで
軍備を怠れば隣国はあの手この手で嫌がらせをし、攻めてくる
嘘でもいいから、偽監視カメラでも玄関につけておくべきなのである
災害がなければ病気をしなければ良いに決まっているが、そうはいかないのだ
この世は無常、いつも良い状況が続くとか、続くべきだと考えるのは無理がある

人は平和とか健康とか無事とか、片側に生きている、でも片側だけで生きられない
人は嫌でも、両側に生きなければ、偏った生き方や人生観を身に着けてしまう
健康で体力自慢の人は、やがてある日突然思わぬ大病をしがちなのだ
金持ちであっても、いつも金持ちであり続けることは出来ない
災害などあったことのない家でも永遠に大災害が襲わない保証はない

大事なことは自分の人生観を持つのはよいが
 1)あまりに理屈ぽくないこと
 2)実践に基づいていること(自分が出来もしないことではいけない)
 3)十分、何度も深く自分で考えられていること
 3)相手に無理矢理押し付けてはならない
 4)普遍的で合理的なこと、偏っていないこと
 5)仏教や禅からヒントを得て、整合がとれていること

話は私の山暮らしに戻って
山と田舎で暮らした私の場合は、都会人に比べて、
自然(山や田舎)にも不自然(都会)にも強い
しかし
都会の人は不自然に強いが、山や田舎暮らしなどの自然にからきし弱い
かつての都会人の私もかつてはからきし自然(山や田舎)についてはダメ男だった
都会人ほど山や田舎暮らしもやり、両方を体験すべきなのである

私からすると都会の人間と山や田舎で付き合うと「お馬鹿坊ちゃん」に見える
でも都会の片側人間は「そんなことはどうでもいい」と平然としている
私にすると「そうではない、偏っている、危うい」と思ってしまう
山に暮らし、田舎に暮らし、自然の暮らし、自立、不便さや大変さを経験した上で
田舎が楽しいと思えるようになるべきだと思う
「たった2~3日、田舎で過ごして楽しかった」はない

住む場所について私の考え
・自分の住む所は自分で選ぶ
・自分の住む家は自分で手直し、手入れする
・自分の住む所での住み方は自分で考える

私が住まない場所について私の考え
 ・直線が多い場所に住まない    ・土、草木のない所に住まない
 ・人が多すぎるところに住まない    ・狭い所に住まない   
 ・煩い所に住まない    ・自動車の脅威を感じる所には住まない
 ・電気、水、ガスの供給が高度に保証されない所には住まない
 ・水空気の汚れた所に住まない(川の下流は住まない)
 ・勝手気ままに出来ない所に住まない
 ・危険な施設や災害の危険のある所に住まない・・・・・
一般的に現実はどうかというと、以上の条件が満たされる場合は極めて少ない

最近の私は都会に行くのが大嫌いであり、嬉しくもない、早く田舎に戻りたい
買物なんかもネットで何でも買えるし、田舎で衝動買いすることもない
先日、久しぶりに東京に行った。新宿や都心では超高層ビルが林立し
ゴミはほとんどなく、狭い空間に巧みに設計された直線の多い都市特有の景観
何らかの理由でこんな過密でお金をかけた街づくりをしているのか?
都会生まれ・育ちで今は田舎暮らしの私には、押しつぶされそうに感じた
「こんな悲惨な場所によくも住んでいる」というのが私の素直な実感である
山や田舎の暮らしを知らないのだろうか?
それとも都会のストレスにある意味快感を感じてはまっているのだろうか?

