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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

クローバーフィールド HAKAISHA

2008-05-06 12:15:22 | 映画(か)
評価点:77点/2008年/アメリカ

監督:マット・リーヴス

手法だけが斬新。

アメリカはNYではいつものようにどこにでもあるような送別パーティーが催されていた。
ロブは仕事で日本にいくことになったのだ。
だが、同僚のベスとの関係が噂されていた。
気になったハッドは、送別のためのビデオ撮影を任され友人からコメントをとりながら、その真相を知ろうとする。
ついにその真相を聞き出したとき、大きな衝撃音が走る。
混乱のなか、屋上に出てみると、ビルが次々と倒れていく。
避難が必要だと考えた一行はマンハッタン島からの脱出を試みるが……。

公開まで一切が明かされなかったという曰く付きの作品だ。
タイトルも公開二ヶ月前まで秘密にされていた。
ニューヨークでなにかが起こり、その現場で回収されたビデオテープに映っていたものを映画として上映している。
……という設定である。

「素人がとったビデオ」という設定なので、手ぶれが激しい。
映像だけを追っていると、10分で酔ってしまうだろう。
日本での公開は字幕があるためそこまで酔うことはないかもしれない。
だが、観る人は気をつけた方がいい。

それにしても副題の「HAKAISHA」って。
ネーミングセンスなさすぎ。

▼以下はネタバレあり▼

似たような映画に「ブレアウィッチプロジェクト」という作品があった。
幽霊が出るという森に冒険に出た若者たちが撮影したビデオが見つかる、という設定の映画だ。
こちらは、本当に起こった出来事だと全米で話題になり、
日本で公開されるころにはその宣伝手法が明らかになってしまって、酷評されてしまった。
僕も観に行ったが、そもそもオカルトが苦手(怖いと思えない)な僕には、
微塵もおもしろさを見いだすことができなかったのを覚えている。

その意味で、この映画は「ブレアウィッチ~」とは違い、
完全にフィクションだという前提であり、
その上で手持ちカメラという設定が斬新だ。
おそらく普通にパニック映画あるいは、ホラー映画として撮ったとしたら、
全然おもしろくなかっただろう。
手持ちカメラで、一人称だということが、決定的におもしろくさせている。

だが、それ以外はすべてにおいて凡庸だ。
それは肯定的な意味でも、否定的な意味でもハリウッドのセオリーに基づいているということだ。
冒頭の数十分は人物紹介のように何事もなく日常が撮影される。
何かが起こるということを知っている観客にとって、かなり冗長に感じるシーンだ。
だが、このシークエンスがなければ、その後の彼らの行動に感情移入できない。
ここは手持ちカメラで、しかも下世話な話に半ば無理矢理つきあわせる。
冗長だが、この長さがなければきっと人物の差異や特徴をつかむことは難しかっただろう。
なんたって、カメラが常にぶれ続けるので、静止画で人物をとらえることができない。
人間関係をつかませるために、あえて長めの冒頭になっている。

また、人が死ぬタイミングも、これまたセオリー通りだ。
死に方もセオリー通り。
それこそ、「エイリアン」の展開とそれほどかわらない。
仲間を助けに行こうとするのもお約束なのだ。
だが、これだけ特殊な手法であるからこそ、お約束でなければならなかったのだろう。
でないと、あまりに突飛だと観る方が疲れてしまう。
ただでさえ、手ぶれしまくるカメラに一時間以上つきあわされるのだ。
きちんと「物語」に仕立て上げられないと、評価されることはないことを、
制作者サイドは理解していたのだろう。

完全に感情移入させれば、こちらのものだ。
臨場感があることを観客に理解させれば、えさを待ち受ける魚と同じだ。
少しの情報でも状況の打開に大切なことはないかと必死になる。
手持ちカメラで、ただでさえ状況がわからない中で、何が起こっているのかと集中してみることになる。
不鮮明に映るカメラに釘付けとなって、より感情移入していく。

最後の最後まで「敵」をはっきり見せない。
全容を見せないことで、恐怖が増し、また興味をそそられる。
これも「エイリアン」などで使われたオーソドックスな手法だ。
ただ、字幕を頼りにする日本人ならば、それほど酔うことはないかもしれないが、
ネイティブにとっては地獄のような映画だろう。
自分で撮ったことのあるビデオを観た人なら、わかるはずだ。
僕はあらかじめ酔わないようにいつもより後ろの席をチョイスしたが、
満員(たぶんそんな劇場はないだろう)の映画館で一番前だと、映画云々の前にすっかり吐けるだろう。

だが、そうしたリスクを負ってまでもやりたかったことは見えていたように思う。
だから、きっとおもしろいと感じたのだろうし、金返せと思わなかったのだろう。

余談だが、この映画で一つ気になったことを最後に書いておく。
それは映画における「語り」についてだ。
言葉(特にこの場合日本語)で語る場合、必ず問題になってくるのが
「語っている時」と「出来事が起こっている時」との乖離だ。
語るということは、必ず「今という時点」から語るのであり、
そこには現在と過去という二つの時間軸が自ずと現出してしまう。
日本語なら特にその乖離は決定的だ。
語る今という位相を発生させずに語ることは、今のところ日本語にはできない。

だが、ビデオという媒体は「現在」を問題にしない。
つまり、撮影された時間と観ている我々の時間との乖離は免れないとしても、
撮影している時点と撮影されている時点は一致している。
その意味でも主人公が最後にカメラに向けていう言葉が意味深だ
「このテープを観ている人のほうがこの事件については詳しいはずだ」

この台詞から、僕たちの観ている者の位置が決定する。
それは僕たちがこの事件を何らかの形ですでに知っていて、
その検証や確認のためにビデオテープを観ている、という立ち位置だ。
僕らはいつの間にやら、ともに体験する人たちではなく、その体験を過去のものとして関係づけられる。
言葉における語りでは「現在」と「過去」を必然的に結びつける
(あるいは乖離させる)のに対し、映像による語りは、観る者の「今」と
映っている「過去」とを結びつけるということかもしれない。

その観る者と観られる者との位置関係は、この台詞だけではない。
時折挿入される「事件より前の日常」が、鮮明に僕たちを事件と乖離させる。
これは、おそらくかつてあったはずの「日常」と
何者かにおそわれてしまって失われてしまった「現在」との対比を色濃くするために挿入されている。
テープの消え残り、という設定がいかにも心憎い。

だが、それ以上に、この細切れの日常は僕たちにこのテープとの関係を示唆する。

それはつまり、これだけの臨場感を与えながらも、この出来事はすでに終わってしまったという悲しみである。
多くの人にとって、結末がどのようになるかはおおよそ見当がついたはずだ。
だとすれば、この映画がたたえているのは、かつてないほどの臨場感と、ささやかな悲しみである。

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