評価点:77点/2003年/スペイン
監督:イザベル・コヘット
「私」とは?
アン(サラ・ポーリー)は17で結婚し、二人の娘の母。大学の夜間清掃で働き、夫はプール工事の仕事が決まったばかり。
住まいは母親の庭を借りてトレーラー暮らし。
ある日倒れた彼女は、末期ガンだと告知される。
誰にも言わずに死ぬことを決めた彼女は、死ぬまでに何をしておくべきかというリストを作成する。
それまで生きることに実感を持たず、考えることもしてこなかった彼女は、死を目前にして、人生を考え始めるが。
少し前に、少し話題になった作品だ。
タイトルがあまりにも「いかにも」なので、かえって人を遠ざけているのかもしれない。
そして、泣くために観ようと思った人の評価は案外低いのでは? とも思う。
あまり映画を観ない、話題先行だけの映画に食いつく人には、ちょっとわかりにくい話かも知れない。
淡々と進むため、そういう映画が苦手な人には不向きなのだ。
だが、僕はこの映画は観るべき価値はあると思う。
▼以下はネタバレあり▼
こういう映画を観ると、映画は本当に主観でしか捉えられないのだと痛感する。
この映画を観て、何も感じない人はいるだろう。
それは人生に悩みがないからだとか、人生をきちんと生きていないからだとか、感受性が乏しいからだとか、そう言うこととは全く関係がない。
僕は告知されるシーンで既に泣いた。
それはきっと「今の」僕だからだろう。
明日、あるいは一年後、同じこの映画を観て、泣けるかどうかは疑問だ。
人が泣くポイントというのは、個々人によって違うし、何より、その人が今置かれている状況などにも左右されるはずだ。
だから、一度みたからと言って、この映画をすべて味わい尽くすことは出来ないのだろう。
映画の筋としては非常にオーソドックスだ。
主人公のアンが死ぬことを知り、その二ヶ月間を描いた作品だ。
話は変わるが、僕はよく、物語を図式化する。
事件が起こる前、事件、事件が起こった後(変化)という三段階に分けるのだ。
物語はどんな物語にせよ、この三段階があるから、「ストーリー」が成立する。
もちろん、事件が一つだけなのか、二つあるのか、また事件らしいものがないことが事件なのか、それはその物語によって千差万別だ。
この映画は、
【事件前】死を告知される前
【事件】死を告知され、死を受け止めるまでの時間
【事件後】死
という具合に、わかりやすく整理することが出来るだろう。
基本的に観客が感情移入する、視点人物は、アン本人だから、最後のシークエンスは、彼女の想像なのか、
彼女の死後の世界なのか、厳密には判断しかねる。
彼女の望んだ世界だと考える方がすっきりいく気もする。
とにもかくにも、彼女がどのように自分の死後に自分が愛した人物を愛し続けるか、という点が、映画の中心的なテーマといえるだろう。
この映画は、ドキュメンタリータッチで描こうという演出上の狙いがある。
そのため、映画的な、物語的な、説明が少ない。
会話の中からしか、彼女を取り巻く環境を知ることが出来ない。
娘たちにメッセージを残そうとすることから、その情報量は少なくない。
しかし、細かい点までキレイに、明らかにしようとする態度はあまりない。
冒頭で僕が「映画を見慣れていない人は辛いかも」と書いたのはそのためだ。
説明され尽くした上で泣かせようとする映画が好きな人にとっては、この行間はすこししんどいかもしれない。
だが、この微妙な行間の大きさが、人々の共感を生み、感情移入のしやすさを手伝っている。
僕はこの行間がこの映画の唯一の見所であり、「人間性」なのではないかと思う。
アンはいわゆる最下層の人間だろう。
家も持てない、学もない。
子どもがいるから逆に足かせとなって、生活が向上することもない。
夫のほうは今まさにようやく仕事が決まったという日雇い労働者に近い。
肉体労働を避けたいが、それしか仕事がないのだから、仕方がない。
仕事に夢を抱ける身分ではないのだ。
アンの人生は娘が生まれたから転がり始めたのではないだろう。
父親は刑務所に、母親は自立した生活を送っているが、根本的に子どもが愛せない。
そもそも彼女は、「子どもが愛せない」のだ。
愛し方がわからないのかもしれない。
少なくとも、アンに愛情を注ぐことが出来ない。
アンが、父親と愛を求めて、17歳で恋に落ちてしまった理由はこれで十分説明できる。
さらに、アンと母親との距離感が絶妙だ。
同居すればいいのに、同居はしない。
だが、金銭的な理由で庭に「トレーラーハウス」という極めていびつな関係だ。
自立したいのに、自立できない。
離れたいのに、離れきれない。
ここにゆがんだ二人の母子像がある。
お互いのすれ違いはこのいびつな生活が決定的に示している。
父親に会い、自分の人生を確かめる。
それもまた、人生の問い直しなのだ。
問い直すことでしか、彼女は自己肯定できないとも言えるし、他者を肯定することもできないのだ。
必死で走ってきた人生を肯定し、さらに、未来へ向けて、子ども達に遺せることを
考えたとき、彼女にとって父親との再会は不可欠なものだったのだろう。
