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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

この世界の(さらにいくつもの)片隅に

2020-03-27 15:57:58 | 映画(か)
評価点:83点/2019年/日本/168分

監督:片渕須直

原作:こうの史代

特別でなくてもいい。普通でいい。

浦野すず(声:のん)は、おっとりした性格で、広島で海苔業を営む一家に生まれた。
世は、のちの第二次世界大戦(大東亜戦争)に突入しようかという時代だった。
19歳になったすずのもとに、突然縁談が持ち上がる。
どういう人なのかわからないまま祝言を済ませたすずは、北條という姓になった。
時代はいよいよ戦争に向かって加速していく……。

2016年の公開の「この世界の片隅に」を、大幅にシークエンスを増やして再編集した作品である。
私はまったくそのコンセプトを分かっておらず、ディレクターズ・カット版なのだろうと思って劇場に向かった。
原作は10年近く前に読んで、記憶はかなりあやしい。
前作となる「この世界の片隅に」は残念ながら見ておらず、差異はわからない。

恐らくこの映画を見る人は、前作や原作を知っている人たちばかりだろうから、下の批評はすこし的外れかもしれない。
前作はクラウドファンディングで資金を集めて、大成功した作品だ。
新しい映画の制作の形を成功させた野心的な作品でもあった。

この作品は、タイトルだけみると単なる再編集版のように感じるが、実際には全く新しい物語として立ち上げた別の作品である。
もちろん、大きな流れは同じ原作を元にしているわけで、同じなのだろうが、そのテーマは異なるようだ。
公開からずいぶん時間が経って、時間を見つけて見に行くことができた。

戦争、とくに広島の原爆をモティーフにしていることもあり、敬遠する人もいるだろうが、現代こそこういう映画が必要である気がする。
ぜひ、体験してもらいたい。

▼以下はネタバレあり▼

先に書いたが、私には原作や原作との比較はできない。
だから今から書こうとするものが、本当に作品を鑑賞するのに適当なものになっているのかはわからない。
特にクラウドファンディングという形で制作された本作品は、原作や前作をよく知る人たちが観客の多くを占めることが予想される映画だ。
だから、私のような一見さんの読みはもしかしたら間違えているかもしれない。
そのあたりは、読みの一つとしてご容赦いただきたい。

私はいつもパンフレットを買う。
買って殆ど読まないことが多いのだが、今回はどういうコンセプトで作られたのか知りたかったので、鑑賞後に開いた。
その中でアニメ評論家の藤津亮太が、この映画の解説を書いている。
彼の解説が、かなり的を射ていたものになっているので、詳しくはそっちを読んでもらえばいいと思う。
私の批評が彼の解説から影響を受けていることは明記しておこう。

さて、この映画は、原作を正しく映像化、映画化している希有な作品だろう。
原作の雰囲気、物語を、きちんと切り取っている。
原作は、「反戦でも美化でもない戦争の物語を描くこと」「戦争の中にあった日常を描くこと」をコンセプトとしている。
(と私の妻が話していた。)
この映画も、日本映画なら陥りがちな、「間違いでかわいそうな第二次世界大戦」か「勇猛果敢で現代の私たちのために散っていった正しい大東亜戦争」かというどちらでもない描き方をしている。
いや、もっというなら、殆ど先の世界大戦については描かれていない。

戦争や世間、時代について無頓着なすずという女性を通して描かれる物語では、歴史的、社会的な出来事はすべて文字通り背景として描かれる。
彼女の心の中にある関心事は、戦争の成否や、勝敗ではない。
それは、日常の食事であり、家族の無事であり、自分という存在である。
日常が描かれているということで、物語は大きな起伏もなく、たんたんと進む。
一見すると、物語として成り立たないような些末なことが羅列的に描かれていく。