①土と草木の家⇒②木造家屋⇒③ビル⇒④高層ビルと都市化が進む東京
東京は今や④の高層ビル乱立、 私の今住む田舎の家は②の木造家屋
大して金もかけず自然で広い空間をたっぷり使えている田舎のほうが
質素で素朴な家に住むように、人にとって優しいし、気楽な感じがする
都会の家はあまりにも土地が高いこと、そこに人が集中することが問題

こんな都会に暮らしていて本当にゆったり幸せな日々を過ごせているのだろうか?
その日の夜11時に東京から滋賀県高島の安曇川に戻ると、すごく重苦しいものが
ドサッと落ちたような気がしたのには我ながら驚いた「俺は東京には住めない」
幼少時、戦後の静かで人情味あふれる東京の下町を経験している私である
現代の東京と安曇川の家の落差はまさに落差の大きいバンジージャンプだ
東京はストレス充満、 琵琶湖岸の安曇川はノーストレスを今更乍ら実感する

恐ろしく高く積み上げた箱の中に住む東京、自分を何十階の何号室に押し込む
当然ほとんどが四角な箱、六本木ヒルズと言えども箱、高級でも積み上げた箱
到底、家とは呼べない代物である、どちらかと言うとカプセルの方が近い
その過密な空間にあまりに多くの人が飲み込まれている、更に広大な周辺県にも
人を番号で呼ぶことも出来る、鍵や監視はないが、外観は、まさに監獄そのものだ
獣の穴倉みたいなものだ、穴倉は閉ざされている、穴倉の中は見えない

都会人は面倒臭いことを嫌がる、面倒臭いのは私の一番の楽しみなのだが
高く密集して積み上げた重い建物は、大地震が起きると確実に倒壊する
きちんと確認はとれているのか?大災害も含めてストレスだらけ
矢鱈に人も多い、安曇川では一日に10個程度の目だが都会の目は無数だ
あまりに多くの目に晒されると動物は常に身構えていないといけない
「東京どころか京都にすら住めない」冷静に都会と田舎を比較分析することが必要だ

人は人間から乖離しないこと、自然からも乖離しないことだ

多分都会の人は、知らぬ間にとてつもないストレスを背負い続けている
放射能の被ばくや麻薬の常習のようなものだ、都会人は完全に麻痺している
ご自分は良いかもしれないが子供たちには迷惑千万なことだと思う
その上最近は虐めや虐待まで受ける、子供も命がけで都会に暮らしている
ストレスに打ち勝ち続けるのもいいが、人生賭けて頑張ることではない
こんな怪しげな都会の穴倉に住む人はまともな人生観を持てるはずがない
穴倉の四面は単なる無機質なコンクリートで、自然や呼吸するものは何もない
同じようだがヤドカリの家のほうがもっと自由で開放的で行動的だ

日本を追い続ける韓国の例では、韓国の若者のストレスは相当大きいらしい
過酷な財閥支配、混迷を続ける大統領や政治家、超学歴社会、凄まじい少子高齢化
その結果、ノイローゼ・麻薬・ゲーム漬け・自殺・引篭もり・登校拒否・犯罪・・・・
日本も韓国同様に都会人のストレスは相当のレベルに達していると推測する
なぜ現代人は信じがたいほどの怪しげな都会文化を作り続けるのだろうか?
多分、都会文化の構築そのものが脅迫観念で猛烈な力で追い込まれているのだろう
「力を抜いてリラックスして」でもそんなことも出来ない事態に追い込まれている

都会は金持ちの住むにふさわしい場所のように思われているがそうではない
都会とは金に飢えた貧乏人や乞食が住むにふさわしい場所なのだ
彼らは都会でしか暮らせないのだ、金持ちは田舎にも豪華な家を持っている
都会人は、節約してでも田舎の自然豊な場所にゆったりした家を持って欲しい
そうしないと一生、都会暮らしの疲れ切った貧乏人で終わってしまう
彼らは都会にしか住めない始終何かに脅迫されている奴隷に過ぎない
都会に飼いならされ、田舎に住む勇気はとっくの昔になくなっている
  (失礼を顧みず、ひどいこと言って御免なさい)
でもそこまで言わないと”盲目的な都会大好き”の考えを変えてくれそうもない

京都をはじめ都会は、一部の金持ちと貧乏な人の町、多くは狭く貧相な家に暮らす
都会でマンション住まいは、正確に言えばアパート(安物集合住宅)に住んでいる
安物集合住宅とは言え、今やものすごく高い、それでも都会に住もうと必死だ
安曇川田中の私の中古家など350万円だった(庭、駐車場つき、50坪平屋、周囲空き地)
京都まで45分だから賢い人は、安曇川から通う人もかなりいる
都会では田舎と違い、何でも恰好良く言うのが常(マンションでも豪邸ではない)
彼らは一生かけて借金を返すが、その金は金持ちの懐に入るのだ
彼らは非常に失礼ですが、狭い小屋に飼われる鶏(ブロイラー)に過ぎない

