評価点:78点/2017年/日本/96分
監督・脚本:上田慎一郎
なんだ、この読後感は!
ゾンビ映画の撮影現場、女優と男優の熱意のない演技に対して日暮隆之監督(濱津隆之)は激高し、撮影は一次中断された。
その間もカメラが回り続け、メイクを担当する女性からは監督がこの作品に対して強い思い入れがあることを教えられる。
しかし、主演の二人は奇妙な雰囲気を感じとり、メイクの女性が、この現場は昔日本軍の実験に使われた施設であることを教えられる。
廃屋の外に出ようとすると、いきなり顔色を変色させた男が襲って来た……。
公開当時大きな話題となった「絶対にネタバレされてはいけない映画」。
私の知人たちも、こぞって見た方が良い、見てみて欲しい、と進められたが、どうにもタイミングが合わずに見られなかった。
ということで、すっかりほとぼりが冷めてしまった今日この頃に見ることにした。
例によってアマゾンプライムである。
日本映画に対する私の期待値は極端に低いので、何が新しいのかと疑いながら鑑賞した。
結果、見事に制作陣の思うつぼのリアクションをしながら映画を見ることになった。
もうこの映画に興味がある人は見終わっていることだろうが、見ていない人はとりあえずみてみればいいではないでしょうか。
▼以下はネタバレあり▼
前半と後半で全く違う映画になる、ということくらいは予備知識(公開当時の噂)で知っていた。
確かにその通りで、物語としても映像作品としても前半と後半で全く別の作品を見せられることになる。
ある知人は「考えてみるとめっちゃ単純で、すごい映画ではない」と評していた。
「わざわざお金を払って見に行ったからこそおもしろいのであって、ビデオでみるようなものでもない(そんな良作ではない)」。
確かにその通りで、しかし、だからこそこの映画はおもしろいと言える。
誰もが思いつきそうで、誰も撮ってこなかった映画、というのが最も価値ある映画である。
それは、「トイ・ストーリー」や「シン・ゴジラ」など良作にある特徴と言っていい。
最近でいえば「パラサイト」なんかもそうだ。
ありきたりにみえて、実は新しい、そういう発想力というもの、そしてそれを実現することが映画としての価値だ。
だから見終わったとき、必然性を感じることができる。
この映画はいわゆるメタ・フィクションである。
ゾンビ映画というフィクションを撮る、その姿をフィクションする映画だ。
前半は素材となる「ワンカット生中継映画」の「ワンカット・オブ・ザ・デッド」という映画の本編が流される。
そしてその映画がどのように撮られたモノなのかということを、後半で明かされる仕組みだ。
日本のゾンビ映画よろしく、非常に稚拙で、子供じみた演出が続く前半は、何かだまされたような印象さえ受ける。
だが、その1月前に時間が戻され、うだつの上がらない監督が企画を受けるところから始まると、次第にこの映画の全貌が見えてくる。
「詐欺まがいの稚拙なゾンビ映画」から「苦難の連続を工夫と情熱で乗り切る超大作」へと変貌を遂げる、その様を描いた映画なのだとわかってくる。
その転倒が見事である。
最初の数十分の本編にあった違和感が、なぜ起こったのか、ということの裏側が後半で明かされていく。
人の認識が、文脈や主観によって大きく変化させられるということを如実に表している。
哲学の認識論とか、人間の偏見を学ぶ道徳教材とかにも利用できるのではないかというくらい、印象が一変する。
エンドロールを迎える頃には、あんなに退屈だった本編に、一種の愛着さえ湧き起こってくるほどになる。
ありきたりだが、今までなかった、そういう作品なのだ。
なぜこれほどのドラスティックな変化が実現できたのだろうか。
一つは、構成の妙だ。
本編とその裏側を見せる、という構成だけではない。
一つ一つのトラブルやアクシデントが、序盤からクライマックスにかけて、といういわゆる映画としてのスペクタクルに沿ったセオリー通りの展開になっている。
