評価点:47点/2008年/アメリカ
監督:フランク・ダラボン
原作:スティーブン・キング
映画史上に残る衝撃のラスト、それは〈物語〉的禁忌。
デヴィッド・ドレイトン(トーマス・ジェーン)は、映画のポスターを手がける画家だった。
田舎に住む彼の自宅を襲った嵐によって、植えられた樹木が、彼のアトリエの部屋を突き破り絵まで引き裂いた。
修理をしなければ、と車でショッピングセンターまで息子と隣人とを乗せて向かう。
湖の向こうには霧が出ていた。
レジで会計を済ませようと並んでいると、そこに一人の男が血を流しながらやってきた。
霧になにがいて、一緒にいた人をさらっていった!と伝える。
怖くなった人々は、とりあえずそのスーパーマーケットにいることにする。
自家発電機の様子を見に行った店員と、デヴィッドは、自家発電機がおかしいので、外に出て直そうと提案する。
止めるデヴィッドだったが、言うことを聞かず、裏の倉庫のシャッターを開けると、いきなり……。
僕は全く知らなかったが、衝撃のラスト15分、という触れ込みで公開された話題作だ。
ビデオ化されたとき、周りの人も、「これ、おもしろいですよ」と言っていた。
レンタルが7日間できるようになったので、年始を利用して観ることにした。
僕はこの映画の「衝撃のラスト」を事前に知らなかったので、ある意味では楽しめた方だと思う。
まだ観ていない人は、ホラー映画が好きな人にはお勧めかもしれない。
ただし、言われているような、衝撃のラスト、はあまり期待しない方がいい。
それよりも、もっと純粋に観れば、楽しめるかも、しれない。
▼以下はネタバレあり▼
原作はかの有名なスティーブン・キング。
「ショーシャンク」や「スタンド・バイ・ミー」などで有名なキングだが、ホラーも沢山書いている。
有名なのはキューブリック監督の「シャイニング」かな。
もっとも、キューブリックの作品は原作と異なる! とキングはかなり怒ったらしいけれども。
そのキングが、この作品については、ラストを改編することに賛成したらしい。
むしろ、映画版のほうが良いと絶賛したくらいとの話だ。
絶賛について本当かどうかはまあ、置いておくとして、改編されたという点についてはきっと本当だろう。
あまり長い文章にしたくもないので、落ちをここで書いておく。
スーパーから逃げ出したデヴィッドたちは、ガソリンがつき、霧の中で立ち往生してしまう。
持ってきた拳銃には四発弾が残っていた。
逃げ出したのは息子をあわせて五人。
わけのわからない生物に殺されるくらいなら、自殺した方がいいと思っている五人は、デヴィッドに命運を託し、死を選択する。
弾を込めた彼は、自分以外の四人を撃ち殺し、絶望のまま、車外に出る。
「俺を殺せ!」と。
だが、やがて霧は晴れていき、軍隊がぞくぞくと行進する姿が現れる。
つまり、彼は救われたのだ。
連れて行かれる中にはスーパーから最初に逃げだそうとした女性とその子供二人がいた。
彼女は誰からも協力を得ることがなく一人スーパーの外に出たのだった。
今や彼にのしかかるのは助かったはずの息子たちの命を自らの手で奪ってしまった呵責だけだ。
映画史に残る衝撃のラスト、といえばそうなのかもしれない。
おそらくスーパーを出る直前くらいまでは、だれもこのラストを想像だにしなかったに違いない。
(スーパーから脱出するくらいになると、「終わらせ方」が他にないので、読めた人も多かったとは思う。)
なぜか。
それはハリウッド的なハッピーエンドに物語的な典型をかたちづくられていたからか。
ハッピーエンドでないとありえない、こういう話にバッドエンディングはない、とたかをくくっていたからだろうか。
僕は違うと思う。
少なくとも、この映画だけで言えば、これはハッピーエンドでもバッドエンドでもない。
既存の物語的なパターンを壊すという衝撃を持つ作品でもない。
ただ、これは〈物語〉でさえなかったのだ。
〈物語〉ははじめとおわりがある、閉じられた〈世界〉だ。
『ネバーエンディング・ストーリー(果てしない物語)』は実は対義結合であって、矛盾したことばを重ねている。
要するに「冷たい戦争」や「筋書きのないドラマ」といったような言葉と同じだ。
「終わりのない物語」は、〈物語〉ではない。
〈物語〉はゴールがあるから、成立するのだ。
人生を〈物語〉にたとえることがあるが、それは死というゴールをどのように迎えるか、という〈物語〉だ。