わかりやすいようで、わかりにくい。
この映画はどういう物語を描いているのだろうか。

藤津亮太が書いているのように、可能性の物語である。
すずは、自分がそういう存在なのかということを迷い続ける。
とくに白木リン(声:岩井七世)との出会いが彼女を大きく迷わせる。
優しくまじめな夫、北條周作(声:細谷佳正)は上司に連れて行ってもらった遊郭で知り合った女性に同情し結婚を決意する。
しかし、周囲からの説得によって断念、その代わり幼少期に人さらいから逃れたことのある、浦野すずを嫁にもらうと言った。
突然の縁談で驚いたすずだったが、すでに周作に対する気持ちが固まっていたとき、リンの存在を知ってしまう。
夫にとっての、理想の女性は私なのか、リンだったのか。
有り得たかもしれない可能性を、彼女は逡巡する。

もし選ばれたのがリンだったら。
もしすずに子どもが生まれていたら。
もし姪っ子の晴美が死んでいなかったら。
もしこの手を失っていなかったら。
連鎖する「もし」は、彼女を危うくする。

彼女の結論は、「広島の実家に帰る」ということだった。
誰も知らないところに、嫁に来て、夫からの愛を受けられないとすれば、すずにはここにいる価値がない。
跡継ぎを生むこともできなかった。
家を守るといっても腕を失ってしまった彼女には、十分に役割を果たすことはできない。

だが、そのとき夫の姉が謝罪され「ここがすずの居場所である」ことを告げられたとき、すずの中で一つの答えが出る。
それは、リンが言った「そんなかんたんに居場所がなくなるなんてことはない」ということばだ。
役割があるから居場所が生まれるのではない。
自分がかけがえのない存在であるから、居場所があるのではない。
人の価値や理由、居場所というのはそんなにかんたんに失われるものではない。

有り得たかもしれない可能性と、あり得なかった現実と、戻せない過去。
それらは、呼応しつつ一つの現実となって紡がれていく。
私はかけがえない。
だが、代わりはいくらでもいる。
代わりがいるからといって、その人は「いなくてもいい」「いないほうがいい」というわけではない。
いま目の前にいるあなたは、わたしだったかもしれない。
矛盾するようなこの答えは、しかし、映画の中で繰り返し描かれている。

幼少期の座敷童、終戦後浦野家に逃げ込む兄弟、広島で見つけた浮浪児、これらは自分だったかもしれない、あるいは自分の子どもだったかもしれない人々だ。
命や自分というのは一つではない。
有り得たかもしれない誰かを私は生きている。
それは私という存在が脅かされるということではない。
それは私という存在が不要ということではない。

こういうことをことばで書いてしまうとばかばかしいし、とても興がそがれるのだが、このあやういバランスと矛盾の中に存在する人間の在り方がそこにはある。

この映画がまさにこの時代に映画として制作されなければならなかったのは、言うまでもなく東日本大震災があったからだろう。
空襲や原爆投下は、天災ではない。
だが、焼け野原になった町の様子は、まるで東日本大震災後の津波が襲った東北のようだ。
救えたかもしれない命。
助かってしまった自分。
私たちはまさに、可能性の中で生かされている。

誰かの分まで生きるから、謙虚さや感謝の気持ちを忘れるな、というありきたりなお説教ですらない。
すずが謙虚さをもち無欲だったから原爆投下を免れて、空襲からも、放射能からも救われたというのもまた違う。
私たちは、生きていることも死ぬことも、あるがまままを受け入れてなお生きなければならない。
そこでは他人と比べることも、優劣を競うことも、必要がない。

自分とは何か。
西欧には描けない、理解できない、曖昧で不確かだが、確固たる答えを、この映画は描いている。

私たちはともすれば特別であり、ヒーローであることを求める。
それは誰かにとっての特別でありたい、誰かにとって役に立つヒーローでありたいと願う。
しかし、そんなことはどうでもいい。
特別か普通か。
そういう二元論的発想を飛び越えたところに自分を見いだす。
「承認」を求める現代人にとって、金言となるか。


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