この記事は、前の記事の続きです。
ネタバレになっていますのでご覧になるときは、必ず前の記事を読んでからにしてください。
【この映画にまつわるムーヴメントについて】
なぜこの映画がこれほどまでに人々を魅了しているのだろうか。
私はこの映画を高くは評価しない。
しかし、評価されるに値する何かはあるのだろうと、下世話な言い方をすれば「売れるポイント」は押させているのだろう、とは思う。
そして、それは、多少なりとも私自身を掬いとるものでもあるだろう、と思うのだ。
だから、この映画を観て感動したという話を聞いて、それほど批判的な感情を抱けない。
むしろ、「無理もない」という印象を受ける。
この映画は、ありきたりな表現で申し訳ないが、よくある「自分探し」の物語の典型である。
瀧は現実にコミットできない。
だからいつまでも夢みたいなことを考えている。
あの、彗星衝突に対して熱心に関心を寄せながら。
それはもちろん、私たちそのものを反映しているからこそ、この映画がおもしろい。
この主人公の気持ちに、寄り添うことができないのなら、この映画はきっと誰からも評価されなかっただろう。
私たちも、私も、この青年のように今とは違う自分、今とは違う時を生きることを想像することはある。
もちろん、昔ほどではないにしても。
ヒロイックな自分の使命に燃えたいという願望もあるだろう。
その一つが、この映画の美しすぎる風景だ。
私たちは日常を愛することができない。
退屈だと、そして不自由だと感じながら日常を過ごしている。
おそらく現代を生きる多くの日本人が一度は陥る感覚だ。
そういうとき、映画や物語、小説を体験することで〈異化〉することがある。
今まで見てきた自分の風景や自分自身を違った形で捉えるという、そういう体験だ。
東京に住んでいないし、糸守も知らないので、その風景がどれだけ愛すべきなのかはわからない。
問題はそこではない。
この映画の至る所に出てくる風景が、美しすぎるということだ。
そして私たちはそういう風景を求めているということだ。
日常が美しさであふれていることを、敢えてアニメで〈異化〉しなければ私たちは自分の街を愛せないということだ。
この映画を観た後、映画館から自宅に帰るまでの帰り道、きっとあなたも日常が美しいと感じただろう。
同じ街ではないのに。
それはこの映画の異化効果が高いからに他ならない。
この映画の物語性に、人々は魅了されただけではない。
街並みを肯定することさえ、私たちは日常生活で難しくなってきている。
現実を見られなくなってきている。
私たちは、目の前の友人や恋人より、どこか他にいる相手とメールしている。
リアルそのものより、リアリティあるメディアのほうに関心を寄せているのだ。
もう一つ。
どこからか私たちがなくしたものに、ヒーローになるということがある。
ヒロインでもいい。
世界を救うような、ヒロイックな人物になりたい、憧れられるような、人物になりたい。
そして、いつしかそうはなれないことを知らぬ間に納得して大人になっている。
青年でも、中学生でも、小学生でも良い。
周りを見渡すことができる年齢になった時、自分はヒーローになどなれないことを知る。
これくらいのやつはどこにでもいる、才能も、努力も自分には足りない。
そして誰かのヒーローになるようなチャンスもない。
それを掘り起こしてくれたのが、この映画だ。
忘れてしまった自分が、実は街を救っていたかもしれない。
たいしたことはできないけれど、自分の知恵と人脈で、数百人の人間を救うことができたかもしれない。
もちろん、あの彗星衝突は、東日本大震災やそのほかの災害が意識されたものだろう。
あのとき、あの3.11のとき、自分の救えた命があったかもしれない。
今は何もできない自分だけれど。
そのヒーローであった(と空想できた)自分を、浮かび上がらせる構成になっている。
そして、その世界は美しいのだ。
なぜなら、それは私たちが失ってしまった「可能性」なのだから。
この映画はあらゆる意味で、私たちの心を捉えたのだろう。
あったかもしれない自分。
いたかもしれない運命の人。
けれども、もう忘れてしまった自分の可能性。
もう戻らない日常。
色あせていく、自分を愛してくれない街。
私がお世話になっている美容室では、幼稚園児から老人まで、みんな泣いた!とお客さんが言っているそうだ。
私たちは、探せなくなった記憶の中にしか、本当の自分を探すことができないのかもしれない。
未来ではなく、そもそもなかったぼんやりとした記憶。
そのほうが私たちを勇気づけてくれるということなのか。