つまり、終わりがあると言うことは、始まりがあり、はじまりと終わりがあるということは、閉じられているのだ。
閉じられているということは、それだけで「完結」していないとだめだということだ。
それは同時に、「統一体」であるということを意味する。
統一体であると言うことは、〈物語〉の中にちりばめられている要素がお互いが響き合うということだ。
それを広く〈記号〉と僕は呼んでいる。
僕らは人物や事件、天候や場所、あらゆるものを〈記号〉として読み、そこにある具体的なものからより抽象度の高い意味を見いだす。
それは明示的にとらえようとすれば、このブログのような読解になるだろうし、暗示的にとらえるにしても、きっと僕たちは知らぬ間に〈物語〉の〈記号〉を読み解いている。
前置きが長くなった。
このラストは、その〈記号〉を無効化するものになっている。
だから、〈物語〉そのものの解体を意味するのであれば、理解できる。
バッドエンディングという意味での衝撃というのなら、それは完全に〈物語〉が破綻している以上、正しくない。
ラストだけを観ると、なるほど、人を殺すことの禁忌を提示するかのようにみえる。
どれだけ「正しい」ことであっても、人を殺すことは禁忌なのだ、と運命が示しているかのようだ。
だが、それは〈記号〉の響き合いという面から見ると、納得できない。
ここまでの流れをもう一度おさらいしておく。
スーパーマーケットに閉じこもった人々は、ガラス張りの正面を補強することを提案する。
だが、ここに反対する人が出てくる。
それが「狂ったばばあ」と呼ばれるユダヤ教徒だ。
人間の業に腹を立てた神がよこした悪魔に、対抗するすべはもはやない、人間はおとなしくその生け贄を捧げるべきだ、と訴える。
彼女については、おどろくほど細かい、そして長い描写が挿入される。
トイレでの祈りもそうだし、事件が発足した当時から彼女は「神の裁きだ」とわめくこともそうだ。
それは映画を観ている人には、もはや無視できないほど冗長に、そして印象的に挿入されていく。
やがて、彼女の考えに耳を傾ける人間が現れ、脱出したいと考える主人公たち八人をのぞいて、全員が彼女の言うなりになってしまう。
旧約聖書を手に人々を導くその言動は、素面である僕たち観客は、おそらく誰もが奇異のまなざしで見ている。
どんな事態であれ、いま・ここを生きようとしない、彼女たちの考えに賛同できる人はいないだろう。
その考え自体が誤りかどうかを議論の対象にしたいのではない。
僕が信仰しているのはユダヤ教でもないし、キリスト教でもない。
だから、そこに是非の判断を下すことはできないにしても、少なくとも映画では彼女たちに賛同できないように「撮られている」。
その反対を押して、主人公たちはスーパーを後にする。
その主人公たちが、ラストで肯定されるどころか、否定さえされてしまう。
つまり、この流れで言えば、ユダヤ教徒(いや、むしろユダヤ狂徒と呼ぶにふさわしい者たち)が肯定されることになる。
僕たちがこの映画のラストで目の当たりにする絶望感は、息子を殺してしまった父親の後悔や贖罪によるものではない。
結局、ユダヤ狂徒が正義だと断定してしまう、そのあり方に絶望するのだ。
それはすなわち、この映画で何を描きたかったのかまったく不透明になってしまうという徒労感と失望感だ。
チープとはいえ、ホラー映画にここまで付き合わせておきながら、その偏った正義を肯定してしまう、そのあり方が〈物語〉を破綻させているのだ。
それを衝撃と言えばそうなのかもしれない。
だが、バッドエンディングという意味の衝撃ではないはずだ。
砂漠で旅をさんざん続けていて、その先にオアシスがなかったというバッドエンディングではなく、やっとたどり着いたオアシスには毒が混入していたかのような衝撃なのだ。
それまでの旅は何だったのだろう。
それまでの苦悩や緊張は何だったのだろう。
「セブン」や「隣人は静かに笑う」も、バッドエンディングだった。
だが、それは〈記号〉の響き合いが完遂されるために必要な、必然のバッドエンディングだった。
「ミスト」ではどちらかというと、作り手側が放棄してしまったかのようなエンディングだ。
このラストにするなら、もっとそれまでの描き方を考えるべきだった。
でなければ、ユダヤ狂徒を増やしたいかのようなこのラストに、僕たちは大きな精神的ダメージを受けかねない。
ユダヤ教徒が観ると、余計に腹を立てる気がするのは、僕だけではあるまい。
監督:フランク・ダラボン
