評価点:79点/2001年/アメリカ
監督:デビッド・リンチ(「ツイン・ピークス」ほか)
すべては、茶番である。
峠道で、車の中の女が運転手にいきなり銃を突きつけられた。
そこへ車が衝突、女だけが無事に生き残り、街の方へ下りた。
丁度そのころ、ベティ(ナオミ・ワッツ)が、LAに女優を夢見て到着する。
ベティは、叔母の家を使わせてもらうことになっており、さっそくその場所に向かうと、叔母の家で見知らぬ女がシャワーをつかっていた。
ベティは叔母さんの知り合いだと思っていたが、違うことがわかり問いただすと、先の事故によって女は記憶喪失になっていることを打ち明けた。
「ツインピークス」のデビッド・リンチ監督作である。
「ツインピークス」といえば、知人に借りたビデオをみて、まったく理解できずに投げ出してしまった経験がある。
テレビ・シリーズを見ないで、いきなり映画で理解しようとしたためだと思うが、この映画を観終わったあとの率直な感想と、「ツインピークス」の感想とはそう違わなかった。
▼以下はネタバレあり▼
上に書いたストーリーはほとんど役に立たない。
いや、ストーリーを書くこと自体を否定している映画、とも言える。
非常に複雑な構成になっていて、何を基準にして、どこを現実、あるいは虚構とするのか、難しい。
以下は、僕の二日かけた理解である。
一つの説として読んでいただきたい。
話がわかりにくくなっているため、僕の考えをちゃんと説明できるか若干不安ではあるけれども。
この物語を解く鍵は、「重層構造」であると思う。
二つの重層的な構造が、物語を分かりにくくしている。
まずは、ベティの世界と、ダイアンの世界という重なりをみてみよう。
「ベティの世界」とは、おおよそ前半部にあるナオミ・ワッツが、ベティとなっている世界である。
「ダイアンの世界」とは、おおよそ後半部にあたるナオミ・ワッツが、ダイアンとして描かれている世界である。
とても単純に、大胆に言ってしまえば、
「ベティの世界」=妄想、虚構、願望の世界
「ダイアンの世界」=現実の世界
ということになる。
しかし、それではあまりに大雑把すぎると思う。
特に「ベティの世界」を単に妄想や、虚構の世界として位置づけるのは、大きな誤解を生む事になりかねない。
ここでは、現実か虚構か、ナオミ・ワッツの妄想かどうか、という問題は、少し置いておくことにしたい。
作品世界の理解のために、いちおう仮説しておく程度にとどめたいのである。
「ベティの世界」で注目されるべきことは大きく二つある。
一つは、「ダイアンの世界」でのナオミ・ワッツとの比較でいえば、すべてベティに都合のよい事件が起こっていくということである。
このことを考慮すると、「ベティの世界」は、「ダイアンの世界」のダイアンの“たられば”の世界であると考えられるわけである。
もう一つの特徴は、主体と対象とが入り乱れているということである。
この事実によって、「ダイアンの世界」と「ベティの世界」との関係性は、現実と虚構という対立の色が濃くなるのである。
よって、「ベティの世界」を検証する前に、「ダイアンの世界」を検証する必要がある。
なぜなら、ベティの虚構性を見抜くにしても、主体と対象の混同にしても、現実と仮定する「ダイアンの世界」を考えなければ、説明しがたいからである。
「ダイアンの世界」を時間を整理してみよう。
ダイアンはLAの汚い安アパートに住む女の人で、女優を目指している。
彼女には、「彼女」がいる。
それがカミーラ(ローラ・エレナ・ハリング)である。
彼女たちは非常に愛し合っていたがある日、カミーラが主演女優に抜擢される。
カミーラがスターになることよって、二人の関係は悪化していき、カミーラは別れを切り出す。
ショックで寝込んでしまったダイアンは、カミーラに呼ばれて車で連れ出される。
連れ出された先が、監督の自宅であり、そこでカミーラと監督の婚約を聞かされてしまう。
大きな失望のなか、ダイアンはカミーラへ復讐するため、殺し屋を雇い、殺そうと画策するのである。
おおよその「ダイアンの世界」は以上のようなものである。
ここでは、ダイアンは二つのものを失う。
女優への夢と、カミーラの愛。
その喪失が映画を読み解く、非常に重要なてがかりとなる。
では、その「ダイアンの世界」と対立すると仮定した「ベティ」の話に戻そう。