ネタバレになっていますのでご覧になるときは、必ず前の記事を読んでからにしてください。
【この映画にまつわるムーヴメントについて】
なぜこの映画がこれほどまでに人々を魅了しているのだろうか。
私はこの映画を高くは評価しない。
しかし、評価されるに値する何かはあるのだろうと、下世話な言い方をすれば「売れるポイント」は押させているのだろう、とは思う。
そして、それは、多少なりとも私自身を掬いとるものでもあるだろう、と思うのだ。
だから、この映画を観て感動したという話を聞いて、それほど批判的な感情を抱けない。
むしろ、「無理もない」という印象を受ける。
この映画は、ありきたりな表現で申し訳ないが、よくある「自分探し」の物語の典型である。
瀧は現実にコミットできない。
だからいつまでも夢みたいなことを考えている。
あの、彗星衝突に対して熱心に関心を寄せながら。
それはもちろん、私たちそのものを反映しているからこそ、この映画がおもしろい。
この主人公の気持ちに、寄り添うことができないのなら、この映画はきっと誰からも評価されなかっただろう。
私たちも、私も、この青年のように今とは違う自分、今とは違う時を生きることを想像することはある。
もちろん、昔ほどではないにしても。
ヒロイックな自分の使命に燃えたいという願望もあるだろう。
その一つが、この映画の美しすぎる風景だ。
私たちは日常を愛することができない。
退屈だと、そして不自由だと感じながら日常を過ごしている。
おそらく現代を生きる多くの日本人が一度は陥る感覚だ。
そういうとき、映画や物語、小説を体験することで〈異化〉することがある。
今まで見てきた自分の風景や自分自身を違った形で捉えるという、そういう体験だ。
東京に住んでいないし、糸守も知らないので、その風景がどれだけ愛すべきなのかはわからない。
問題はそこではない。
この映画の至る所に出てくる風景が、美しすぎるということだ。
そして私たちはそういう風景を求めているということだ。
日常が美しさであふれていることを、敢えてアニメで〈異化〉しなければ私たちは自分の街を愛せないということだ。
この映画を観た後、映画館から自宅に帰るまでの帰り道、きっとあなたも日常が美しいと感じただろう。
同じ街ではないのに。
それはこの映画の異化効果が高いからに他ならない。
この映画の物語性に、人々は魅了されただけではない。
街並みを肯定することさえ、私たちは日常生活で難しくなってきている。
現実を見られなくなってきている。
私たちは、目の前の友人や恋人より、どこか他にいる相手とメールしている。
リアルそのものより、リアリティあるメディアのほうに関心を寄せているのだ。
もう一つ。
どこからか私たちがなくしたものに、ヒーローになるということがある。
ヒロインでもいい。
世界を救うような、ヒロイックな人物になりたい、憧れられるような、人物になりたい。
そして、いつしかそうはなれないことを知らぬ間に納得して大人になっている。
青年でも、中学生でも、小学生でも良い。
周りを見渡すことができる年齢になった時、自分はヒーローになどなれないことを知る。
これくらいのやつはどこにでもいる、才能も、努力も自分には足りない。
そして誰かのヒーローになるようなチャンスもない。
それを掘り起こしてくれたのが、この映画だ。
忘れてしまった自分が、実は街を救っていたかもしれない。
たいしたことはできないけれど、自分の知恵と人脈で、数百人の人間を救うことができたかもしれない。
もちろん、あの彗星衝突は、東日本大震災やそのほかの災害が意識されたものだろう。
あのとき、あの3.11のとき、自分の救えた命があったかもしれない。
今は何もできない自分だけれど。
そのヒーローであった(と空想できた)自分を、浮かび上がらせる構成になっている。
そして、その世界は美しいのだ。
なぜなら、それは私たちが失ってしまった「可能性」なのだから。
この映画はあらゆる意味で、私たちの心を捉えたのだろう。
あったかもしれない自分。
いたかもしれない運命の人。
けれども、もう忘れてしまった自分の可能性。
もう戻らない日常。
色あせていく、自分を愛してくれない街。
私がお世話になっている美容室では、幼稚園児から老人まで、みんな泣いた!とお客さんが言っているそうだ。
私たちは、探せなくなった記憶の中にしか、本当の自分を探すことができないのかもしれない。
未来ではなく、そもそもなかったぼんやりとした記憶。
そのほうが私たちを勇気づけてくれるということなのか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます