先日、職場の同僚と飲みに行ったときのこと。
「それって参加するのにいくらかかるん?」
「5000円。」
「まじで? 5000円も払ってそんなしんどいことするん? ありえへんわ。」
「いやいや、5000円よりも前に、このためにめっちゃ時間使ってきたから。むしろ5000円なら安いくらいやわ。」
僕は5000円というお金で、昨日人生の片鱗を味わってきた。
人生初の、フルマラソンというものに参加してきた。
福知山マラソンは合計1万人の人が参加したという話だ。
僕は、会社の(上の人とは別の)同僚たちに誘われて、参加することになった。
実質練習したのは4ヶ月前ほどから。
周りの経験者にどれくらいの練習頻度で、どれくらいの距離を走るべきなのかを手探りで、走ってきた。
試しに3時間走を行ったこともあった。
目標は、歩かずにゴールすること。
結果どうだったか。
半分手前で目標を断念して、ゴールすることだけを目標にすることに。
何とかゴールはしたものの、予想していた感動よりも、悔しさのほうが大きかった。
明らかに僕は自分に負けた。
そんな気がして、感動どころではなかった。
泣きそうだったのは、自分のあまりの根性のなさに、精神力のなさに愕然としたからだろう。
マラソンは人生と同じだ、というのは陳腐なことばだ。
だが、僕はこれは人生と同じだ、と月並みなことを考えた。
街ぐるみで応援してくれて、ボランティアの人たちが給水やバナナを用意してくれて…。
そしてまた、ランナーが捨てたゴミを拾って掃除してくれる。
そういった全然知らない人たちの支えによって僕は走っている。
もう、全然前に進めそうにない、と思っても、「あと少し!大丈夫!」と声をかけられるたびに、感じたのは感謝だった。
高校生が貴重な休みを返上してまで、ボランティア活動をしたいと思っていることはないだろう。
中には「ええ?! だるい!」と思いながら参加していた人もいたかもしれない。
けれど、そうであっても僕はありがたいと思った。
全然知らない1万人の中の一人の僕に、水を差しだしてくれることに、感謝した。
走っているとき、何も考えられなかった僕によぎったのはこんなことだった。
歩いては走り、走っては歩く。
歩けば歩くほど、次に走り出しづらくなっていく。
肉体的な疲労よりも、精神的なもろさが身にしみる。
そして、前の職場の人ともすれ違った。
それまで折れそうだった心が、いくらか助けられた感じがした。
「ともに走る仲間がいるのだ」とそう思うだけで勇気づけられる。
しかし。
しかし、僕は一人だった。
あと○キロと告げられるカウントダウンをゼロにするためには、僕の足を動かすしかない。
周りがどれだけ応援してくれようと、戦友がいようと、前に進めるのは自分しかいない。
マラソンは孤独だ。
それは人生に似ているどころか、人生そのものだった。
1キロ数秒のペース配分の違いが、大きなタイムの差となることも、どこか教訓じみている。
周りと一緒に走ろうと思っても、しんどくなるタイミングが違うから、どうしてもペースをあわせることができないという点も、やはり共有しきれない孤独を感じた。
想像を絶する世界。
中に、マカオで飛んだバンジーのTシャツを着て、密かにあのときの決意にあやかろうと考えていたが、ぐっしょり濡れたTシャツは後半どんどん僕の体力を奪っていった。
やはり便利な解答(きっかけ)などないのだ。
今日、職場の人に、もう一度走るのか、と聞かれた。
足を引きづりながら僕は、「今は何も考えたくない」と答えた。
…とりあえず、今日からシーズンオフです…。
「それって参加するのにいくらかかるん?」
「5000円。」
「まじで? 5000円も払ってそんなしんどいことするん? ありえへんわ。」
「いやいや、5000円よりも前に、このためにめっちゃ時間使ってきたから。むしろ5000円なら安いくらいやわ。」
僕は5000円というお金で、昨日人生の片鱗を味わってきた。
人生初の、フルマラソンというものに参加してきた。
福知山マラソンは合計1万人の人が参加したという話だ。
僕は、会社の(上の人とは別の)同僚たちに誘われて、参加することになった。
実質練習したのは4ヶ月前ほどから。
周りの経験者にどれくらいの練習頻度で、どれくらいの距離を走るべきなのかを手探りで、走ってきた。
試しに3時間走を行ったこともあった。
目標は、歩かずにゴールすること。
結果どうだったか。
半分手前で目標を断念して、ゴールすることだけを目標にすることに。
何とかゴールはしたものの、予想していた感動よりも、悔しさのほうが大きかった。
明らかに僕は自分に負けた。
そんな気がして、感動どころではなかった。
泣きそうだったのは、自分のあまりの根性のなさに、精神力のなさに愕然としたからだろう。
マラソンは人生と同じだ、というのは陳腐なことばだ。
だが、僕はこれは人生と同じだ、と月並みなことを考えた。
街ぐるみで応援してくれて、ボランティアの人たちが給水やバナナを用意してくれて…。
そしてまた、ランナーが捨てたゴミを拾って掃除してくれる。
そういった全然知らない人たちの支えによって僕は走っている。
もう、全然前に進めそうにない、と思っても、「あと少し!大丈夫!」と声をかけられるたびに、感じたのは感謝だった。
高校生が貴重な休みを返上してまで、ボランティア活動をしたいと思っていることはないだろう。
中には「ええ?! だるい!」と思いながら参加していた人もいたかもしれない。
けれど、そうであっても僕はありがたいと思った。
全然知らない1万人の中の一人の僕に、水を差しだしてくれることに、感謝した。
走っているとき、何も考えられなかった僕によぎったのはこんなことだった。
歩いては走り、走っては歩く。
歩けば歩くほど、次に走り出しづらくなっていく。
肉体的な疲労よりも、精神的なもろさが身にしみる。
そして、前の職場の人ともすれ違った。
それまで折れそうだった心が、いくらか助けられた感じがした。
「ともに走る仲間がいるのだ」とそう思うだけで勇気づけられる。
しかし。
しかし、僕は一人だった。
あと○キロと告げられるカウントダウンをゼロにするためには、僕の足を動かすしかない。
周りがどれだけ応援してくれようと、戦友がいようと、前に進めるのは自分しかいない。
マラソンは孤独だ。
それは人生に似ているどころか、人生そのものだった。
1キロ数秒のペース配分の違いが、大きなタイムの差となることも、どこか教訓じみている。
周りと一緒に走ろうと思っても、しんどくなるタイミングが違うから、どうしてもペースをあわせることができないという点も、やはり共有しきれない孤独を感じた。
想像を絶する世界。
中に、マカオで飛んだバンジーのTシャツを着て、密かにあのときの決意にあやかろうと考えていたが、ぐっしょり濡れたTシャツは後半どんどん僕の体力を奪っていった。
やはり便利な解答(きっかけ)などないのだ。
今日、職場の人に、もう一度走るのか、と聞かれた。
足を引きづりながら僕は、「今は何も考えたくない」と答えた。
…とりあえず、今日からシーズンオフです…。
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