評価点:76点/2019年/韓国/132分
監督・脚本:ポン・ジュノ
対比と反復の文体。
韓国の最下層の人間たちが住む、半地下でキム一家は生活していた。
息子のギウ(チェ・ウシク)は、大学受験に失敗し、しかし金銭的な余裕はなく予備校などに行くことはできない。
美大に進もうとしたが失敗した姉のギジョン(パク・ソダム)もまた定職がなかった。
父親と母親の二人も、働き先がなく、内職をするだけ。
そんな一家の元へ息子のギウの同級生が、自分の家庭教師の仕事を引き継ぐように頼みに来る。
ケビンと偽名を名乗ったギウは大富豪パク一家の高校2年生ダヘの家庭教師になることになったが……。
アカデミー賞の作品賞などの主要な部門に輝いた、韓国映画史上、記念碑的な作品だ。
ずいぶん前から公開しているが、見に行く機会を逸して、ここまで伸びてしまった。
すでに様々な議論や解説がされているので、完全に乗り遅れた形だが、まだ見に行っていない人は、コロナの影響もあってまだ公開中なのでいけばいいと思う。
アメリカ映画が好きな人は、韓国の映画に対する毛嫌いなどもあるだろうが、そんなことを関係なしに見ればいいと思う。
映画としての完成度はしっかりしたものだし、だからといってオスカーにふさわしいかはまた別の議論だが、今の時代に見るべきテーマを扱っていることは間違いない。
この映画を見て「韓国って大変、日本で良かった」という感想を持ったとしたら、相当鈍感な人だ。
この時代、システムなどに違いがあっても、どの国でも起こっている普遍性を描いている。
だからこそ、アメリカで評価されたのだし、注目されたのだ。
そういう意味で、一つのトレンドをしっかりと捕まえた作品だと言えるだろう。
▼以下はネタバレあり▼
もうすでに様々な解釈や解説が流布されているので、今更語るのは完全に後出しじゃんけんのようになるのだが、私なりの解釈を書いておこう。
なお、例によって他の人の解説などは一切見ていない。
議論になるような巧さを私自身はそこまで感じられなかったので(良い映画ではあるが)、もっと深い解釈があるのかもしれない。
この映画が成功しているのは、富裕層と貧困層をしっかりと対比しながら、貧困層が富裕層に入り込んでいく、という展開を思いついたからだろう。
また、その構造と展開を考えた時点から、しっかりとそれを映画として見せる手法も、正しかった。
韓国は日本よりも格差が拡大しているというのは、早くから指摘されてきたことだ。
だが、それは比較の(程度の)問題であり、この映画が日本も含む資本主義社会が直面している、貧困と富裕との断絶や分断を普遍的に描いているのは変わりがない。
キム一家は貧しく、韓国でも最下層の住宅に住んでいる。
定職はなく、生きることにやっとだ。
その長男のギウが友達のつてで家庭教師をやることになった。
その一家は、キム一家とは正反対の富裕層で、有名建築家がデザインしたという高級住宅に住んでいる。
そのパク一家は、一人の家政婦がすべての家事をこなし、妻は暇を持て余している。
長女はおませな女子高校生で、家庭教師をつけてもらわないと勉強もままならない少女だ。
小学生の息子は自由気ままに育ち、絵を描くのが好きだけれども、人の言うことを聞くことができず、落ち着きがない。
一家の大黒柱である、ドンイクはIT企業の社長で、家のことはすべて妻に任せきりである。
パク一家は全く機能不全に陥っている。
妻は家事や育児をすることができず、夫は妻にそういうことを期待したりもしていない。
彼らはお互いの家族に関心がない。
子どもがあれほど自由に振る舞おうとするのは、母親の気を引きたいからだ。
だが、母親はそれを一種の「異状」だと思っている。
だから、専門家を探しては失敗している。
本当に大切なのは、息子にしっかりと向き合うことなのに、彼女はそれをする気がない。
運転手として入り込んだキム・ギテク(ソン・ガンホ)が、夫のドンイクに「愛しているんですね」と問いかけたとき、「これは愛だろうな」という答え方をする。
夫も妻も、人として愛しているわけではない。
ただ役割を演じているだけである。
