評価点:76点/2017年/アメリカ/163分
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
ひどくあいまいなレプリカントと人間の線引き。
2049年、旧型レプリカントは反抗的であることを理由に解任(殺害)対象となっていた。
新型レプリカントの捜査官K(ライアン・コズリング)は、指示通り旧型の農民レプリカント(デイヴ・バウティスタ)を解任する。
その際、「こんな汚い仕事ができるのはお前は奇跡を見たことがないからだ」と意味深なことを言われ、彼の周りを捜索すると、一体の遺体を発見する。
その遺体は、30年前に埋葬されたレプリカントの骨だった。
しかも、帝王切開で子どもが生まれた形跡があった。
Kの上司であるマダム(ロビン・ライト)は、おぞましさを感じ、Kにすべての証拠の隠滅と子どもの解任を命じる。
Kは、死んだレプリカントは、昔ブレードランナーのデッカード(ハリソン・フォード)と逃げた女レプリカントであることを突き止めるが。
伝説的なSFといっていい、「ブレードランナー」の続編である。
もはや、あまりにも有名なので見ていないとか簡単に口にできない勢いである。
(見たけどほとんど忘れて批評を読み直してもあまり思い出せないとか言えない勢いでもある)
その伝説的作品を、「灼熱の魂」や「メッセージ」で記憶に新しいドゥニ・ヴィルヌーヴがメガホンを取って、火中の栗を拾った。
ある意味、連作されてもはや誰が撮っても過去の焼き回しにすぎなくなった「スターウォーズ」なんかよりも、もっと難しい仕事となったはずだ。
任せた相手は確かだったと思う。
世界観に深みが生まれ、SFとしての面白さを十分に引き出した作品となった。
▼以下はネタバレあり▼
【人間とレプリカントの差異】
とにかく長大で、冗長な映画になってしまったことが心残りだ。
このテーマで、このシナリオなら、もっと短く、そして示唆に富んだ描き方は可能だった気がしてならない。
前作で描こうとしたのは、人造人間であるレプリカントが人間に近づいていく、ということだった。
人間と区別が付かなくなったレプリカントは、レプリカントと言えるのか、人間と言えるのか。
そして、さらにこの映画では、レプリカントが子を産むことができたら? という問いに敷延させている。
どこまでいけば、それは人間なのか。
人間とレプリカント(人工物)との違いはどこにあるのか。
その意味では、この映画は続編と呼ぶにふさわしい、正統進化した映画と言える。
だからこそ、前作を知らない人間にとってこの映画は何の価値も有さない、そういう映画でもある。
(アメリカであまり売れなかったという話だが、むしろそれでいいのじゃないかと思う。)
労働力としてのレプリカントであれば、彼らは人間になれないのだろうか。
AIが進化し、思考し、感情を有するレプリカントと、人間の差異はどこにあるのか。
この作品では二つのキィワードがその差異を象徴する。
一つは主体性。
命令されたからそれを実行する。
それは、はじめに解任されるサッパー・モートンとのやりとりではっきりと示される。
Kは命令されたまま行動し、それには全く主体性はない。
ラヴ( シルヴィア・フークス)と名付けられたウォレス社のレプリカントにも同じことが言える。
レプリカントは主体性がなく、言われたことをそのままに遂行するところに、人間からみた価値がある。
だから、レジスタンスに誘うレプリカントたちは、Kに自己犠牲の意義を語るのだ。
人間らしさとは、自分を省みずに他者のために命をなげうつことだ、と。
それは、命令のために行われるものではない。
主体性がなければあり得ないことなのだ。
もう一つは創造性だ。
何かを生み出すことは、人間性の最も尊い営みの一つだ。
記憶の創造主としての アナ博士(カーラ・ジュリ)は、だからこそ意味がある。
レプリカントから生まれたはずの彼女は、レプリカントの人間性を司る部分、幼い記憶を創っていた。
それは、彼女がレプリカントではないことを明示する。
彼女は、人間でもかんたんにはできない、特別な技能を有していたということだ。
彼女は完全に〈人間〉であることを、暗示している。
だが、物語はその二つを象徴するかのように、一つのファクターに集約されている。
それが、「レプリカントは子を産めるのか」ということだ。
そしてその要素は、やはり他者を愛せるかという点にあった。
なぜなら、愛は主体的でなければならないし、創造性を伴うものだからだ。
子どもを産むという意味は、だからこそ重要なのだ。
【対話の物語】
この映画がおもしろいのは、この映画のほとんどの場面が「対話」で成り立っているという事実だ。
3人以上が同じ場面にいることが極端に少ない。
人物像がある登場人物はほとんどが1対1の形で画面に立つ。
そして、そのほとんどのやりとりは、たった一つのことを議題にしている。
「人間とは何か(レプリカントとの差異はなにか)」である。
そう考えると、この映画で登場する人物で、対話(議論する)両者が二人とも人間である場面がほとんどない事に気付く。
どちらか一方が、レプリカントかもしくは両方がレプリカントのどちらかだ。
