評価点:77点/1980年/アメリカ
監督:ロバート・レッドフォード
アカデミー賞の作品賞、監督賞受賞の名作。
コンラッド(ティモシー・ハットン)は、兄バックの死後、自殺をはかり、精神科の病院に入っていた。
退院後、一ヶ月経ったが、どうしても周りと打ち解けられない。
その様子を見かねた父(ドナルド・サザーランド)は、バーガー(ジャド・ハーシュ)という分析医を息子に紹介する。
はじめは渋っていたコンラッドだったが、通院しはじめる。
兄の死を、遺された三人の家族は、それぞれに受け止めようとするが……。
アカデミー賞の作品賞をとった、ロバート・レッドフォードの初監督作品。
ジャンルで言えば、人間ドラマにあたるだろう。
三人の家族が、長男の死をどのように克服するのか、という点が軸になっている。
三人それぞれの視点がたくみに描かれているため、観る人は、誰に感情移入できるか、もしくは、感情移入できないかで、評価が分かれそうだ。
一度目はそうでもなかったとしても、二度三度見ることで泣ける映画でもある。
観ていない人は、一度は観てほしい映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
この映画の主人公は? と聞かれたら、家族三人としか答えられないだろう。
しかし、主演女優賞にノミネートされたのは、母親役のメアリー・タイラー・ムーアだった。
父親と、息子は、「助演男優賞」だった。
この違いは、映画の中の三人の微妙な比重の違いを象徴している。
おそらく、この映画の主人公を一人だけに絞るなら、母親のベスだろう。
物語は、いきなり違和感のある始まり方をする。
兄の死、弟の自殺未遂と入院の事実など、過去の出来事は、回想や、台詞の中にしかなく、わかりにくい形で示される。
ただ冒頭にあるのは、異常な家族関係だ。
誰もがひっかかるであろう、母親の行動に全てが集約されている。
目覚めた息子コンラッドが、階下に降りて、家族で食事をする際、彼は「食欲がない」と言う。
父親は、高校生の彼に向かって「食べなきゃ強くなれないぞ」という十分大きい息子に対しては、不自然な台詞。
それにもまして、母親の行動は異常という他ない。
母親はそれを聞いて、息子のために作ったはずの朝のフレンチ・トーストを、流しに捨ててしまう。
これはどう考えても異常だ。
ふつうの家庭ならば、少なくとも、朝食を家族で共にする家庭なら、息子が食欲がないと言っただけで、朝食を捨てたりしない。
「あら、どうしたの?」
「それでも少しくらいは食べなさいよ」
「じゃあ、他のものならどうなの?」
少しはこのような心配に思うはずだ。
もしくは、息子が風邪などの病気にかかっているなら、そもそも食事を“作らない”はずだ。
わざわざ三人分の食事を作っておきながら、すぐに捨ててしまうのは、この家族が異常な状態であることを暗示しているのだ。
物語の中盤になると、その意味がはっきりとわかりはじめる。
彼ら家族は、大きな「影」を背負っているのである。
母親ベスは、長男のバックを溺愛していた。
高校生になるバックは、弟とヨットに乗り、悪天候のために事故死してしまう。
ベスは、このとき全てを失ってしまう。
しかし、生き残ったのは弟の方だった。
弟はそれを感じ取り、また、兄への贖罪のために手首を切る。
それを見かねた両親は、精神病院に入れてしまう。
ベスは、おそらく、弟コンラッドが病院にいるとき、どれほど幸せだったろうか。
海外旅行に行き、弟の存在を自身の中から消し去ろうとした。
だが、弟は帰ってきてしまった。
ベスにとって、弟と顔をあわせるということは、兄の死を想起させ、かけがえのない「喪失」を突きつけられるのと同じことだった。
それほどに、兄を愛していたのだ。
これは、兄のほうが「お気に入り」だったというような、生半可なものではない。
ベスには、バックしかいなかったのだ。
それは、理屈で考えられるようなものではなかった。
彼女自身にも、その喪失感をぬぐうことはできない。
中盤で、家族の写真を撮ろうとして、弟とのツーショットを、極端に嫌がるシーンがある。
これは、弟と撮ることで、完全にバックの存在が消えてしまうことを恐れたからだ。
弟の存在を認識すること。
弟と向き合うこと。
それは、兄の喪失そのものであり、弟と話す時、いつもベスはこう心の中で唱えたことだろう。
「なぜ、お前が生き残って、私の愛するバックは死んでしまったのか」
この映画で、ベスが主人公なのは、この悲しみの深さにある。
弟のコンラッドと、父親のカルピンは、物語の最後に「和解」することでエンディングとなる。
彼らは、兄の存在を抱きしめて、そして自分を赦した。
精神分析医に話すことで、
自分と向かうことを覚え、相手を認めることを知ったからだ。
だが、母親のベスは、それさえできなかった。
彼女は、おそらく、永遠にさまよい続けるだろう。
ここにこの映画の重みがあり、この映画が他の映画に埋もれない理由がある。
自分の最愛の子どもを亡くしてしまった不幸と、同じ自分の子どもを、どうしても愛せない不幸。