だから、テントで怖がっている息子をほったらかしにして二人は寝ることができる。
息子に関心がないからだ。
そもそも自分達が買った家なのに、地下室があることも知らないのだ。
パク一家は、だから生活力がない。
経済力はあっても、料理一つ、家政婦がいなければ誰も作れない。
重要なのは、パラサイトしていくキム一家は、何も専門的な運転技術も、家政婦的な経験も、絵画的療法も学んでいない、という点だ。
それなのに演じてしまえるのは、パク一家と対照的に、彼らには生きる力があるのだ。
家政婦でもない一般的な貧困層の主婦であるチョンスク(チャン・ヘジン)でも、簡単にできることを、パク一家の妻はできない。
この対比が重要なのだ。
だが、キム一家はこういう方法をとることができなければ、仕事にありつくこともできない。
能力の有無ではない、貧困だから貧困から抜け出すことができない、という堂々巡りの状態にある。
怠惰でもない、意欲がないわけでもない。
ただ、どうしようもないから、どうしようもない状況から抜け出すことができない。
これが、深刻な貧困となっている。
まった生きる力がないパク一家は、富裕層であるから富裕層でいられる。
監督も話をしていたが、パラサイトされているパク一家もまた、何もできないという意味でパラサイトしているのだ。
この依存関係が、成立した時点で、この映画は成功している。
良い映画は、必然性と意外性をともにもつ。
なぜ今までだれも描かなかったのか、これほどわかりやすい対比は誰もが思いつきそうだったのに。
そういう映画こそ、良い映画なのだ。
さて、この映画のトリック、巧さはもう一つある。
それは重要なことは必ずリフレイン(反復)されるということだ。
私が最初に気づいたのは、息子のキム・ギウが「俺はダヘと結婚するつもりだ」と家族に宣言するところだ。
この台詞は冒頭の友人が「おれはダヘと結婚するつもりだ」というのと全く同じだ。
このシークエンスからわかるのは、ダヘは「どの家庭教師とも恋愛関係になっている」ということだ。
なぜか。
言うまでもなく、彼女は勉強なんて興味がなく、ただ、自分を肯定してくれる男性を求めているからだ。
ギウや、ミニョクが魅力的なのではない。
彼女は恋に恋しているのだ。
それは、この家族のどこにも自分の居場所がないからだ。
必死になって日記を付けているのも、「誰にも見られたくない」からではない。
「誰かに自分を見つけて欲しい」からなのだ。
そうでなければ、家政婦にみつかるかもしれない木箱に鍵も付けないで入れっぱなしで旅行に行くはずがない。
そう考えると、この映画はすべて重要なシークエンスは二度繰り返される。
映画の最初と最後の半地下からの風景、ギテクがドンイクに「愛しているんですか」という台詞、秘密の部屋でうっかり踏み外す→石をうっかり落としてしまう、などだ。
当然、ダヘとキスすするのも二度描かれることにも意味がある。(恋愛の始まりと終わり)
この手法じたいは目新しいものではない。
むしろ古い手法だと言っていい。
だが、このリフレインは映画のテーマと密接に関わっている。
二度繰り返される。
それは、物語の終幕、ギテクが秘密の地下室に籠城している、というところに結びつくからだ。
ギテクは地下室に住む男グンセの存在を知り、彼を排除することで、(結果的に)犯罪者となり、自分がその部屋の主になってしまう。
彼は地下室にこもり、外に出ることができない、実質的な監禁状態となる。
ギテクは、グンセになったのだ。
だから、ラストで息子のギウが父親を出すために、金を稼ぐ、と誓いを立てるが、実際にはできない。
彼が出るには、別の誰かをその部屋に入れることでしかでることはできない。
なぜなら、あの家は韓国という国の象徴だからだ。
誰かが作った、どこにどんな部屋があるかを家主すら知らないシステムの中で、誰かが地下室に閉じこもらなければあの家は家として成り立たない。
パラサイトしているのは、グンセやギテクだけではない。
家主もまたあの家、韓国という国にパラサイトしているのだ。
だから、地下室からギテクが出てくることはない。
そういう構造なのだ。