彼らは〈人間〉に近づきたくて、人間とは何かを問うていく。
子どもが生まれるとはどういうことか。
その子どもはどこにいるのか。
誰との子なのか。
なぜその子を棄てたのか。
この木馬の記憶はいったい本物なのか。
こういった議論を通じて、人間とはどういうものなのかを浮き彫りにしていく。
ウォレス社長は、自分がすべてを支配する神になりたかった。
大量のレプリカントを創り出しながら、それでも再生産できないことに苛立っていた。
だが、彼にとってレプリカントはレプリカントでしかなく、人ではない。
だから、彼には人を生み出す(子を産む)レプリカントを生み出すことはできない。
これは技術的な問いではないからだ。(同時に、この映画は技術的な問いを立てるSFではないのだ。)
その部下であるラヴは、自身を最上の天使と呼び(だからウォレス社長は神なのだ)、社長の寵愛を必死に受けようとする。
非常に人間的で、執念深い。
だが、彼女はウォレスの奴隷に過ぎない。
だから、彼女は愛される対象ではなく、単なる道具でしかないことに気付かない。
社長とラヴの関係を、反転させたのが、Kとジョイの関係だ。
ジョイは非常にリアルなホログラムで、Kとの人間的な強い絆で結ばれる。
Kは後になって自分が人間になりたかったことに気付くが、そうさせたのは虚像であるジョイだ。
ジョイはKを人間にさせようとする。
愛をもってKに接するが、しかしその実体は虚像に過ぎない。
だから、ジョイはKを〈人間〉にすることはできないのだ。
それは、愛ではなく、Kの自己愛の陰にすぎないのだから。
(ジョイの男としてのジョー。
それは、虚像の男でしかないことを暗示する)
マダムと呼ばれるKのボスは、人間である。
人間であるがゆえに、レプリカントと人間の壁を常に意識できるように心がけている。
レプリカントに触れることがおおい彼女にとって、それがなければ自分が人間であることを保証されなくなる。
Kだけではなく、彼女にとっても、レプリカントが何か、人間が何かを線引きすることは、非常に重要でありながら、そして非常に難しいことがわかる。
【人間になたりたかった自分に気づくK】
農民のレプリカントを解任したとき、Kは明らかに解任する側であり、解任される側ではなかった。
それはレプリカントであることを自覚し、暴走した(不要になった)レプリカントを解任する者だった。
それに対して、自分がレプリカントから生まれた奇跡の子ではなかったとわかったときの、Kの絶望は何を示すのか。
彼はそのとき、自分がレプリカントではなく、人間であることを期待していたことに気づく。
この物語の最もドラスティックな変化と言ってもいい。
生まれたレプリカントを殺すことを、任務としていたはずなのに、自分の出生、自分の人間である可能性を追求していたことを知った。
デッカードと対話したとき、「俺が息子だけどな」という顔をしていたことでも分かる。
そして、それに絶望する自分に気づいた。
自分は単なるレプリカントであり、特別なレプリカント=〈人間〉ではなかったのだ。
これは、自分が冒頭で解任したレプリカントと同じ立場に立っているということだ。
奇跡を期待する自分と、奇跡そのものにはなれなかった自分。
そして、それに絶望する自分。
だが、ここで観客は、自分がレプリカントではないことを保証するものが何一つないことに気づかされるだろう。
彼の絶望は、私たちが"自分が人間なのかレプリカントなのか"を見失うこととほとんど等しくなっている。
そもそも、この映画に、人間はどれだけいたのだろう。
そして、どれだけレプリカントがいたのだろう。
レプリカントを問いながら、〈人間〉を問いながら、そのほとんどが見分けがつかなくなっている。
どんなレプリカントも、非常に〈人間〉らしい。
けれども、皆が〈人間〉であることを問う。
レプリカントから生まれたアナ博士は、Kの記憶を探ったとき涙した。
その涙は、あなたもまた創られたレプリカントに過ぎない、それでも人間でありたいのか、という同情の涙ではなかったか。
あるいは、特別でないKに特別かもしれないという希望を与えてしまったということへの謝罪の涙だったのか。
この映画の最後の対話は、父親と娘という、はじめて「人間」同士が向かいあう形になる。
それは愛する者との〈再会〉であり、人間であることの相互確認でもある。
繰り返すが、この映画はSFの形をとっているが、非常に哲学的なダイアローグという展開をとる。
お互いが「人間とは何か」を題目とした議論を繰り広げる。
だが、私たちはこの議論を見ながら、Kに感情移入しながら、人間という存在がひどく曖昧で、人工的なレプリカントとほとんど境界のないものであることを感じるだろう。
そして、それは、私たち自身がレプリカントかもしれないということを示唆する。
だから、Kが「特別ではない」ことを突きつけられたとき、私たちもまた動揺するのだ。
特別ではない私が、大量生産されたレプリカントと一線を画するのは、いったいなんなのか。
それはもしかしたら、降り積もる雪を眺めるKと同じように、「人間でありたいこと」なのかもしれない。
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