だから、最後の4m上からのショットが、人間ピラミッドによって成功したことがわかると、一気にカタルシスを得ることができる。
それまでいがみ合っていた、利益の齟齬によってチームになれなかった人々が、最後の最後の「どうでもいい」ショットを成功させるために、一丸となる。
本当にどうでもいい。
だが、そのどうでもいいことにこだわった人がこの映画を作っているのだ、という私たち日本人(社会人?)に通底する何かを掘り起こしてくれる。
だからしっかりとしたカタルシスを与えてくれるのだ。
もう一つは、キャラクターの妙だ。
後半にやっと明かされるそれぞれのキャストは、短い時間の中で端的にその特徴を描写していく。
出会ってすぐに不倫してしまう監督役と、メイク役。
事務所を盾に、したくない仕事から逃げる主演アイドル。
こだわりが強すぎる若手俳優。
とりあえず仕事をこなす、物作りの精神に欠けたプロデューサー。
情熱だけで周りが見えない監督を夢見る娘。
その娘に遺伝をしっかりさせた、周りが見えない元女優の妻。
すべてを取り仕切ること四苦八苦して、物作りの気概を押し殺して生きる監督。
必要最小限のカットでそれぞれの個性を描写し、アクシデントとトラブルに当てはめていく。
「お前の人生うそばっかだからだよ!」
「これは俺の映画だ!」と叫ぶ監督に観客も日頃の鬱憤を晴らす。
こういう日本なら「よくあるよね」という日常性を入れていくことで、より作品が補強されていく。
私たちは日々、しょうもない日常に追われている。
些細なことにこだわり、客観的に見れば、価値のない、出来の悪い仕事ばかりしている。
だが、主観的には、一生懸命に生きているはずだ。
外側からの評価よりも、内側の努力のほうが遥かに価値のあるものだろう。
そういう日常を捉え直す、異化させる、十分な映画だ。
こういう映画がどんどん公開される日本であってほしい。
監督・脚本:上田慎一郎
なんだ、この読後感は!
ゾンビ映画の撮影現場、女優と男優の熱意のない演技に対して日暮隆之監督(濱津隆之)は激高し、撮影は一次中断された。
その間もカメラが回り続け、メイクを担当する女性からは監督がこの作品に対して強い思い入れがあることを教えられる。
しかし、主演の二人は奇妙な雰囲気を感じとり、メイクの女性が、この現場は昔日本軍の実験に使われた施設であることを教えられる。
廃屋の外に出ようとすると、いきなり顔色を変色させた男が襲って来た……。
公開当時大きな話題となった「絶対にネタバレされてはいけない映画」。
私の知人たちも、こぞって見た方が良い、見てみて欲しい、と進められたが、どうにもタイミングが合わずに見られなかった。
ということで、すっかりほとぼりが冷めてしまった今日この頃に見ることにした。
例によってアマゾンプライムである。
日本映画に対する私の期待値は極端に低いので、何が新しいのかと疑いながら鑑賞した。
結果、見事に制作陣の思うつぼのリアクションをしながら映画を見ることになった。
もうこの映画に興味がある人は見終わっていることだろうが、見ていない人はとりあえずみてみればいいではないでしょうか。
▼以下はネタバレあり▼
前半と後半で全く違う映画になる、ということくらいは予備知識(公開当時の噂)で知っていた。
確かにその通りで、物語としても映像作品としても前半と後半で全く別の作品を見せられることになる。
ある知人は「考えてみるとめっちゃ単純で、すごい映画ではない」と評していた。
「わざわざお金を払って見に行ったからこそおもしろいのであって、ビデオでみるようなものでもない(そんな良作ではない)」。
確かにその通りで、しかし、だからこそこの映画はおもしろいと言える。
誰もが思いつきそうで、誰も撮ってこなかった映画、というのが最も価値ある映画である。
それは、「トイ・ストーリー」や「シン・ゴジラ」など良作にある特徴と言っていい。