この二つの不幸が、安易な救いなしに描かれているから、この映画はすごいのだ。
ヒューストンにいる兄に向かって、ベスはこう叫ぶ。
「あなた、自分の子どもを亡くしたことがあるの? 溺れてしまったことがあるっていうの?」
これは、慰めようとしている兄に対して、禁句のような台詞だ。
それはベス自身も理解しているのだろう。
それでも、そう言わざるを得ない悲しみ。
この悲しみは、「真実」だ。
この映画でもう一つ、書いておきたいことがある。
それは、この映画が母親の悲しみを描いた作品でありながら、「フロイト」を描いた作品でもあるということだ。
この映画は、フロイトの考え方をそのまま投影した映画だと言える。
僕自身、あまりフロイトに詳しくはないが、常識の範囲内で考えてみよう。
フロイトの有名な神経症の原因に、「エディプス・コンプレックス」というものがある。
これは、息子が父親と敵対し、母親を愛するというものだ。
男女を反転させて、娘と父親との関係でもある。
母親ベスと、息子バックとの関係は、まさにこのエディプス・コンプレックスそのものなのだ。
エディプス・コンプレックスは、通常、息子(娘)側から考えるものだが、母親側にこの感情が起こることもある。
また、精神分析医のバーガーが行っている心理療法も、フロイトのやりかたを踏襲しているようだ。
自分の秘密、悩みの原因となることを精神科医に話すことで、それが取り除かれ、神経症などの病気が改善・治療される。
父親も、息子も、バーガーに精神分析してもらうことで、見事にその「原因」を断ち切ることになる。
その原因とは、「母親」の存在だ。
彼らは、巧みに、感動的に、そして「正当」の名の下、見事に母親を“追い出して”しまう。
父子側のエディプス・コンプレックスを断ち切るのだ。
また、コンラッドが何度も見る夢のシーンの挿入も、フロイトを意識したものではないかと思える。
精神科医の受診を否定した母親は、エディプス・コンプレックスに悩み続ける。
受診した父子は、見事に母親を断ち切って、分かり合う。
まるで「フロイト」教信者のような、彼の筋書き通りの展開と結末だ。
いくらなんでも、そこまで理論に基づかなくっても……。
うがった見方かもしれないが、精神科医がカッコ良すぎるのは気にかかる。
魔法使いか、救いの神か、いずれにしても美化されすぎて、映画の中で「強力」な者として描かれている印象を受ける。
(2005/3/27執筆)
監督:ロバート・レッドフォード
アカデミー賞の作品賞、監督賞受賞の名作。
コンラッド(ティモシー・ハットン)は、兄バックの死後、自殺をはかり、精神科の病院に入っていた。
退院後、一ヶ月経ったが、どうしても周りと打ち解けられない。
その様子を見かねた父(ドナルド・サザーランド)は、バーガー(ジャド・ハーシュ)という分析医を息子に紹介する。
はじめは渋っていたコンラッドだったが、通院しはじめる。
兄の死を、遺された三人の家族は、それぞれに受け止めようとするが……。
アカデミー賞の作品賞をとった、ロバート・レッドフォードの初監督作品。
ジャンルで言えば、人間ドラマにあたるだろう。
三人の家族が、長男の死をどのように克服するのか、という点が軸になっている。
三人それぞれの視点がたくみに描かれているため、観る人は、誰に感情移入できるか、もしくは、感情移入できないかで、評価が分かれそうだ。
一度目はそうでもなかったとしても、二度三度見ることで泣ける映画でもある。
観ていない人は、一度は観てほしい映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
この映画の主人公は? と聞かれたら、家族三人としか答えられないだろう。
しかし、主演女優賞にノミネートされたのは、母親役のメアリー・タイラー・ムーアだった。
父親と、息子は、「助演男優賞」だった。
この違いは、映画の中の三人の微妙な比重の違いを象徴している。
おそらく、この映画の主人公を一人だけに絞るなら、母親のベスだろう。
物語は、いきなり違和感のある始まり方をする。
兄の死、弟の自殺未遂と入院の事実など、過去の出来事は、回想や、台詞の中にしかなく、わかりにくい形で示される。
ただ冒頭にあるのは、異常な家族関係だ。
誰もがひっかかるであろう、母親の行動に全てが集約されている。
目覚めた息子コンラッドが、階下に降りて、家族で食事をする際、彼は「食欲がない」と言う。
父親は、高校生の彼に向かって「食べなきゃ強くなれないぞ」という十分大きい息子に対しては、不自然な台詞。
それにもまして、母親の行動は異常という他ない。
母親はそれを聞いて、息子のために作ったはずの朝のフレンチ・トーストを、流しに捨ててしまう。
これはどう考えても異常だ。
ふつうの家庭ならば、少なくとも、朝食を家族で共にする家庭なら、息子が食欲がないと言っただけで、朝食を捨てたりしない。
「あら、どうしたの?」
「それでも少しくらいは食べなさいよ」
「じゃあ、他のものならどうなの?」
