評価点:88点/1984年/日本
原作・監督:宮崎駿
それは、ナウシカという生き神様。
ナウシカ(声:島本須美)の住む風の谷にユパ(声:納谷悟朗)がもどってきた。
再会を喜ぶのもつかのま、蟲に襲われた飛空挺が谷に激突した。
生存者はいなかった。
しかし、飛空挺がつんでいた荷に、伝説の“巨神兵”があったことが発見される。
そして数日後、軍事大国トルメキアの船が風の谷を襲いにやってくるのだった。
その狙いは、谷そのものだけではなく、巨神兵だった。
日本人にとってあまりにも有名な作品。
アニメ映画という映像メディアを一つの芸術、一つの文化、
一つの表現媒体としての地位を確立させた宮崎駿監督のデビュー作である。
▼以下はネタバレあり▼
この作品には、全7巻の原作がある。
しかし、「原作」とするにはあまりにも内容に差がありすぎる。
実際には1巻とすこししか映像化されていない。
漫画の原作を読んでしまうと、この映画のほうは削られてしまった要素があまりに多いことに驚かされる。
宮崎監督の言いたかったことが、原作にはいかんなく発揮されている。
その意味では、この映画版はかなり不本意であっただろう。
しかし、僕はこの映画を非常に高く評価している。
それは、先に映画版を観たというのもあるだろうが、宮崎監督が、「よく描きたかったことを捨てられたな」と思うからだ。
日本では、原作に対する注目はされるが、脚色や脚本化に関してあまり注目されることは少ない。
この映画の本当に評価されるべき点は、そこにあるのではないだろうか。
描きたいこと、映像化したいことはもっとあったはずだ。
あえて、それをバッサリ捨ててしまい、二時間強の映画という時間の枠内でおさめた。
しかも、人々のこころに深く残るようなすばらしい映画に再構成したのである。
それは「AKIRA」を省みればわかることである。
ストーリーを絞りきれなかった「AKIRA」は、原作を知らぬ者には、非常に不親切な映画になってしまっている。
その意味で、この映画の偉大さは、バッサリ捨ててしまった思い切りのいい脚色にあるのだ。
さて、内容についてだが、全体として日本らしいテーマになっている。
むしろ、日本人にしか描けなかった物語とも言えるだろう。
戦争、人間のエゴというテーマであり、登場する人物、各国はどうしても現実とリンクしているように思えてしまう。
巨神兵は明らかに核兵器をモデルとしている。
また、その後には「腐海」という放射能汚染を髣髴とさせる死の森が生まれる。
この映画は、人間の裏と表を中心として描いた作品ではない。
紛れもなく、人間のエゴと、自然の偉大さを描いた映画なのである。
人間は自分達の都合だけで世界をコントロールしようとする。
トルメキアにせよ、ペジテにせよ、自分達が生き残るため、優位に立つためだけに立ち回る。
ある意味では人間らしい。それに伴う葛藤はあるだろう。
しかし、それが中心の話題ではない。テーマではない。
ナウシカとアスベルとの間に恋が生まれないのはそのためだ。
「人間」を描いてはいない。
厳密に言うと、人間社会の中の「人間」は描いていない。
「自然に対する人間」であり、人間のもつ本質的な「エゴ」を描いている。
しかも彼らは、誰も自分達のやっていることに対する視点を持っていない。
そのやりとりを相対化する超越的な視点を獲得するのは、ナウシカただ一人である。
ナウシカは、すべてを相対化する超越的な視点をもつ。
それは、あたかも「神」や「仏」のような視点である。
もちろん、ここでいう「神」とは八百万の「神」であって、一神教の「絶対的神」ではない。
戦争という特殊な状況にあって、人が人を殺しあうことを相対的な視点で見詰めることができたのは、ナウシカ一人だった。
それは、トルメキアとペジテ、あるいはそれらの国と風の谷という対立ではない。
人間のエゴイズムと、自然という構図を相対的な視点で見ている。
この超越的な視点を持つがゆえに、ナウシカは、ラストで「伝説のナウシカ」になることができたのである。
では、なぜナウシカだけが特別なのだろうか。