最近でいえば「パラサイト」なんかもそうだ。
ありきたりにみえて、実は新しい、そういう発想力というもの、そしてそれを実現することが映画としての価値だ。
だから見終わったとき、必然性を感じることができる。
この映画はいわゆるメタ・フィクションである。
ゾンビ映画というフィクションを撮る、その姿をフィクションする映画だ。
前半は素材となる「ワンカット生中継映画」の「ワンカット・オブ・ザ・デッド」という映画の本編が流される。
そしてその映画がどのように撮られたモノなのかということを、後半で明かされる仕組みだ。
日本のゾンビ映画よろしく、非常に稚拙で、子供じみた演出が続く前半は、何かだまされたような印象さえ受ける。
だが、その1月前に時間が戻され、うだつの上がらない監督が企画を受けるところから始まると、次第にこの映画の全貌が見えてくる。
「詐欺まがいの稚拙なゾンビ映画」から「苦難の連続を工夫と情熱で乗り切る超大作」へと変貌を遂げる、その様を描いた映画なのだとわかってくる。
その転倒が見事である。
最初の数十分の本編にあった違和感が、なぜ起こったのか、ということの裏側が後半で明かされていく。
人の認識が、文脈や主観によって大きく変化させられるということを如実に表している。
哲学の認識論とか、人間の偏見を学ぶ道徳教材とかにも利用できるのではないかというくらい、印象が一変する。
エンドロールを迎える頃には、あんなに退屈だった本編に、一種の愛着さえ湧き起こってくるほどになる。
ありきたりだが、今までなかった、そういう作品なのだ。
なぜこれほどのドラスティックな変化が実現できたのだろうか。
一つは、構成の妙だ。
本編とその裏側を見せる、という構成だけではない。
一つ一つのトラブルやアクシデントが、序盤からクライマックスにかけて、といういわゆる映画としてのスペクタクルに沿ったセオリー通りの展開になっている。
だから、最後の4m上からのショットが、人間ピラミッドによって成功したことがわかると、一気にカタルシスを得ることができる。
それまでいがみ合っていた、利益の齟齬によってチームになれなかった人々が、最後の最後の「どうでもいい」ショットを成功させるために、一丸となる。
本当にどうでもいい。
だが、そのどうでもいいことにこだわった人がこの映画を作っているのだ、という私たち日本人(社会人?)に通底する何かを掘り起こしてくれる。
だからしっかりとしたカタルシスを与えてくれるのだ。
もう一つは、キャラクターの妙だ。
後半にやっと明かされるそれぞれのキャストは、短い時間の中で端的にその特徴を描写していく。
出会ってすぐに不倫してしまう監督役と、メイク役。
事務所を盾に、したくない仕事から逃げる主演アイドル。
こだわりが強すぎる若手俳優。
とりあえず仕事をこなす、物作りの精神に欠けたプロデューサー。
情熱だけで周りが見えない監督を夢見る娘。
その娘に遺伝をしっかりさせた、周りが見えない元女優の妻。
すべてを取り仕切ること四苦八苦して、物作りの気概を押し殺して生きる監督。
必要最小限のカットでそれぞれの個性を描写し、アクシデントとトラブルに当てはめていく。
「お前の人生うそばっかだからだよ!」
「これは俺の映画だ!」と叫ぶ監督に観客も日頃の鬱憤を晴らす。
こういう日本なら「よくあるよね」という日常性を入れていくことで、より作品が補強されていく。
私たちは日々、しょうもない日常に追われている。
些細なことにこだわり、客観的に見れば、価値のない、出来の悪い仕事ばかりしている。
だが、主観的には、一生懸命に生きているはずだ。
外側からの評価よりも、内側の努力のほうが遥かに価値のあるものだろう。
そういう日常を捉え直す、異化させる、十分な映画だ。
こういう映画がどんどん公開される日本であってほしい。
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