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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

所有の倫理

2021-02-06 15:16:17 | 不定期コラム
不倫に対する過剰な批判はいったいどこから来るのだろう。
極めてプライベートな内容にまで踏み込まれた取材は辟易する。
しかし「世間」はそれを求めているようだ。
私はこれは羨望なのだと考えている。
多くの人は不倫なんてできない。
そんな甲斐性もないし、異性としての魅力もない。
だから、羨ましさとの裏返しとしての批判なんだと。

しかしそれだけではないような気もする。
批判する人は執拗に、徹底的に嫌悪感を持っているようだからだ。
考えているうちに、一つの答えのようなものが見えた。
それは私のものは私の自由にして良い、という自己〈所有〉していものへの線引きだ。

妻や夫を、配偶者は、結婚という形で〈所有〉しているのだから、それを侵してはならないという強力な倫理観がはたらいているのではないか。
私の権利が侵されること、他人のものを横取りすることは、近頃はもっとも批判される。

だが、いつから配偶者は〈所有〉されるようになったのか。
私とあなたは違う人間であり〈所有〉することはできない。
妻が不倫しようが私にはそれを留めることはできない。
私と妻は違う人間だからだ。
私がどんなに愛していようと、それが妻が不倫をしないこととは関係がない。
彼女であろうと、婚姻という契約で結ばれていようと、それは違う人間である以上どうしようもない。

この病理とも言える不倫に対する嫌悪は、明確であるはずだという〈所有〉についての倫理が犯されたことへの嫌悪なのだろう。
だから一見もっともだと感じるが、どこか違和感がのこる、承服しかねるところがあるのはそのためなのだろう。

それはどこか、結婚はお金がかかる、というような言説に通底している何かがある。
愛や結婚、人生と、費用や経費、手間というようなものは本来相容れない。
しかし、結婚するかしないかというような議論には必ず経済的な指標がその一つに組み込まれる。
お金は目で見えるし、先駆けて計算することができる。
一方、愛や人生というものは、計算することはできない。
結婚して幸せになれるかどうかはだれもわからない。
結果的に、事後的に、幸せだったかどうかを検討するに過ぎない。
他の人のデータを参考にしても、統計に従って確率を見出しても、それは「過去の誰か」の話だからだ。

不倫がよいことだとは思わない。
それは個人の価値観としての問題であって、隣の人が不倫をしているからどうか、という問題ではない。
日本は戸籍というシステムが明治時代に構築される以前は、性に関しては非常に大らかな面があった。
これほど血縁や遺伝子、婚姻ということが重んじられるようになったのはごくごく最近に過ぎない。

他の国でも一夜の(あるいは一夏の)情事は公認されている例は多い。

人の心までも〈所有〉することはできない。
そんなパートナーに過干渉な国が、住みよい国だとは思えない。

ただ、残念なことに私は妻のことを深く愛しているので、不倫なんてとうていできそうにないのだが。

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