それは、ナウシカは一度死んでいるからである。
ナウシカは、物語中盤、腐海の森に落ちる。
それが正に、「死」なのである。無論、アスベルもナウシカと共に落ちる。
しかし、腐海という存在の核心にふれることが出来たのは、ナウシカただ一人である。
風の谷を襲わせる作戦を知ったとき、ナウシカはペジテに捕らえられてしまう。
そのとき彼女は「言ってやって、アスベル。腐海の生まれた訳を」という。
しかし彼は説明することなしに彼女を行かせようとする。
ここに両者の決定的な考え方の相違がある。
憎しみが憎しみを生み出し、
人は人の都合でしか問題を見ていないという視点に立っているのは、「説明」という解決法を提出したナウシカなのである。
よって、ペジテの船を脱出するナウシカは、風の谷を救おうとしたのではなく、戦争そのものを止めようとしたのだ。
彼女はすでに「異国の服を着ている」し、戦いの勝敗が新たな戦争を生むことを知っている。
その後そのナウシカの着ているペジテの服が、王蟲の血にまみれて“どこの国でもない”服になっている点は、注目されていいだろう。
また、そのことは非暴力的な風の谷でさえ、「人間」であったということである。
ともあれ、ナウシカは腐海に落ちることによって、「神」の意志を悟る。
毒をだす腐海によって生きにくくなっていく世界が、自分たち人間の行為に理由があることを知る。
それは限りなく神に近い視点を持っていると言える。
一度死に、復活するというラストのナウシカは、あたかもキリストの復活を想起させる。
実際、コンテクストとして聖書が下地になっていることは確かだろう。
(ナウシカの乗るメーヴェは天使の羽を髣髴とさせる)
しかし、ナウシカの視点は、キリスト教的な一神教の「神」の視点ではない。
明らかに相対化する仏教的な多神教の「神」の視点である。
ここに、日本人しか描けなかった理由をみるのである。
(どこの国でもない服を着たナウシカは、国を超越する存在になる)
戦争を否定し、人のおろかさを相対化できるのは、八百万の神をもつ日本人だったからこそなのだ。
しかし、だからといって手放しで喜べるほどの完成度というわけではない。
ナウシカ一人王蟲(オーム)に激突されただけで、王蟲たちが暴走をやめるというのはロマンティシズムの極地である。
ナウシカの死を、父親の回想などを交えて描いているとは言え、あるいは、その後明確な答えを与えなかったとは言え、やりすぎである。
このあたりに、7巻という長い原作を無理にでも圧縮せざるを得なかった
しわ寄せがきている。
完結性という意味においては、「天空の城ラピュタ」のほうがはるかにまとまっている。
ハッキリ言えば、「オチていない」のである。
とは言え、やはり圧倒的な画力に加えて、筋として、眼に見えるものとして、人のエゴを描ききったという点は、評価できる。
アニメという媒体を使って、ここまできちんと人のエゴを描ききった完成度の高い作品ということは、やはり注目されていいだろう。
(2004/10/6執筆)
これを書いたのはもう四年も前のことだ。
僕はこれを書いて以降、何度か見直す機会を得た。
その中で、おもしろいと思ったことは、風の谷に住む者の肌の色だ。
彼らは黄色人種や黒人のような肌、白人のような肌をもつものもいる。
なぜだろう。
あるシーンで「こんな風の谷まできよった」というような台詞がある。
「風の谷」とは、谷であり、軍事的にも経済的にも優秀な土地だとは言い難い。
人々が豊かな生活をできるような恵まれた土地ではないのだ。
だからこそ、戦争に疲弊しきった時、最後の残された人間の住む土地として、トルメキアもペジテもここを目指すことになる。
そもそも、「谷」という場所自体が、ある境界に立つことを暗示している。
つまり、「風の谷」は、土地を追われた人間が、国を持たない人々がひっそりと暮らしている強国と強国の間にある土地なのだ。
「風の谷のナウシカ」はその意味でも、国の立場を越えた視点を獲得することを暗示しているのかもしれない。
原作・監督:宮崎駿
それは、ナウシカという生き神様。
ナウシカ(声:島本須美)の住む風の谷にユパ(声:納谷悟朗)がもどってきた。
再会を喜ぶのもつかのま、蟲に襲われた飛空挺が谷に激突した。
生存者はいなかった。
しかし、飛空挺がつんでいた荷に、伝説の“巨神兵”があったことが発見される。
そして数日後、軍事大国トルメキアの船が風の谷を襲いにやってくるのだった。
その狙いは、谷そのものだけではなく、巨神兵だった。
日本人にとってあまりにも有名な作品。
アニメ映画という映像メディアを一つの芸術、一つの文化、
一つの表現媒体としての地位を確立させた宮崎駿監督のデビュー作である。
▼以下はネタバレあり▼
この作品には、全7巻の原作がある。
しかし、「原作」とするにはあまりにも内容に差がありすぎる。
実際には1巻とすこししか映像化されていない。
漫画の原作を読んでしまうと、この映画のほうは削られてしまった要素があまりに多いことに驚かされる。
宮崎監督の言いたかったことが、原作にはいかんなく発揮されている。
その意味では、この映画版はかなり不本意であっただろう。
しかし、僕はこの映画を非常に高く評価している。
それは、先に映画版を観たというのもあるだろうが、宮崎監督が、「よく描きたかったことを捨てられたな」と思うからだ。
日本では、原作に対する注目はされるが、脚色や脚本化に関してあまり注目されることは少ない。
この映画の本当に評価されるべき点は、そこにあるのではないだろうか。
描きたいこと、映像化したいことはもっとあったはずだ。
あえて、それをバッサリ捨ててしまい、二時間強の映画という時間の枠内でおさめた。
しかも、人々のこころに深く残るようなすばらしい映画に再構成したのである。
それは「AKIRA」を省みればわかることである。
ストーリーを絞りきれなかった「AKIRA」は、原作を知らぬ者には、非常に不親切な映画になってしまっている。
その意味で、この映画の偉大さは、バッサリ捨ててしまった思い切りのいい脚色にあるのだ。
さて、内容についてだが、全体として日本らしいテーマになっている。
むしろ、日本人にしか描けなかった物語とも言えるだろう。
戦争、人間のエゴというテーマであり、登場する人物、各国はどうしても現実とリンクしているように思えてしまう。
巨神兵は明らかに核兵器をモデルとしている。
また、その後には「腐海」という放射能汚染を髣髴とさせる死の森が生まれる。
この映画は、人間の裏と表を中心として描いた作品ではない。
紛れもなく、人間のエゴと、自然の偉大さを描いた映画なのである。
人間は自分達の都合だけで世界をコントロールしようとする。
トルメキアにせよ、ペジテにせよ、自分達が生き残るため、優位に立つためだけに立ち回る。
ある意味では人間らしい。それに伴う葛藤はあるだろう。
しかし、それが中心の話題ではない。テーマではない。
ナウシカとアスベルとの間に恋が生まれないのはそのためだ。
「人間」を描いてはいない。
厳密に言うと、人間社会の中の「人間」は描いていない。
「自然に対する人間」であり、人間のもつ本質的な「エゴ」を描いている。
しかも彼らは、誰も自分達のやっていることに対する視点を持っていない。
そのやりとりを相対化する超越的な視点を獲得するのは、ナウシカただ一人である。
ナウシカは、すべてを相対化する超越的な視点をもつ。
それは、あたかも「神」や「仏」のような視点である。
もちろん、ここでいう「神」とは八百万の「神」であって、一神教の「絶対的神」ではない。
戦争という特殊な状況にあって、人が人を殺しあうことを相対的な視点で見詰めることができたのは、ナウシカ一人だった。
それは、トルメキアとペジテ、あるいはそれらの国と風の谷という対立ではない。
人間のエゴイズムと、自然という構図を相対的な視点で見ている。
この超越的な視点を持つがゆえに、ナウシカは、ラストで「伝説のナウシカ」になることができたのである。
では、なぜナウシカだけが特別なのだろうか。
それは、ナウシカは一度死んでいるからである。
ナウシカは、物語中盤、腐海の森に落ちる。
それが正に、「死」なのである。無論、アスベルもナウシカと共に落ちる。
しかし、腐海という存在の核心にふれることが出来たのは、ナウシカただ一人である。
風の谷を襲わせる作戦を知ったとき、ナウシカはペジテに捕らえられてしまう。
そのとき彼女は「言ってやって、アスベル。腐海の生まれた訳を」という。
しかし彼は説明することなしに彼女を行かせようとする。
ここに両者の決定的な考え方の相違がある。
憎しみが憎しみを生み出し、
人は人の都合でしか問題を見ていないという視点に立っているのは、「説明」という解決法を提出したナウシカなのである。
よって、ペジテの船を脱出するナウシカは、風の谷を救おうとしたのではなく、戦争そのものを止めようとしたのだ。
彼女はすでに「異国の服を着ている」し、戦いの勝敗が新たな戦争を生むことを知っている。
その後そのナウシカの着ているペジテの服が、王蟲の血にまみれて“どこの国でもない”服になっている点は、注目されていいだろう。
また、そのことは非暴力的な風の谷でさえ、「人間」であったということである。
ともあれ、ナウシカは腐海に落ちることによって、「神」の意志を悟る。
毒をだす腐海によって生きにくくなっていく世界が、自分たち人間の行為に理由があることを知る。
それは限りなく神に近い視点を持っていると言える。
一度死に、復活するというラストのナウシカは、あたかもキリストの復活を想起させる。
実際、コンテクストとして聖書が下地になっていることは確かだろう。
(ナウシカの乗るメーヴェは天使の羽を髣髴とさせる)
しかし、ナウシカの視点は、キリスト教的な一神教の「神」の視点ではない。
明らかに相対化する仏教的な多神教の「神」の視点である。
ここに、日本人しか描けなかった理由をみるのである。
(どこの国でもない服を着たナウシカは、国を超越する存在になる)
戦争を否定し、人のおろかさを相対化できるのは、八百万の神をもつ日本人だったからこそなのだ。
しかし、だからといって手放しで喜べるほどの完成度というわけではない。
ナウシカ一人王蟲(オーム)に激突されただけで、王蟲たちが暴走をやめるというのはロマンティシズムの極地である。
ナウシカの死を、父親の回想などを交えて描いているとは言え、あるいは、その後明確な答えを与えなかったとは言え、やりすぎである。
このあたりに、7巻という長い原作を無理にでも圧縮せざるを得なかった
しわ寄せがきている。
完結性という意味においては、「天空の城ラピュタ」のほうがはるかにまとまっている。
ハッキリ言えば、「オチていない」のである。
とは言え、やはり圧倒的な画力に加えて、筋として、眼に見えるものとして、人のエゴを描ききったという点は、評価できる。
アニメという媒体を使って、ここまできちんと人のエゴを描ききった完成度の高い作品ということは、やはり注目されていいだろう。
(2004/10/6執筆)
これを書いたのはもう四年も前のことだ。
僕はこれを書いて以降、何度か見直す機会を得た。
その中で、おもしろいと思ったことは、風の谷に住む者の肌の色だ。
彼らは黄色人種や黒人のような肌、白人のような肌をもつものもいる。
なぜだろう。
あるシーンで「こんな風の谷まできよった」というような台詞がある。
「風の谷」とは、谷であり、軍事的にも経済的にも優秀な土地だとは言い難い。
人々が豊かな生活をできるような恵まれた土地ではないのだ。
だからこそ、戦争に疲弊しきった時、最後の残された人間の住む土地として、トルメキアもペジテもここを目指すことになる。
そもそも、「谷」という場所自体が、ある境界に立つことを暗示している。
つまり、「風の谷」は、土地を追われた人間が、国を持たない人々がひっそりと暮らしている強国と強国の間にある土地なのだ。
「風の谷のナウシカ」はその意味でも、国の立場を越えた視点を獲得することを暗示しているのかもしれない。
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