評価点:62点/2017年/アメリカ/105分
監督:マイケル・グレイシー
「本物」を求めた男。
服の仕立て屋の息子だったバーナム(ヒュー・ジャックマン)は、一人の貴族の少女チャリティ(ミシェル・ウィリアムズ)に惚れる。
やがて父親が死に、食うも食われぬという生活の中で、彼女への想いを募らせ、手紙のやりとりを経て無一文で結婚する。
貧しいながら二人の娘にも恵まれ、幸せな生活を送っていたが、バーナムの鉄道会社が倒産し、窮地に立たされる。
そこで彼はかねてから考えていたショウビジネスを手がけることを思いつくが。
「ラ・ラ・ランド」を手がけたスタッフと、「レ・ミゼラブル」のヒュー・ジャックマン主演のミュージカル。
この晩冬の一つの目玉である。
公開直後に見に行けたのは、ラッキーだった。
ほぼ座席は満員、退出するのに時間がかかった映画は久しぶりだ。
「ラ・ラ・ランド」が好きだった人なら、この映画は見にいく価値があるかもしれない。
私は、予想通り、外れた。
▼以下はネタバレあり▼
バーナムは貧しい家庭に育ち、成り上がりで成功者となる。
アメリカン・ドリームの走りと言えよう。
その彼が求め続けたのは、「本物」ということだ。
勢いとアイデア、工夫やはったりだけで生きてきた彼は、成功するとともに、「本物であること」が重要であることを身にしみて実感していく。
本物でないから、バレエダンスをやっている娘はいじめられる。
本物でないから、豪邸に住んでも義父母は自分を評価しない。
本物でないから、成功してもサーカスといわれ罵られる。
本物であるべきだと考えて、ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン)に興行の参加を求めて、上流貴族たちにも通用するショウを行う事を決める。
リンドは、彼の本気を知り、心を込めて歌う。
彼女はバーナムの中に愛を見出し、だからこそ、人々を震わせるほどの歌声を披露できた。
この映画の最大の見所は、彼女の歌声だろう。
(どうやら歌声は吹き替えらしいけれども)
悲哀と愛情に満ちた歌声は、全米を席巻していく。
だが、バーナムは求めていた本物は、誰かにラベリングされることではないことに気づき始める。
本当に大切なのは権威付けされるような「本物」ではなく、目の前にあるものを愛せるかどうかであるということである、と気づくのだ。
だから、バーナムはリンドに付帯するのを辞めて、東海岸に戻ってくる。
しかし、そこにあったのは焼け果てたサーカス座だった。
お金や権威ではない本物を求めていくのが、この映画の物語の梗概だろう。
本気になれるものは、本物となっていき、ただ伝統だけで先入観に囚われていた人々は、その価値を見出すことができない。
迫害されていた「ユニークな」人々が、自分の居場所を見出していくというのは、アメリカでは「鉄板ネタ」だ。
特にトランプ政権になって人種差別がクローズアップされている昨今にあって、個性を大切にする、偏見なしに同じように愛する、といったメッセージは人々の心を広くつかむだろう。
個性ある弱者が、偏見を持った権力者に克っていく。
とてもオーソドックスな話となっている。
アカデミー賞でも高評価を得るだろうということは、十分に予想できる。
だが、それだけだ。
この映画はそれ以上のしかけは何もない。
もっと言えば、それは映画を観る前から予告編で嫌と言うほど知らされていた筋書きだ。
驚きはない。
それ以上の「なにか」はなかった。
この映画が「本物」になれなかった決定的な理由だ。
なぜなのか。
この映画も、人間が描かれていないからだ。
筋書き通りの物語が一方的に進んでいき、そこにはステレオタイプの「こういう人間って多いよね」というような浅薄な描かれ方しかしないのだ。
それもそのはずだ。
楽曲がすべて人間性を描き出そうとするものではなく、その場の気持ちの表出にすぎない。
個性を歌っていながら、無個性になるという皮肉が起こっている。
特にバーナムの深さがない。
ここまでパワフルに、ここまで奇術が得意なのはどこに源泉があるのか。
貧乏だった反骨精神とするには、あまりにもとんとん拍子に話が進みすぎる。
ラストで、ザック・エフロンにその座を譲るのも、なんだか違和感がある。
繰り返すようだが、その中で唯一人間が描かれているのが、リンドだ。
あの歌声の素晴らしさが、(吹き替えであっても)リンドの孤独と愛に支えられたものだとすると、これ以上のシークエンスはない。
上映時間の問題や、登場人物の映画の中でのウェイトの問題でもない。
人間を描こうとするかどうかという点にあった気がする。
「ヘアスプレー」や「スクール・オブ・ロック」のように、面白いけれど人々に忘れ去られていく、そういう作品だと思う。
監督:マイケル・グレイシー