少しはこのような心配に思うはずだ。
もしくは、息子が風邪などの病気にかかっているなら、そもそも食事を“作らない”はずだ。
わざわざ三人分の食事を作っておきながら、すぐに捨ててしまうのは、この家族が異常な状態であることを暗示しているのだ。
物語の中盤になると、その意味がはっきりとわかりはじめる。
彼ら家族は、大きな「影」を背負っているのである。
母親ベスは、長男のバックを溺愛していた。
高校生になるバックは、弟とヨットに乗り、悪天候のために事故死してしまう。
ベスは、このとき全てを失ってしまう。
しかし、生き残ったのは弟の方だった。
弟はそれを感じ取り、また、兄への贖罪のために手首を切る。
それを見かねた両親は、精神病院に入れてしまう。
ベスは、おそらく、弟コンラッドが病院にいるとき、どれほど幸せだったろうか。
海外旅行に行き、弟の存在を自身の中から消し去ろうとした。
だが、弟は帰ってきてしまった。
ベスにとって、弟と顔をあわせるということは、兄の死を想起させ、かけがえのない「喪失」を突きつけられるのと同じことだった。
それほどに、兄を愛していたのだ。
これは、兄のほうが「お気に入り」だったというような、生半可なものではない。
ベスには、バックしかいなかったのだ。
それは、理屈で考えられるようなものではなかった。
彼女自身にも、その喪失感をぬぐうことはできない。
中盤で、家族の写真を撮ろうとして、弟とのツーショットを、極端に嫌がるシーンがある。
これは、弟と撮ることで、完全にバックの存在が消えてしまうことを恐れたからだ。
弟の存在を認識すること。
弟と向き合うこと。
それは、兄の喪失そのものであり、弟と話す時、いつもベスはこう心の中で唱えたことだろう。
「なぜ、お前が生き残って、私の愛するバックは死んでしまったのか」
この映画で、ベスが主人公なのは、この悲しみの深さにある。
弟のコンラッドと、父親のカルピンは、物語の最後に「和解」することでエンディングとなる。
彼らは、兄の存在を抱きしめて、そして自分を赦した。
精神分析医に話すことで、
自分と向かうことを覚え、相手を認めることを知ったからだ。
だが、母親のベスは、それさえできなかった。
彼女は、おそらく、永遠にさまよい続けるだろう。
ここにこの映画の重みがあり、この映画が他の映画に埋もれない理由がある。
自分の最愛の子どもを亡くしてしまった不幸と、同じ自分の子どもを、どうしても愛せない不幸。
この二つの不幸が、安易な救いなしに描かれているから、この映画はすごいのだ。
ヒューストンにいる兄に向かって、ベスはこう叫ぶ。
「あなた、自分の子どもを亡くしたことがあるの? 溺れてしまったことがあるっていうの?」
これは、慰めようとしている兄に対して、禁句のような台詞だ。
それはベス自身も理解しているのだろう。
それでも、そう言わざるを得ない悲しみ。
この悲しみは、「真実」だ。
この映画でもう一つ、書いておきたいことがある。
それは、この映画が母親の悲しみを描いた作品でありながら、「フロイト」を描いた作品でもあるということだ。
この映画は、フロイトの考え方をそのまま投影した映画だと言える。
僕自身、あまりフロイトに詳しくはないが、常識の範囲内で考えてみよう。
フロイトの有名な神経症の原因に、「エディプス・コンプレックス」というものがある。
これは、息子が父親と敵対し、母親を愛するというものだ。
男女を反転させて、娘と父親との関係でもある。
母親ベスと、息子バックとの関係は、まさにこのエディプス・コンプレックスそのものなのだ。
エディプス・コンプレックスは、通常、息子(娘)側から考えるものだが、母親側にこの感情が起こることもある。
また、精神分析医のバーガーが行っている心理療法も、フロイトのやりかたを踏襲しているようだ。
自分の秘密、悩みの原因となることを精神科医に話すことで、それが取り除かれ、神経症などの病気が改善・治療される。
父親も、息子も、バーガーに精神分析してもらうことで、見事にその「原因」を断ち切ることになる。
その原因とは、「母親」の存在だ。
彼らは、巧みに、感動的に、そして「正当」の名の下、見事に母親を“追い出して”しまう。
父子側のエディプス・コンプレックスを断ち切るのだ。
また、コンラッドが何度も見る夢のシーンの挿入も、フロイトを意識したものではないかと思える。
精神科医の受診を否定した母親は、エディプス・コンプレックスに悩み続ける。
受診した父子は、見事に母親を断ち切って、分かり合う。
まるで「フロイト」教信者のような、彼の筋書き通りの展開と結末だ。
いくらなんでも、そこまで理論に基づかなくっても……。
うがった見方かもしれないが、精神科医がカッコ良すぎるのは気にかかる。
魔法使いか、救いの神か、いずれにしても美化されすぎて、映画の中で「強力」な者として描かれている印象を受ける。
(2005/3/27執筆)
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