リフレインの意味はだから重たい。
繰り返されるこの悲劇は、弱者を蹴りながら自分を這い上がらせる以外にない、そういう構造で生まれたものだ。
ラスト、ギウの語りがいきなり始まり、彼の誓いを立てるところで物語は終わる。
しかし、私は本当にあの点滅する光を、彼は見つけたのだろうかと疑っている。
実はそんなものはなくて、彼は「父親があの部屋に閉じこもっていることだけ」を生きるためのプランとして握りしめる決心をしたのではないか。
あの光は誰にも知られることはないし、たとえ点滅していたとしても、それがギテクが出したものかどうかもわからない。
分かっているのは、それをギウがメッセージとして受け取ったという点だけだ。
だが、生きていても生きていなくても、あのメッセージが嘘でも本当でも、どちらでも良いことだ。
問題は、あの家じたいが、この韓国という国の象徴であるという点だ。
誰かが作った家に、いきなり住み始め、家主はそこに住む地下室の存在さえ知らない。
実は彼らのほうが、その家に長く住んでいるにも関わらずだ。
そしてそれは繰り返されている。
今も。
闇は深い。
どこにも出口はない。
非常にうまく撮られているが、私はそれほど心を打たれなかった。
一つは目新しい手法というよりは、発想で勝ってしまったところが強いから。
もう一つは、いくらなんでも少し強引だ、ということだ。
特に、パクが殺されたにも関わらず、あの秘密の部屋の存在が、結局だれも見つけられなかったというのはいくらなんでも不自然すぎる。
襲いかかってきたのが、長年行方不明になっていた犯罪者であることは、すぐに分かったはずだ。
どこに、どのように隠れていたのか、その妻がこの家に家政婦として雇われていたことも、必然的に分かるはずだ。
オチまでのラストを少し、急ぎすぎた(カタルシスを生み出すために)印象は拭えない。
とはいえ、これまでありそうでだれも形にできなかったこのような「寄生する家族」を描いた時点で、ポン・ジュノの勝ちであることは間違いない。
監督・脚本:ポン・ジュノ
対比と反復の文体。
韓国の最下層の人間たちが住む、半地下でキム一家は生活していた。
息子のギウ(チェ・ウシク)は、大学受験に失敗し、しかし金銭的な余裕はなく予備校などに行くことはできない。
美大に進もうとしたが失敗した姉のギジョン(パク・ソダム)もまた定職がなかった。
父親と母親の二人も、働き先がなく、内職をするだけ。
そんな一家の元へ息子のギウの同級生が、自分の家庭教師の仕事を引き継ぐように頼みに来る。
ケビンと偽名を名乗ったギウは大富豪パク一家の高校2年生ダヘの家庭教師になることになったが……。
アカデミー賞の作品賞などの主要な部門に輝いた、韓国映画史上、記念碑的な作品だ。
ずいぶん前から公開しているが、見に行く機会を逸して、ここまで伸びてしまった。
すでに様々な議論や解説がされているので、完全に乗り遅れた形だが、まだ見に行っていない人は、コロナの影響もあってまだ公開中なのでいけばいいと思う。
アメリカ映画が好きな人は、韓国の映画に対する毛嫌いなどもあるだろうが、そんなことを関係なしに見ればいいと思う。
映画としての完成度はしっかりしたものだし、だからといってオスカーにふさわしいかはまた別の議論だが、今の時代に見るべきテーマを扱っていることは間違いない。
この映画を見て「韓国って大変、日本で良かった」という感想を持ったとしたら、相当鈍感な人だ。
この時代、システムなどに違いがあっても、どの国でも起こっている普遍性を描いている。
だからこそ、アメリカで評価されたのだし、注目されたのだ。
そういう意味で、一つのトレンドをしっかりと捕まえた作品だと言えるだろう。
▼以下はネタバレあり▼
もうすでに様々な解釈や解説が流布されているので、今更語るのは完全に後出しじゃんけんのようになるのだが、私なりの解釈を書いておこう。
なお、例によって他の人の解説などは一切見ていない。
議論になるような巧さを私自身はそこまで感じられなかったので(良い映画ではあるが)、もっと深い解釈があるのかもしれない。
この映画が成功しているのは、富裕層と貧困層をしっかりと対比しながら、貧困層が富裕層に入り込んでいく、という展開を思いついたからだろう。
また、その構造と展開を考えた時点から、しっかりとそれを映画として見せる手法も、正しかった。
韓国は日本よりも格差が拡大しているというのは、早くから指摘されてきたことだ。
だが、それは比較の(程度の)問題であり、この映画が日本も含む資本主義社会が直面している、貧困と富裕との断絶や分断を普遍的に描いているのは変わりがない。
キム一家は貧しく、韓国でも最下層の住宅に住んでいる。
定職はなく、生きることにやっとだ。
その長男のギウが友達のつてで家庭教師をやることになった。
その一家は、キム一家とは正反対の富裕層で、有名建築家がデザインしたという高級住宅に住んでいる。
そのパク一家は、一人の家政婦がすべての家事をこなし、妻は暇を持て余している。
長女はおませな女子高校生で、家庭教師をつけてもらわないと勉強もままならない少女だ。
小学生の息子は自由気ままに育ち、絵を描くのが好きだけれども、人の言うことを聞くことができず、落ち着きがない。
一家の大黒柱である、ドンイクはIT企業の社長で、家のことはすべて妻に任せきりである。
パク一家は全く機能不全に陥っている。
妻は家事や育児をすることができず、夫は妻にそういうことを期待したりもしていない。
彼らはお互いの家族に関心がない。
子どもがあれほど自由に振る舞おうとするのは、母親の気を引きたいからだ。
だが、母親はそれを一種の「異状」だと思っている。
だから、専門家を探しては失敗している。
本当に大切なのは、息子にしっかりと向き合うことなのに、彼女はそれをする気がない。
運転手として入り込んだキム・ギテク(ソン・ガンホ)が、夫のドンイクに「愛しているんですね」と問いかけたとき、「これは愛だろうな」という答え方をする。
夫も妻も、人として愛しているわけではない。
ただ役割を演じているだけである。
だから、テントで怖がっている息子をほったらかしにして二人は寝ることができる。
息子に関心がないからだ。
そもそも自分達が買った家なのに、地下室があることも知らないのだ。
パク一家は、だから生活力がない。
経済力はあっても、料理一つ、家政婦がいなければ誰も作れない。
重要なのは、パラサイトしていくキム一家は、何も専門的な運転技術も、家政婦的な経験も、絵画的療法も学んでいない、という点だ。
それなのに演じてしまえるのは、パク一家と対照的に、彼らには生きる力があるのだ。
家政婦でもない一般的な貧困層の主婦であるチョンスク(チャン・ヘジン)でも、簡単にできることを、パク一家の妻はできない。
この対比が重要なのだ。
だが、キム一家はこういう方法をとることができなければ、仕事にありつくこともできない。
能力の有無ではない、貧困だから貧困から抜け出すことができない、という堂々巡りの状態にある。
怠惰でもない、意欲がないわけでもない。
ただ、どうしようもないから、どうしようもない状況から抜け出すことができない。
これが、深刻な貧困となっている。
まった生きる力がないパク一家は、富裕層であるから富裕層でいられる。
監督も話をしていたが、パラサイトされているパク一家もまた、何もできないという意味でパラサイトしているのだ。
この依存関係が、成立した時点で、この映画は成功している。
良い映画は、必然性と意外性をともにもつ。
なぜ今までだれも描かなかったのか、これほどわかりやすい対比は誰もが思いつきそうだったのに。
そういう映画こそ、良い映画なのだ。
さて、この映画のトリック、巧さはもう一つある。
それは重要なことは必ずリフレイン(反復)されるということだ。
私が最初に気づいたのは、息子のキム・ギウが「俺はダヘと結婚するつもりだ」と家族に宣言するところだ。
この台詞は冒頭の友人が「おれはダヘと結婚するつもりだ」というのと全く同じだ。
このシークエンスからわかるのは、ダヘは「どの家庭教師とも恋愛関係になっている」ということだ。
なぜか。
言うまでもなく、彼女は勉強なんて興味がなく、ただ、自分を肯定してくれる男性を求めているからだ。
ギウや、ミニョクが魅力的なのではない。
彼女は恋に恋しているのだ。
それは、この家族のどこにも自分の居場所がないからだ。
必死になって日記を付けているのも、「誰にも見られたくない」からではない。
「誰かに自分を見つけて欲しい」からなのだ。
そうでなければ、家政婦にみつかるかもしれない木箱に鍵も付けないで入れっぱなしで旅行に行くはずがない。
そう考えると、この映画はすべて重要なシークエンスは二度繰り返される。
映画の最初と最後の半地下からの風景、ギテクがドンイクに「愛しているんですか」という台詞、秘密の部屋でうっかり踏み外す→石をうっかり落としてしまう、などだ。
当然、ダヘとキスすするのも二度描かれることにも意味がある。(恋愛の始まりと終わり)
この手法じたいは目新しいものではない。
むしろ古い手法だと言っていい。
だが、このリフレインは映画のテーマと密接に関わっている。
二度繰り返される。
それは、物語の終幕、ギテクが秘密の地下室に籠城している、というところに結びつくからだ。
ギテクは地下室に住む男グンセの存在を知り、彼を排除することで、(結果的に)犯罪者となり、自分がその部屋の主になってしまう。
彼は地下室にこもり、外に出ることができない、実質的な監禁状態となる。
ギテクは、グンセになったのだ。
だから、ラストで息子のギウが父親を出すために、金を稼ぐ、と誓いを立てるが、実際にはできない。
彼が出るには、別の誰かをその部屋に入れることでしかでることはできない。
なぜなら、あの家は韓国という国の象徴だからだ。
誰かが作った、どこにどんな部屋があるかを家主すら知らないシステムの中で、誰かが地下室に閉じこもらなければあの家は家として成り立たない。
パラサイトしているのは、グンセやギテクだけではない。
家主もまたあの家、韓国という国にパラサイトしているのだ。
だから、地下室からギテクが出てくることはない。
そういう構造なのだ。
リフレインの意味はだから重たい。
繰り返されるこの悲劇は、弱者を蹴りながら自分を這い上がらせる以外にない、そういう構造で生まれたものだ。
ラスト、ギウの語りがいきなり始まり、彼の誓いを立てるところで物語は終わる。
しかし、私は本当にあの点滅する光を、彼は見つけたのだろうかと疑っている。
実はそんなものはなくて、彼は「父親があの部屋に閉じこもっていることだけ」を生きるためのプランとして握りしめる決心をしたのではないか。
あの光は誰にも知られることはないし、たとえ点滅していたとしても、それがギテクが出したものかどうかもわからない。
分かっているのは、それをギウがメッセージとして受け取ったという点だけだ。
だが、生きていても生きていなくても、あのメッセージが嘘でも本当でも、どちらでも良いことだ。
問題は、あの家じたいが、この韓国という国の象徴であるという点だ。
誰かが作った家に、いきなり住み始め、家主はそこに住む地下室の存在さえ知らない。
実は彼らのほうが、その家に長く住んでいるにも関わらずだ。
そしてそれは繰り返されている。
今も。
闇は深い。
どこにも出口はない。
非常にうまく撮られているが、私はそれほど心を打たれなかった。
一つは目新しい手法というよりは、発想で勝ってしまったところが強いから。
もう一つは、いくらなんでも少し強引だ、ということだ。
特に、パクが殺されたにも関わらず、あの秘密の部屋の存在が、結局だれも見つけられなかったというのはいくらなんでも不自然すぎる。
襲いかかってきたのが、長年行方不明になっていた犯罪者であることは、すぐに分かったはずだ。
どこに、どのように隠れていたのか、その妻がこの家に家政婦として雇われていたことも、必然的に分かるはずだ。
オチまでのラストを少し、急ぎすぎた(カタルシスを生み出すために)印象は拭えない。
とはいえ、これまでありそうでだれも形にできなかったこのような「寄生する家族」を描いた時点で、ポン・ジュノの勝ちであることは間違いない。
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