「ベティの世界」では、「ダイアンの世界」におけるダイアンの願望をかなえる形で、展開されているということは既に指摘したところである。
その具体例をみてみよう。
まず彼女は女優になる夢をかなえてしまう。
ベティは叔母の家とはいえ、大きな美しい家に住む。
その叔母の紹介により、チャンスを得て迫真の演技をみせる。
そして、女優への道のりに希望を見出すのである。
またベティはリタ(「ダイアンの世界」での恋人カミーラ)との恋に落ちる。
ここで重要なのは、リタが記憶を失っている点である。
いわば、リタは過去を失った女なのである。
リタは、ベティにとって過去を持っていてはいけない。
なぜなら、ダイアンの(「ダイアンの世界」の)失恋を思い出させてしまうからである。
また、記憶喪失であるため、守らなければならない対象となる。
ベティはリタを完全に掌握した形で恋を成就するのである。
それだけでは、ダイアンの欲求は満たされない。
「ダイアンの世界」で高慢ちきな監督への復讐も、果たされることになる。
映画の監督を下される、
妻が浮気をしている、その男に殴られる、
キャスティングを無理やり決定させられるという様々な被害にあう。
そしてカウボーイにこう告げられる。
「態度を改めろ」と。
これは、ダイアン(「ダイアンの世界」の)の声そのものである。
こうして考えると、「ダイアンの世界」のダイアンの願望であることが、はっきりとわかる。
そして、それは主体と対象の混同を考える事でより鮮明となる。
ダイアン(「ダイアンの世界」の)の体験が、「ベティの世界」ではベティにもリタにもあらわれる。
リタが交通事故に遭うのは、ダイアンの体験である。
しかし、おおよそベティの視点で「ベティの世界」は展開される。
つまり、ベティとリタとの境界がなくなっているのである。
それは、ベティ以外の細部に至るまで「ベティの世界」が、描かれることにも関係している。
監督への復讐は、ベティに直接関係がない。
それでも「ベティの世界」で描かれる。
これは、何よりもダイアンの願望であることを如実に表わしているである。
ベティは、ベティ以上の体験を行っている。
あたかも夢をみているかのようにである。
こうした経験は、夢を見ているとき、誰もが一度は経験した事のあることなのではないだろうか。
これは、主体と対象が混在した状態で、成立していることを意味する。
あるときは一人称的に体験する側であり、あるときはそれを第三者的に見る側になる。
それは、「ベティの世界」の終盤(映画の中盤)、ベティが居なくなることによって決定付けられる。
この主客の混合は、ベティ以上の大きな主体、ダイアンという大きな想像主の存在を感じさせる。
よって、この二つの世界の関係は、
「ベティの世界」=妄想、虚構、願望の世界
「ダイアンの世界」=現実の世界
という図式が成り立つと言えるのである。
リタに気をつけろと占い師が言うのも、リタとかかわればかかわるほど、妄想が壊れてしまう可能性があるからだ。
また、「ダイアンの世界」でダイアンが泣きながら自慰行為にふける。
これはこの「ベティの世界」を暗示しているかのようである。
究極の自慰行為、それが“たられば”の世界を創造することなのだ。
しかし、もう一つの重層構造が、その対立さえ壊してしまう。
「ベティの世界」を妄想として安易に位置づけるわけにはいかないのは、その重層構造があるためである。
この映画には、単に「ベティの世界」と「ダイアンの世界」の二つの世界だけを
描いたものではない。
その二つの世界から逸脱した超越的な場面がある。
それが「楽団はいない」という映画中盤と終盤に登場することばである。
奇妙な場面といえば、ウィンキーというレストランの裏で、男が卒倒するという場面もある。
ウィンキーというレストランの裏に登場する悪魔(のようなもの)は、「ベティ」「ダイアン」の世界双方を関係性を暗示しているものと考えられる。
しかし、「楽団はいない」という劇場でのシーンは、この映画の中でも最も異質で最も重要なシーンとなっている。
僕は、ここにこの映画の強いメッセージ性を感じるのである。
結論から言ってしまえば、「これは映画にすぎない」という超越的なメッセージではないか、ということである。
ベティ、ダイアンの世界とを比較する事で、ある程度の説明をつけることは可能である。
それは、僕の説明ではない方法でも、可能なのかもしれない。
しかし、そこに「楽団はいない」のである。
要するに、どちらが妄想であろうと、どの部分が現実であろうと、現実ではない。
現実と夢(妄想、願望)との区切りをつけているのは、単なる錯覚でしかないのである。
「楽団はいない」。
ただ、見るものが「歌っている」と錯覚するだけ。
それが映画というものなのだ、という相対的に見つめる視点をそこに導入する。
その視点が、アンチ・テアトルのような大きな異化効果を生み出すのである。
モティーフがハリウッドの愛憎劇であるところも、その視点と関係する。
一本の映画にまつわる過剰なやりとり。
しかし、それも監督がコントロールしたなかで成立するものである。
それを暗示するために、メタ・フィクションとなるハリウッドという世界をみせたのではないか。
だから、
「ベティの世界」=妄想、虚構、願望の世界
「ダイアンの世界」=現実の世界
という単純な対立軸だけでこの映画を語ることはできない。
むしろ、パラレル・ワールド、裏返しの世界という関係としてみる方が、的を射ているようにも思える。
「ベティの世界」から「ダイアンの世界」という大きな展開は、この超越的な視点を見せるための戦略だったとも思える。
監督は、「抽象的な映画であるため、ひとりひとりの直感をはたらかせてみてほしい」というようなインタヴューを出している(DVD版「マルホランド・ドライブ」映像特典)。
しかし、実際のところ、非常に計算されたところで成立している、「具体的な」映画なのではないだろうか。
分かる人にだけわかる構成や展開にしたのは、その映画に対する「本当」を求める異常さに気づいてくれる人だけに、見せたメッセージなのかもしれない。
分かりにくいし、観客に難問を提出するような意地悪な映画である。
しかし、二度三度と見たくなるような妙な魅力をもった映画であることは、確かだろう。
そして、僕はさらにこの文章を相対化して思うのである。
「これで解釈しきれた」と錯覚するだけ、と。
(2004/8/20執筆)
監督:デビッド・リンチ(「ツイン・ピークス」ほか)
すべては、茶番である。
峠道で、車の中の女が運転手にいきなり銃を突きつけられた。
そこへ車が衝突、女だけが無事に生き残り、街の方へ下りた。
丁度そのころ、ベティ(ナオミ・ワッツ)が、LAに女優を夢見て到着する。
ベティは、叔母の家を使わせてもらうことになっており、さっそくその場所に向かうと、叔母の家で見知らぬ女がシャワーをつかっていた。
ベティは叔母さんの知り合いだと思っていたが、違うことがわかり問いただすと、先の事故によって女は記憶喪失になっていることを打ち明けた。
「ツインピークス」のデビッド・リンチ監督作である。
「ツインピークス」といえば、知人に借りたビデオをみて、まったく理解できずに投げ出してしまった経験がある。
テレビ・シリーズを見ないで、いきなり映画で理解しようとしたためだと思うが、この映画を観終わったあとの率直な感想と、「ツインピークス」の感想とはそう違わなかった。
▼以下はネタバレあり▼
上に書いたストーリーはほとんど役に立たない。
いや、ストーリーを書くこと自体を否定している映画、とも言える。
非常に複雑な構成になっていて、何を基準にして、どこを現実、あるいは虚構とするのか、難しい。
以下は、僕の二日かけた理解である。
一つの説として読んでいただきたい。
話がわかりにくくなっているため、僕の考えをちゃんと説明できるか若干不安ではあるけれども。
この物語を解く鍵は、「重層構造」であると思う。
二つの重層的な構造が、物語を分かりにくくしている。
まずは、ベティの世界と、ダイアンの世界という重なりをみてみよう。
「ベティの世界」とは、おおよそ前半部にあるナオミ・ワッツが、ベティとなっている世界である。
「ダイアンの世界」とは、おおよそ後半部にあたるナオミ・ワッツが、ダイアンとして描かれている世界である。
とても単純に、大胆に言ってしまえば、
「ベティの世界」=妄想、虚構、願望の世界
「ダイアンの世界」=現実の世界
ということになる。
しかし、それではあまりに大雑把すぎると思う。
特に「ベティの世界」を単に妄想や、虚構の世界として位置づけるのは、大きな誤解を生む事になりかねない。
ここでは、現実か虚構か、ナオミ・ワッツの妄想かどうか、という問題は、少し置いておくことにしたい。
作品世界の理解のために、いちおう仮説しておく程度にとどめたいのである。
「ベティの世界」で注目されるべきことは大きく二つある。
一つは、「ダイアンの世界」でのナオミ・ワッツとの比較でいえば、すべてベティに都合のよい事件が起こっていくということである。
このことを考慮すると、「ベティの世界」は、「ダイアンの世界」のダイアンの“たられば”の世界であると考えられるわけである。
もう一つの特徴は、主体と対象とが入り乱れているということである。
この事実によって、「ダイアンの世界」と「ベティの世界」との関係性は、現実と虚構という対立の色が濃くなるのである。
よって、「ベティの世界」を検証する前に、「ダイアンの世界」を検証する必要がある。
なぜなら、ベティの虚構性を見抜くにしても、主体と対象の混同にしても、現実と仮定する「ダイアンの世界」を考えなければ、説明しがたいからである。
「ダイアンの世界」を時間を整理してみよう。
ダイアンはLAの汚い安アパートに住む女の人で、女優を目指している。
彼女には、「彼女」がいる。
それがカミーラ(ローラ・エレナ・ハリング)である。
彼女たちは非常に愛し合っていたがある日、カミーラが主演女優に抜擢される。
カミーラがスターになることよって、二人の関係は悪化していき、カミーラは別れを切り出す。
ショックで寝込んでしまったダイアンは、カミーラに呼ばれて車で連れ出される。
連れ出された先が、監督の自宅であり、そこでカミーラと監督の婚約を聞かされてしまう。
大きな失望のなか、ダイアンはカミーラへ復讐するため、殺し屋を雇い、殺そうと画策するのである。
おおよその「ダイアンの世界」は以上のようなものである。
ここでは、ダイアンは二つのものを失う。
女優への夢と、カミーラの愛。
その喪失が映画を読み解く、非常に重要なてがかりとなる。
では、その「ダイアンの世界」と対立すると仮定した「ベティ」の話に戻そう。
「ベティの世界」では、「ダイアンの世界」におけるダイアンの願望をかなえる形で、展開されているということは既に指摘したところである。
その具体例をみてみよう。
まず彼女は女優になる夢をかなえてしまう。
ベティは叔母の家とはいえ、大きな美しい家に住む。
その叔母の紹介により、チャンスを得て迫真の演技をみせる。
そして、女優への道のりに希望を見出すのである。
またベティはリタ(「ダイアンの世界」での恋人カミーラ)との恋に落ちる。
ここで重要なのは、リタが記憶を失っている点である。
いわば、リタは過去を失った女なのである。
リタは、ベティにとって過去を持っていてはいけない。
なぜなら、ダイアンの(「ダイアンの世界」の)失恋を思い出させてしまうからである。
また、記憶喪失であるため、守らなければならない対象となる。
ベティはリタを完全に掌握した形で恋を成就するのである。
それだけでは、ダイアンの欲求は満たされない。
「ダイアンの世界」で高慢ちきな監督への復讐も、果たされることになる。
映画の監督を下される、
妻が浮気をしている、その男に殴られる、
キャスティングを無理やり決定させられるという様々な被害にあう。
そしてカウボーイにこう告げられる。
「態度を改めろ」と。
これは、ダイアン(「ダイアンの世界」の)の声そのものである。
こうして考えると、「ダイアンの世界」のダイアンの願望であることが、はっきりとわかる。
そして、それは主体と対象の混同を考える事でより鮮明となる。
ダイアン(「ダイアンの世界」の)の体験が、「ベティの世界」ではベティにもリタにもあらわれる。
リタが交通事故に遭うのは、ダイアンの体験である。
しかし、おおよそベティの視点で「ベティの世界」は展開される。
つまり、ベティとリタとの境界がなくなっているのである。
それは、ベティ以外の細部に至るまで「ベティの世界」が、描かれることにも関係している。
監督への復讐は、ベティに直接関係がない。
それでも「ベティの世界」で描かれる。
これは、何よりもダイアンの願望であることを如実に表わしているである。
ベティは、ベティ以上の体験を行っている。
あたかも夢をみているかのようにである。
こうした経験は、夢を見ているとき、誰もが一度は経験した事のあることなのではないだろうか。
これは、主体と対象が混在した状態で、成立していることを意味する。
あるときは一人称的に体験する側であり、あるときはそれを第三者的に見る側になる。
それは、「ベティの世界」の終盤(映画の中盤)、ベティが居なくなることによって決定付けられる。
この主客の混合は、ベティ以上の大きな主体、ダイアンという大きな想像主の存在を感じさせる。
よって、この二つの世界の関係は、
「ベティの世界」=妄想、虚構、願望の世界
「ダイアンの世界」=現実の世界
という図式が成り立つと言えるのである。
リタに気をつけろと占い師が言うのも、リタとかかわればかかわるほど、妄想が壊れてしまう可能性があるからだ。
また、「ダイアンの世界」でダイアンが泣きながら自慰行為にふける。
これはこの「ベティの世界」を暗示しているかのようである。
究極の自慰行為、それが“たられば”の世界を創造することなのだ。
しかし、もう一つの重層構造が、その対立さえ壊してしまう。
「ベティの世界」を妄想として安易に位置づけるわけにはいかないのは、その重層構造があるためである。
この映画には、単に「ベティの世界」と「ダイアンの世界」の二つの世界だけを
描いたものではない。
その二つの世界から逸脱した超越的な場面がある。
それが「楽団はいない」という映画中盤と終盤に登場することばである。
奇妙な場面といえば、ウィンキーというレストランの裏で、男が卒倒するという場面もある。
ウィンキーというレストランの裏に登場する悪魔(のようなもの)は、「ベティ」「ダイアン」の世界双方を関係性を暗示しているものと考えられる。
しかし、「楽団はいない」という劇場でのシーンは、この映画の中でも最も異質で最も重要なシーンとなっている。
僕は、ここにこの映画の強いメッセージ性を感じるのである。
結論から言ってしまえば、「これは映画にすぎない」という超越的なメッセージではないか、ということである。
ベティ、ダイアンの世界とを比較する事で、ある程度の説明をつけることは可能である。
それは、僕の説明ではない方法でも、可能なのかもしれない。
しかし、そこに「楽団はいない」のである。
要するに、どちらが妄想であろうと、どの部分が現実であろうと、現実ではない。
現実と夢(妄想、願望)との区切りをつけているのは、単なる錯覚でしかないのである。
「楽団はいない」。
ただ、見るものが「歌っている」と錯覚するだけ。
それが映画というものなのだ、という相対的に見つめる視点をそこに導入する。
その視点が、アンチ・テアトルのような大きな異化効果を生み出すのである。
モティーフがハリウッドの愛憎劇であるところも、その視点と関係する。
一本の映画にまつわる過剰なやりとり。
しかし、それも監督がコントロールしたなかで成立するものである。
それを暗示するために、メタ・フィクションとなるハリウッドという世界をみせたのではないか。
だから、
「ベティの世界」=妄想、虚構、願望の世界
「ダイアンの世界」=現実の世界
という単純な対立軸だけでこの映画を語ることはできない。
むしろ、パラレル・ワールド、裏返しの世界という関係としてみる方が、的を射ているようにも思える。
「ベティの世界」から「ダイアンの世界」という大きな展開は、この超越的な視点を見せるための戦略だったとも思える。
監督は、「抽象的な映画であるため、ひとりひとりの直感をはたらかせてみてほしい」というようなインタヴューを出している(DVD版「マルホランド・ドライブ」映像特典)。
しかし、実際のところ、非常に計算されたところで成立している、「具体的な」映画なのではないだろうか。
分かる人にだけわかる構成や展開にしたのは、その映画に対する「本当」を求める異常さに気づいてくれる人だけに、見せたメッセージなのかもしれない。
分かりにくいし、観客に難問を提出するような意地悪な映画である。
しかし、二度三度と見たくなるような妙な魅力をもった映画であることは、確かだろう。
そして、僕はさらにこの文章を相対化して思うのである。
「これで解釈しきれた」と錯覚するだけ、と。
(2004/8/20執筆)
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