評価点:83点/1997年/アメリカ/106分
監督:アンドリュー・ニコル
あまりに残酷な近未来。
ビンセントは、宇宙飛行士として来週木星の衛星への調査団に選ばれていた。
もともとビンセント(イーサン・ホーク)は両親が愛し合って生まれてきた子どもだった。
しかし、その時代の子どもはほとんどが遺伝子分別されたデザイナーズベイビーだったため、彼はすぐに不適正な遺伝子を持つ子どもと診断された。
弟のアントンは優良な遺伝子として峻別された子で、物心ついたときから、すでに兄のビンセントを凌駕していた。
そんなビンセントは宇宙飛行士を目指しはじめるが、周りは彼が不適正な遺伝子であると決めつけ、チャンスも与えられなかった。
そして、トイレ掃除の仕事をしていたとき、あるチャンスが巡ってくる……。
いろいろなところで、機会で、この映画を観るべきだと言われ続けて、結局見逃していた本作。
Amazonプライムで見る機会を得たので、記事をアップする。
今更感があることは否めないが、見ていない人は、見れば良いと思う。
だが決して明るい映画ではない。
また、「古い」映画でもない。
小さくまとまった(完結性の高い)、傑作のSF映画である。
▼以下はネタバレあり▼
いろいろなところで、言い尽くされている映画なので、冗長な説明はいるまい。
例によって他人の評価を見ることが好きではないのに、自分の批評を書くのが好きな私なので、好き勝手に書いてみようと思う。
この映画はハッピーエンドだろうか。
終わった瞬間、エンドロールが始まる瞬間までは、確かにちょっとした開放感に浸れる。
だが、よく考えてみれば、この映画は何も解決せずに、むしろその解決が不可能なことを暗示して終わっていることに気づく。
ビンセントは、やはり「遺伝子」に負けたのだ。
あるいは、「遺伝子至上主義社会」に負けたのだ。
そのことを考えると、この映画は無慈悲の救いのない近未来を描いている。
しかも、そのことを否定することで、肯定せざるを得ない無慈悲な〈今〉を描いている。
遺伝子で全てが決まる世界は、言い換えると本人の努力とか、意志とか、感情とかを全て否定する世界である。
適正=優良な人種と判断された人間には、無条件で社会の中枢に入り込むことが出来る。
逆に、不適正=劣等な人種として判断された人間は、社会の下層あるいは最下層の仕事や生活しか保障されない。
遺伝子は生まれた瞬間に決まり、そして変えることができない。
両親の所得によってそれは決まり、そしてその子は一生それを背負うことになる。
だが、おもしろいのは、この映画に出てくるほとんどの「適正」な人間は、不適正な行動を取る。
殺された上司は、ビンセント(偽のジェローム)に高圧的な、疑いのまなざしで接する。
殺したとされる宇宙局長ジョセフも、また打ち上げのために殺人を犯す。
ビンセントの弟は、刑事になっているが、彼はビンセントとの水泳の勝負に勝てない。
これに勝てないということは、人生に於いても「負け」を象徴している。
ユマ・サーマン演じるアイリーン・カッシーニも同じで、同一人物ではないジェロームをかばってやる。
愛していたからか?
そうだとしても、遺伝子は「不正を許さない」はずなのに、許してしまうのだ。
また、検尿のスタッフは、ラストでビンセントがジェロームではないことを見抜くが、見逃してやる。
これはこの映画の決定的なメッセージとなっている。
なぜ見逃したのか。
それは、それまでビンセントがジェロームでないことを知っていたからに他ならない。
かれはずっと彼をかばっていたのだ。
選ばれた人間ではない人間が、選ばれる可能性を信じたのだ。
だから、最後になって彼は偽る準備のないビンセントを、見逃したのだ。
あのスタッフもまた、選ばれた人間のはずなのに(そうでなければ掃除夫にしか成れない)。
この映画に登場する適正遺伝子は、ことごとく、その「予想」から外れていく。
もちろんジュード・ロウのジェロームも同じだ。
かれは選ばれた遺伝子でありながら、不慮の事故から、ラストは自殺を選ぶ。
完璧な遺伝子でも、自殺してしまうのだ。
最初から決められていたはずの運命を、ことごとく外していく。
なぜだろうか。
私たちはすでにその答えを知っている。
それが「現実」だからだ。
現実は、予定調和のように決められたものではなく、その時々によって右でも左でも転ぶ、決まっていないことだからだ。
あくまで遺伝子による診断は、「確率」でしかない。
確率はあくまで確率で、確定された出来事、現実ではないのだ。
だから、彼らは不可能を可能にするために、してはいけないことをしながら、現実を生きている。
あり得ないこと(とされていること)がこの映画では起こり、それでも社会の歯車として生きていく。
ラスト、彼は土星の衛星タイタンに行って自由になったのだろうか。
いや、自由には成れない。
なぜなのか。
彼はすでに寿命を迎えていて、生きることができないからだ。
1年後、彼は帰ってこられない。
おそらく死ぬだろう。
それは、ジェロームが自殺することで暗示されている。
この映画は「変身」映画でもある。
「リプリー」のように、(またそれにもジュード・ロウが出ていることもおもしろいが)変身願望を満たす物語なのだ。
その分身であるジェロームは自殺してしまう。
本物のいない、一心同体である彼が自殺してしまった以上、ビンセントも生きていくことができない。
彼らは社会のシステムに負けたのだ。
いや、死ぬことでしかそれを超克することができなかった。
だから宇宙という地球ではないシステムに昇天してしまうことで、「自由」になるのだ。
それは、死ぬことを意味する。
遺伝子で決められているとされている運命からことごとく外れた生き方をしている「現実」があるにも関わらず、人はその社会から逸れて生きていくことができない。
これは閉塞感しかない、絶望的な結末である。
見ている人間も、描かれている人々も、みな知っている。
「遺伝子で決められた運命よりも、現実(の感情、意志、状況)が優先されるべきだ」
しかし、それは優先されることはない。
誰もが間違っていることを知りながら、そのシステムに従うしかない世界が、この映画が作られた時代にすでにあったということだ。
だからおもしろいし、だから評価される。
だから、SF映画として成り立つ。
なんとも救いのない〈未来〉である。
監督:アンドリュー・ニコル
あまりに残酷な近未来。
ビンセントは、宇宙飛行士として来週木星の衛星への調査団に選ばれていた。
もともとビンセント(イーサン・ホーク)は両親が愛し合って生まれてきた子どもだった。
しかし、その時代の子どもはほとんどが遺伝子分別されたデザイナーズベイビーだったため、彼はすぐに不適正な遺伝子を持つ子どもと診断された。
弟のアントンは優良な遺伝子として峻別された子で、物心ついたときから、すでに兄のビンセントを凌駕していた。
そんなビンセントは宇宙飛行士を目指しはじめるが、周りは彼が不適正な遺伝子であると決めつけ、チャンスも与えられなかった。
そして、トイレ掃除の仕事をしていたとき、あるチャンスが巡ってくる……。
いろいろなところで、機会で、この映画を観るべきだと言われ続けて、結局見逃していた本作。
Amazonプライムで見る機会を得たので、記事をアップする。
今更感があることは否めないが、見ていない人は、見れば良いと思う。
だが決して明るい映画ではない。
また、「古い」映画でもない。
小さくまとまった(完結性の高い)、傑作のSF映画である。
▼以下はネタバレあり▼
いろいろなところで、言い尽くされている映画なので、冗長な説明はいるまい。
例によって他人の評価を見ることが好きではないのに、自分の批評を書くのが好きな私なので、好き勝手に書いてみようと思う。
この映画はハッピーエンドだろうか。
終わった瞬間、エンドロールが始まる瞬間までは、確かにちょっとした開放感に浸れる。
だが、よく考えてみれば、この映画は何も解決せずに、むしろその解決が不可能なことを暗示して終わっていることに気づく。
ビンセントは、やはり「遺伝子」に負けたのだ。
あるいは、「遺伝子至上主義社会」に負けたのだ。
そのことを考えると、この映画は無慈悲の救いのない近未来を描いている。
しかも、そのことを否定することで、肯定せざるを得ない無慈悲な〈今〉を描いている。
遺伝子で全てが決まる世界は、言い換えると本人の努力とか、意志とか、感情とかを全て否定する世界である。
適正=優良な人種と判断された人間には、無条件で社会の中枢に入り込むことが出来る。
逆に、不適正=劣等な人種として判断された人間は、社会の下層あるいは最下層の仕事や生活しか保障されない。
遺伝子は生まれた瞬間に決まり、そして変えることができない。
両親の所得によってそれは決まり、そしてその子は一生それを背負うことになる。
だが、おもしろいのは、この映画に出てくるほとんどの「適正」な人間は、不適正な行動を取る。
殺された上司は、ビンセント(偽のジェローム)に高圧的な、疑いのまなざしで接する。
殺したとされる宇宙局長ジョセフも、また打ち上げのために殺人を犯す。
ビンセントの弟は、刑事になっているが、彼はビンセントとの水泳の勝負に勝てない。
これに勝てないということは、人生に於いても「負け」を象徴している。
ユマ・サーマン演じるアイリーン・カッシーニも同じで、同一人物ではないジェロームをかばってやる。
愛していたからか?
そうだとしても、遺伝子は「不正を許さない」はずなのに、許してしまうのだ。
また、検尿のスタッフは、ラストでビンセントがジェロームではないことを見抜くが、見逃してやる。
これはこの映画の決定的なメッセージとなっている。
なぜ見逃したのか。
それは、それまでビンセントがジェロームでないことを知っていたからに他ならない。
かれはずっと彼をかばっていたのだ。
選ばれた人間ではない人間が、選ばれる可能性を信じたのだ。
だから、最後になって彼は偽る準備のないビンセントを、見逃したのだ。
あのスタッフもまた、選ばれた人間のはずなのに(そうでなければ掃除夫にしか成れない)。
この映画に登場する適正遺伝子は、ことごとく、その「予想」から外れていく。
もちろんジュード・ロウのジェロームも同じだ。
かれは選ばれた遺伝子でありながら、不慮の事故から、ラストは自殺を選ぶ。
完璧な遺伝子でも、自殺してしまうのだ。
最初から決められていたはずの運命を、ことごとく外していく。
なぜだろうか。
私たちはすでにその答えを知っている。
それが「現実」だからだ。
現実は、予定調和のように決められたものではなく、その時々によって右でも左でも転ぶ、決まっていないことだからだ。
あくまで遺伝子による診断は、「確率」でしかない。
確率はあくまで確率で、確定された出来事、現実ではないのだ。
だから、彼らは不可能を可能にするために、してはいけないことをしながら、現実を生きている。
あり得ないこと(とされていること)がこの映画では起こり、それでも社会の歯車として生きていく。
ラスト、彼は土星の衛星タイタンに行って自由になったのだろうか。
いや、自由には成れない。
なぜなのか。
彼はすでに寿命を迎えていて、生きることができないからだ。
1年後、彼は帰ってこられない。
おそらく死ぬだろう。
それは、ジェロームが自殺することで暗示されている。
この映画は「変身」映画でもある。
「リプリー」のように、(またそれにもジュード・ロウが出ていることもおもしろいが)変身願望を満たす物語なのだ。
その分身であるジェロームは自殺してしまう。
本物のいない、一心同体である彼が自殺してしまった以上、ビンセントも生きていくことができない。
彼らは社会のシステムに負けたのだ。
いや、死ぬことでしかそれを超克することができなかった。
だから宇宙という地球ではないシステムに昇天してしまうことで、「自由」になるのだ。
それは、死ぬことを意味する。
遺伝子で決められているとされている運命からことごとく外れた生き方をしている「現実」があるにも関わらず、人はその社会から逸れて生きていくことができない。
これは閉塞感しかない、絶望的な結末である。
見ている人間も、描かれている人々も、みな知っている。
「遺伝子で決められた運命よりも、現実(の感情、意志、状況)が優先されるべきだ」
しかし、それは優先されることはない。
誰もが間違っていることを知りながら、そのシステムに従うしかない世界が、この映画が作られた時代にすでにあったということだ。
だからおもしろいし、だから評価される。
だから、SF映画として成り立つ。
なんとも救いのない〈未来〉である。
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