京都は古都で、昔から都会に田舎を持ち込む雅な街を形作ってきた
しかし今や京都もビルが増え、京町家も減り、外人が町に溢れている
観光地京都は騒々しい都会に成り下がろうとしている
最近は中国人などの外人が町の中心地を買いあさり住み始めている

  東京は過密と高層ビル過剰な箱物で
  京都は外人観光や外人流入で
  更に巨大災害(豪雨や暴風や地震)で
そういうことが皮肉にもストレス肥大化都会になっている
都会のリスクは多種多様しかも大きい

そうすると今私の住む安曇川あたりが、
むしろ穏やかで住み易い場所になりつつあるのだ
関東も東京より周辺の県が住み易くなって人口が増えている

 都会は繁栄を謳歌している
 田舎は人が減り子供が少なく、老人が多く衰退している
しかし、その見かけとは真逆に大都会ほど脆い、極めてリスキーなのだ
ここ安曇川には箱物はほとんどない、都会に比べて費用負担リスクが極めて少ない
都会にはムリ・ムダ・ムラが多すぎるのだ、早く都会脱出を勧める
無論そんな簡単なことではないが、そこは自分の人生観次第なのだ

 栄える者久しから、 美人もいつまでも美人ではない

都会暮らしなどと見栄張ったり、満足しているとお粗末な人生で終わってしまう
原水爆禁止がプラスチックがどうのこうのと言っているが
私にすれば都会化・都会暮らし禁止が大事だと認識している

最近では田舎の若者は田舎に住んでいるにも拘わらず都会化している
自然が本場の田舎が都会化(不自然化)しているのだ
その原因がテレビ・インターネット・雑誌・中途半端な知識人などだ
都会と自然豊な田舎は明確に分けておくべきなのだが
政治家や国民の認識は「金儲けにならないものはぶっ壊す」なのだ
金儲けにならないものは、田舎の自然はほったらかし、税金は投入せず
ほとんど使いもしない歴史的文化財や国宝は多額な税金をかける

もっと人間そのものにかかわることにお金をかけるべきなのだ
文化財などという物にいくら税金をかけても国民は何も幸せにはならない
金メダルを取ることが目的のスポーツ競技振興とか外国人観光誘致とか東京集中とか
全て無意味で無駄なことにしか思えない
 例えば
年寄より若者に、物より人に、建設より防災や修繕に、金も努力も注ぐべし


私にすれば例えば歴史的文化財は、欲しい民間人に売るべきだと思う
登録性にしておけば、ある意味、歴史的文化財の民営化である
そうすればそういう文化財は倉庫に眠るのではなく生返ることだろう
文化財などは、素晴らしいことは認めるが現実に役立たなくては価値ゼロ
もし価値があるのなら価値があると認識されているうちに高値で売ることだ
見かけの美人よりしっかりした女性のほうが数倍価値があるのである

都会に田舎を持ち込むのも、田舎に都会を持ち込むのも浅はかだ
田舎は田舎のままがよい、田舎を変えるな、開発なんかするな
限界集落でよい、もともとそんなような場所なのだから
都会はもっと独自にストレスの少ない都会であって欲しい

そして田舎や山の自然は、むしろ、そのままを維持して欲しい
少なくとも大失敗の都会の真似を田舎に簡単に押し付けないで欲しい
山や湖や田舎の開発なんかしないで欲しい、道路と水さえあれば
むしろ、どちらかというと、田舎は田舎のままほったらかしにして欲しい
どんどん田舎の人口が減るかもしれない、私にしたら「それで結構」だ

人類滅亡の危機とは=根本から外れた事を誠しやかにやり続けることだ
何が根本的に重要で何が根本的に無用かをきちんと検証することだ
国家や世界は簡単に考えを変えられないだろうから私は自分は自分で
変えることに決めた、自分自身のしっかりした主張を守るのは孤独との闘いでもある