原作:スティーブン・キング
映画史上に残る衝撃のラスト、それは〈物語〉的禁忌。
デヴィッド・ドレイトン(トーマス・ジェーン)は、映画のポスターを手がける画家だった。
田舎に住む彼の自宅を襲った嵐によって、植えられた樹木が、彼のアトリエの部屋を突き破り絵まで引き裂いた。
修理をしなければ、と車でショッピングセンターまで息子と隣人とを乗せて向かう。
湖の向こうには霧が出ていた。
レジで会計を済ませようと並んでいると、そこに一人の男が血を流しながらやってきた。
霧になにがいて、一緒にいた人をさらっていった!と伝える。
怖くなった人々は、とりあえずそのスーパーマーケットにいることにする。
自家発電機の様子を見に行った店員と、デヴィッドは、自家発電機がおかしいので、外に出て直そうと提案する。
止めるデヴィッドだったが、言うことを聞かず、裏の倉庫のシャッターを開けると、いきなり……。
僕は全く知らなかったが、衝撃のラスト15分、という触れ込みで公開された話題作だ。
ビデオ化されたとき、周りの人も、「これ、おもしろいですよ」と言っていた。
レンタルが7日間できるようになったので、年始を利用して観ることにした。
僕はこの映画の「衝撃のラスト」を事前に知らなかったので、ある意味では楽しめた方だと思う。
まだ観ていない人は、ホラー映画が好きな人にはお勧めかもしれない。
ただし、言われているような、衝撃のラスト、はあまり期待しない方がいい。
それよりも、もっと純粋に観れば、楽しめるかも、しれない。
▼以下はネタバレあり▼
原作はかの有名なスティーブン・キング。
「ショーシャンク」や「スタンド・バイ・ミー」などで有名なキングだが、ホラーも沢山書いている。
有名なのはキューブリック監督の「シャイニング」かな。
もっとも、キューブリックの作品は原作と異なる! とキングはかなり怒ったらしいけれども。
そのキングが、この作品については、ラストを改編することに賛成したらしい。
むしろ、映画版のほうが良いと絶賛したくらいとの話だ。
絶賛について本当かどうかはまあ、置いておくとして、改編されたという点についてはきっと本当だろう。
あまり長い文章にしたくもないので、落ちをここで書いておく。
スーパーから逃げ出したデヴィッドたちは、ガソリンがつき、霧の中で立ち往生してしまう。
持ってきた拳銃には四発弾が残っていた。
逃げ出したのは息子をあわせて五人。
わけのわからない生物に殺されるくらいなら、自殺した方がいいと思っている五人は、デヴィッドに命運を託し、死を選択する。
弾を込めた彼は、自分以外の四人を撃ち殺し、絶望のまま、車外に出る。
「俺を殺せ!」と。
だが、やがて霧は晴れていき、軍隊がぞくぞくと行進する姿が現れる。
つまり、彼は救われたのだ。
連れて行かれる中にはスーパーから最初に逃げだそうとした女性とその子供二人がいた。
彼女は誰からも協力を得ることがなく一人スーパーの外に出たのだった。
今や彼にのしかかるのは助かったはずの息子たちの命を自らの手で奪ってしまった呵責だけだ。
映画史に残る衝撃のラスト、といえばそうなのかもしれない。
おそらくスーパーを出る直前くらいまでは、だれもこのラストを想像だにしなかったに違いない。
(スーパーから脱出するくらいになると、「終わらせ方」が他にないので、読めた人も多かったとは思う。)
なぜか。
それはハリウッド的なハッピーエンドに物語的な典型をかたちづくられていたからか。
ハッピーエンドでないとありえない、こういう話にバッドエンディングはない、とたかをくくっていたからだろうか。
僕は違うと思う。
少なくとも、この映画だけで言えば、これはハッピーエンドでもバッドエンドでもない。
既存の物語的なパターンを壊すという衝撃を持つ作品でもない。
ただ、これは〈物語〉でさえなかったのだ。
〈物語〉ははじめとおわりがある、閉じられた〈世界〉だ。
『ネバーエンディング・ストーリー(果てしない物語)』は実は対義結合であって、矛盾したことばを重ねている。
要するに「冷たい戦争」や「筋書きのないドラマ」といったような言葉と同じだ。
「終わりのない物語」は、〈物語〉ではない。
〈物語〉はゴールがあるから、成立するのだ。
人生を〈物語〉にたとえることがあるが、それは死というゴールをどのように迎えるか、という〈物語〉だ。
つまり、終わりがあると言うことは、始まりがあり、はじまりと終わりがあるということは、閉じられているのだ。
