9月19日 経済フロントライン
通貨政策の歴史は30年前にさかのぼる。
ニューヨークの老舗ホテルを舞台にしたプラザ合意。
当時急速に進んだドル高を是正するため
G5(先進5か国)アメリカ イギリス 西ドイツ フランス 日本が強調介入することを決めたのである。
しかし想定を超えて進んだ円高。
輸出に支えられてきた日本企業は翻弄された。
多くの町工場が軒を連ねる東京大田区。
1983年には9177の工場があったが
プラザ合意後の30年で3分の1近くの3181に減った。
鈴木規方さんは父の代から70年にわたって町工場を経営して来た。
長年 円高と戦ってきたが5年前に廃業。
工場は引っ越し会社に変わっていた。
「このあたり全部が工場地帯だったけど
残念ながら今工場をやっているところは一軒もない。」
1985年9月22日 G5が電撃的に発表したプラザ合意。
ドル高を是正するため各国が協調してドルを売る市場介入を行うことを決めた。
これをきっかけに円高が急速に進む。
1ドル80円を突破した1995年。
鈴木さんの工場では主に製作機械用の部品を製造していた。
海外への輸出が2割を占めていたが
円高のなかで価格競争力を失いドイツなどのメーカーにシェアを奪われてしまう。
さらに取引先から値引きを迫られ社員数を3分の2にするリストラを行った。
再び1ドル80円に迫った2010年
限界に達し廃業を決めた。
「さびしいよね。
急激な円高や円安は企業を翻弄するだけでついていけない。
努力を超えちゃうと思う。」
日本経済に大きな影響を与えたプラザ合意はなぜ決断されたのか。
駐米公使としてアメリカ政府との交渉にあたった内海孚(まこと)さん。
当時 日米の間に貿易摩擦が問題となっていた。
円安を背景に日本からアメリカへの輸出が急増し貿易赤字が拡大。
批判が高まっていた。
アメリカ側と水面下で交渉を重ねていた内海さんが当時日本に送った報告書には
アメリカ側が日本への不満を募らせていたことが記されている。
(アメリカ側の発言)
日米貿易問題は爆発状態にある。
このままでは本当に
「よし、日本に対し保護主義的政策をとろう」
ということになるかもしれない。
(元駐米公使 内海孚さん)
「日米貿易問題はもう来るところまで来ていて
そんな遠からずに対日貿易立法が成立することになりかねない。
日米貿易不均衡を解決する努力を加速してもらいたいと言われた。」
アメリカの中央銀行にあたるFRBの議長だったボルカーさんは
日本に対する警戒感は高まる一方だったと言う。
(当時の米FRB議長 ポール・ボルカーさん)
「当時 日本の産業はその競争力と効率性によって称賛されていたが
競争力がありすぎるのではないかという懸念も生まれていた。
大げさかもしれないがアメリカの産業は日本の産業に圧倒されてしまうのではないかと。」
日本側も実力と比べ円は安すぎるという認識があったと内海さん言う。
(元駐米公使 内海孚さん)
「日本自身も
1ドル240円 250円という水準が決して日本のためにはならないと言う認識は持っていました。
日本の輸出企業は何の努力もしなくてもどんどん輸出が増えていくと
経済全体としてひずみがすいぶん膨らんでいた。」
こうした日米双方の懸念の背景に異例の協調策が実現したのである。
急速な円高で廃業する企業がある一方
海外に活路を見出す企業もあった。
自動車メーカーなどに工作機械の部品を納めている町工場。
産業機械メーカー 南武 野村和史会長は1990年代の円高で国内のコストダウンも限界に達したと判断。
少しでも安い労働力を求めて2002年にタイへの進出を決めた。
中小企業にとっては社運を賭けた決断だった。
(産業機械メーカー 南武 野村和史会長)
「日本のコストは高い。
もちろん賃金も高いしね。
それに比べればタイは日本のあの当時は25%ぐらいだったんじゃないか。」
その後 中国に進出。
生産拠点を分散させたことで経営が為替に左右されにくくなったと言う。
(産業機械メーカー 南武 野村和史会長)
「あのままで我慢していたら現在やっていけないというか
非常に難しい立場だったと思うね。
大変だったけど乗り越えて良かった。」