「本物」を求めた男。
服の仕立て屋の息子だったバーナム(ヒュー・ジャックマン)は、一人の貴族の少女チャリティ(ミシェル・ウィリアムズ)に惚れる。
やがて父親が死に、食うも食われぬという生活の中で、彼女への想いを募らせ、手紙のやりとりを経て無一文で結婚する。
貧しいながら二人の娘にも恵まれ、幸せな生活を送っていたが、バーナムの鉄道会社が倒産し、窮地に立たされる。
そこで彼はかねてから考えていたショウビジネスを手がけることを思いつくが。
「ラ・ラ・ランド」を手がけたスタッフと、「レ・ミゼラブル」のヒュー・ジャックマン主演のミュージカル。
この晩冬の一つの目玉である。
公開直後に見に行けたのは、ラッキーだった。
ほぼ座席は満員、退出するのに時間がかかった映画は久しぶりだ。
「ラ・ラ・ランド」が好きだった人なら、この映画は見にいく価値があるかもしれない。
私は、予想通り、外れた。
▼以下はネタバレあり▼
バーナムは貧しい家庭に育ち、成り上がりで成功者となる。
アメリカン・ドリームの走りと言えよう。
その彼が求め続けたのは、「本物」ということだ。
勢いとアイデア、工夫やはったりだけで生きてきた彼は、成功するとともに、「本物であること」が重要であることを身にしみて実感していく。
本物でないから、バレエダンスをやっている娘はいじめられる。
本物でないから、豪邸に住んでも義父母は自分を評価しない。
本物でないから、成功してもサーカスといわれ罵られる。
本物であるべきだと考えて、ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン)に興行の参加を求めて、上流貴族たちにも通用するショウを行う事を決める。
リンドは、彼の本気を知り、心を込めて歌う。
彼女はバーナムの中に愛を見出し、だからこそ、人々を震わせるほどの歌声を披露できた。
この映画の最大の見所は、彼女の歌声だろう。
(どうやら歌声は吹き替えらしいけれども)
悲哀と愛情に満ちた歌声は、全米を席巻していく。
だが、バーナムは求めていた本物は、誰かにラベリングされることではないことに気づき始める。
本当に大切なのは権威付けされるような「本物」ではなく、目の前にあるものを愛せるかどうかであるということである、と気づくのだ。
だから、バーナムはリンドに付帯するのを辞めて、東海岸に戻ってくる。
しかし、そこにあったのは焼け果てたサーカス座だった。
お金や権威ではない本物を求めていくのが、この映画の物語の梗概だろう。
本気になれるものは、本物となっていき、ただ伝統だけで先入観に囚われていた人々は、その価値を見出すことができない。
迫害されていた「ユニークな」人々が、自分の居場所を見出していくというのは、アメリカでは「鉄板ネタ」だ。
特にトランプ政権になって人種差別がクローズアップされている昨今にあって、個性を大切にする、偏見なしに同じように愛する、といったメッセージは人々の心を広くつかむだろう。
個性ある弱者が、偏見を持った権力者に克っていく。
とてもオーソドックスな話となっている。
アカデミー賞でも高評価を得るだろうということは、十分に予想できる。
だが、それだけだ。
この映画はそれ以上のしかけは何もない。
もっと言えば、それは映画を観る前から予告編で嫌と言うほど知らされていた筋書きだ。
驚きはない。
それ以上の「なにか」はなかった。
この映画が「本物」になれなかった決定的な理由だ。
なぜなのか。
この映画も、人間が描かれていないからだ。
筋書き通りの物語が一方的に進んでいき、そこにはステレオタイプの「こういう人間って多いよね」というような浅薄な描かれ方しかしないのだ。
それもそのはずだ。
楽曲がすべて人間性を描き出そうとするものではなく、その場の気持ちの表出にすぎない。
個性を歌っていながら、無個性になるという皮肉が起こっている。
特にバーナムの深さがない。
ここまでパワフルに、ここまで奇術が得意なのはどこに源泉があるのか。
貧乏だった反骨精神とするには、あまりにもとんとん拍子に話が進みすぎる。
ラストで、ザック・エフロンにその座を譲るのも、なんだか違和感がある。
繰り返すようだが、その中で唯一人間が描かれているのが、リンドだ。
あの歌声の素晴らしさが、(吹き替えであっても)リンドの孤独と愛に支えられたものだとすると、これ以上のシークエンスはない。
上映時間の問題や、登場人物の映画の中でのウェイトの問題でもない。
人間を描こうとするかどうかという点にあった気がする。
「ヘアスプレー」や「スクール・オブ・ロック」のように、面白いけれど人々に忘れ去られていく、そういう作品だと思う。
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