閉じられているということは、それだけで「完結」していないとだめだということだ。
それは同時に、「統一体」であるということを意味する。
統一体であると言うことは、〈物語〉の中にちりばめられている要素がお互いが響き合うということだ。
それを広く〈記号〉と僕は呼んでいる。
僕らは人物や事件、天候や場所、あらゆるものを〈記号〉として読み、そこにある具体的なものからより抽象度の高い意味を見いだす。
それは明示的にとらえようとすれば、このブログのような読解になるだろうし、暗示的にとらえるにしても、きっと僕たちは知らぬ間に〈物語〉の〈記号〉を読み解いている。
前置きが長くなった。
このラストは、その〈記号〉を無効化するものになっている。
だから、〈物語〉そのものの解体を意味するのであれば、理解できる。
バッドエンディングという意味での衝撃というのなら、それは完全に〈物語〉が破綻している以上、正しくない。
ラストだけを観ると、なるほど、人を殺すことの禁忌を提示するかのようにみえる。
どれだけ「正しい」ことであっても、人を殺すことは禁忌なのだ、と運命が示しているかのようだ。
だが、それは〈記号〉の響き合いという面から見ると、納得できない。
ここまでの流れをもう一度おさらいしておく。
スーパーマーケットに閉じこもった人々は、ガラス張りの正面を補強することを提案する。
だが、ここに反対する人が出てくる。
それが「狂ったばばあ」と呼ばれるユダヤ教徒だ。
人間の業に腹を立てた神がよこした悪魔に、対抗するすべはもはやない、人間はおとなしくその生け贄を捧げるべきだ、と訴える。
彼女については、おどろくほど細かい、そして長い描写が挿入される。
トイレでの祈りもそうだし、事件が発足した当時から彼女は「神の裁きだ」とわめくこともそうだ。
それは映画を観ている人には、もはや無視できないほど冗長に、そして印象的に挿入されていく。
やがて、彼女の考えに耳を傾ける人間が現れ、脱出したいと考える主人公たち八人をのぞいて、全員が彼女の言うなりになってしまう。
旧約聖書を手に人々を導くその言動は、素面である僕たち観客は、おそらく誰もが奇異のまなざしで見ている。
どんな事態であれ、いま・ここを生きようとしない、彼女たちの考えに賛同できる人はいないだろう。
その考え自体が誤りかどうかを議論の対象にしたいのではない。
僕が信仰しているのはユダヤ教でもないし、キリスト教でもない。
だから、そこに是非の判断を下すことはできないにしても、少なくとも映画では彼女たちに賛同できないように「撮られている」。
その反対を押して、主人公たちはスーパーを後にする。
その主人公たちが、ラストで肯定されるどころか、否定さえされてしまう。
つまり、この流れで言えば、ユダヤ教徒(いや、むしろユダヤ狂徒と呼ぶにふさわしい者たち)が肯定されることになる。
僕たちがこの映画のラストで目の当たりにする絶望感は、息子を殺してしまった父親の後悔や贖罪によるものではない。
結局、ユダヤ狂徒が正義だと断定してしまう、そのあり方に絶望するのだ。
それはすなわち、この映画で何を描きたかったのかまったく不透明になってしまうという徒労感と失望感だ。
チープとはいえ、ホラー映画にここまで付き合わせておきながら、その偏った正義を肯定してしまう、そのあり方が〈物語〉を破綻させているのだ。
それを衝撃と言えばそうなのかもしれない。
だが、バッドエンディングという意味の衝撃ではないはずだ。
砂漠で旅をさんざん続けていて、その先にオアシスがなかったというバッドエンディングではなく、やっとたどり着いたオアシスには毒が混入していたかのような衝撃なのだ。
それまでの旅は何だったのだろう。
それまでの苦悩や緊張は何だったのだろう。
「セブン」や「隣人は静かに笑う」も、バッドエンディングだった。
だが、それは〈記号〉の響き合いが完遂されるために必要な、必然のバッドエンディングだった。
「ミスト」ではどちらかというと、作り手側が放棄してしまったかのようなエンディングだ。
このラストにするなら、もっとそれまでの描き方を考えるべきだった。
でなければ、ユダヤ狂徒を増やしたいかのようなこのラストに、僕たちは大きな精神的ダメージを受けかねない。
ユダヤ教徒が観ると、余計に腹を立てる気がするのは、僕だけではあるまい。
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