昔風に「女子供」というのは”自分のきちんとした考えを持てない人”ということ
昔は男尊女卑だったが、昔は、それなりに男がしっかりしていたのだが
江戸時代以降、めきり男が頼りないものに成り下がっていったのだ
男女同権ではなく、男が女のレベルに落下し続けて来ただけのことなのだ
確かに僅か女のレベルが上がったことも認められるがそれで同列になったのだ
今や成人した男でさえきちんとした考えを持てずに女子供化しているのだ
今や先生も政治家も経営者も亭主も頼りない責任感のない馬鹿者ばかり
中国も韓国も北朝鮮もロシアも粗暴な指導者が国民を押さえつけている

少し曲がったた釘は治せるが大きく曲がった釘は熱い火につっこむしかない
曲がった釘は直そうとすれば治るが、直そうとしなければ絶対に治らない
当たり前だが、そんな根性の曲った、治らん釘のような人間が増えて来た


自分自身の生き方や人生観をきちんと構築するには、
 ①自分で考える時の基本や拠り所は、仏教や禅宗の教えとする
 ②まず一度、家族や友人等過去の自分を綺麗に捨てる、完璧に洗い直す
 ③出来れば山奥とか寂しい田舎など過去と違う環境に何年か暮らす
※一人で篭るべきである、夫婦や家族や友人などと篭ったら意味なし
 ④足らないところは本やネットや講演会で勉強する
  ※基本、原点について書いた本が望ましいと思う?
 ⑤本は、そのままを鵜吞みにしないで自分で考え、やってみる
 ⑥自分自身の経験知識に基づいてじっくり考える
 ⑦頭で考えるのではなく、身体で実践・経験を通じて考える
 ⑧出来ればそれを文章にして残す(私はブログに投稿)
 ⑨自分で考えたことは、そのとおり、何度もきちんと真面目に実践する
 ⑩とにかく尻込みせずに何でも果敢にやってみる
 ⑪相手が有能無能を問わず人とじっくり話す
 ⑫相手との言い合いを減らし、話題について深く話し合いヒントを得る
 ⑬完璧な人間にはなり得ず、死ぬまで自分で考え・実践を継続する
 ⑭自分が納得しない借り物や過去の惰性の生き方を続けても人生の無駄
 ⑮やさしく・明るく・真面目にの反面どんな困難にも平然としていることが大事
  ※「言うは易く、行うは難し」で、一生かかっても難しいのだが

現状肯定
それは本当に貴方が自分で考え、何度も実践体験して深く納得したものなのか?
多分、そんなことはなく、単なる惰性なのだろう

一度汚れた衣服を全て脱ぎ捨て、風呂に入り、洗い、新しい服を着る
みたいに貴方の精神・心について脱皮をやってみるべきなのだ

 人生は苦しむためにあるのではない
 人生は勝つためにあるのではない
 人生はストレスに耐え、打ち勝つためにあるのではない
 人生は組織や地域に属しそこに順応するためにあるのではない
 人生は異性を好き、好かれるためにあるのではない
 人生は金儲けする、裕福になるためにあるのではない
 人生は出世するためにあるのではない
 人生は権力をふるうためにあるのではない
 人生は快楽にふけるためにあるのではない
人生は深く楽しむためにある


実は意外と簡単で、誰でも出来ることなのだが、
現実は、人は偉そうなことを言うわりにこんな当り前のことをやろうとしない
 ・今やおかしなことに日本人より日本を分かる外国人がいる
 ・男より女のほうが素晴らしい仕事が出来る人がいる
 ・大人より数倍能力が高い子供や若者がいる
自分は、外人より女より子供より優秀だなんて単純に思っていませんか?
所詮、世界中がよくなることは不可能だから、自分だけでも一人で黙々とやるしかない

我が家の台所のシンクの物をへらすために手作りの台をつくり水切り皿を移す

安曇川駅周辺の道路の銀杏を拾った、拾う人は私しかいません

夏には毎日庭先で缶ビールで飲み会したがそろそろ冬入り口に風よけをした
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