娘のためにもう一人の看護婦のアンを、夫にあてがおうとするのも、同じことだ。
愛が欠けたかなしみの人生を生きてきたアンにとって、娘が自分の二の舞を踏むことには耐えられない。
片親だけの家庭に、二人の娘を置きたくなかったのだろう。
だが、彼女は人間だ。
他人に残すだけの人生を考えるには二ヶ月はあまりにも長い。
新しい自分、新しい恋人を見つけようと考える。
これは死からの逃避ではないだろう。
まして、家族などのしがらみからの逃避でもないだろう。
あり得なかった人生を生きてみたい、というのが本当のところではないか。
生活や自分の人生、家族、自分のこれまでの歴史性や社会性。
それらを消し去ったところで、自分には人を惹きつける魅力があるのだろうか。
その疑問は、僕たち、生きていることに疑問に思わないで生きられる人間にはない
感情なのかも知れない。
ともかく、自分というシンプルな個人として、違う可能性を生きてみたという欲求だと考えられる。
彼女は、不倫相手に何も告げない。
自分の素性も、ほとんど知らせせずに、聞くことも許さない。
それでころか、彼女は自分が死ぬことを、誰にも伝えずに死ぬことを決心する。
死ぬ前にしておきたいことのリストは10だった。
だが、この誰にも告げずに、というのが11番目の願望であり、「最初」の願望なのだ。
彼女がなぜ誰にも告げなかったのだろうか。
おそらく、彼女が誰かに告げたとしたら、その人は悲しみ、優しさを分けてくれるだろう。
だが、それは「彼女自身の魅力」ではないのだ。
それはもうすぐ死に行く女性としての同情のまなざしに過ぎない。
それでは彼女の人生は問い直すことができない。
これまでの生き方について、自己肯定することはできないのだ。
同情ではなく、死ぬからではなく、それまでの自分の魅力を正しく評価し、未来への確信を持って死にたかったのだ。
彼女の死後の世界は描写されない。
ラストのシークエンスは彼女が想像した世界であるべきだ。
もし、この映画が泣かせるために、気持ちよくなるために、作られた映画だとしたら、きっと死後の世界をもっと明確に、しっかりと描いただろう。
だが、この物語は彼女がどのように生きてきたか、を問うための物語だ。
タイトルは、「My Life Without Me」である。
自分が死んだとしても、自分の人生が続き、未来を描き続けられるかどうか、それを問うための映画なのだ。
実話やドラマは泣くためにある。
その常識を日本映画界からなくさない限り、「死ぬまでにしたい10のこと」なんていうセンスのかけらもない、間抜けなタイトルを付け続けることになるだろう。
「私のいない私の人生」のほうが、はるかにテーマを捉えているはずだ。
(2007/9/17執筆)
監督:イザベル・コヘット
「私」とは?
アン(サラ・ポーリー)は17で結婚し、二人の娘の母。大学の夜間清掃で働き、夫はプール工事の仕事が決まったばかり。
住まいは母親の庭を借りてトレーラー暮らし。
ある日倒れた彼女は、末期ガンだと告知される。
誰にも言わずに死ぬことを決めた彼女は、死ぬまでに何をしておくべきかというリストを作成する。
それまで生きることに実感を持たず、考えることもしてこなかった彼女は、死を目前にして、人生を考え始めるが。
少し前に、少し話題になった作品だ。
タイトルがあまりにも「いかにも」なので、かえって人を遠ざけているのかもしれない。
そして、泣くために観ようと思った人の評価は案外低いのでは? とも思う。
あまり映画を観ない、話題先行だけの映画に食いつく人には、ちょっとわかりにくい話かも知れない。
淡々と進むため、そういう映画が苦手な人には不向きなのだ。
だが、僕はこの映画は観るべき価値はあると思う。
▼以下はネタバレあり▼
こういう映画を観ると、映画は本当に主観でしか捉えられないのだと痛感する。
この映画を観て、何も感じない人はいるだろう。
それは人生に悩みがないからだとか、人生をきちんと生きていないからだとか、感受性が乏しいからだとか、そう言うこととは全く関係がない。
僕は告知されるシーンで既に泣いた。
それはきっと「今の」僕だからだろう。
明日、あるいは一年後、同じこの映画を観て、泣けるかどうかは疑問だ。
人が泣くポイントというのは、個々人によって違うし、何より、その人が今置かれている状況などにも左右されるはずだ。
だから、一度みたからと言って、この映画をすべて味わい尽くすことは出来ないのだろう。
映画の筋としては非常にオーソドックスだ。
主人公のアンが死ぬことを知り、その二ヶ月間を描いた作品だ。
話は変わるが、僕はよく、物語を図式化する。
事件が起こる前、事件、事件が起こった後(変化)という三段階に分けるのだ。
物語はどんな物語にせよ、この三段階があるから、「ストーリー」が成立する。
もちろん、事件が一つだけなのか、二つあるのか、また事件らしいものがないことが事件なのか、それはその物語によって千差万別だ。
この映画は、
【事件前】死を告知される前
【事件】死を告知され、死を受け止めるまでの時間
【事件後】死
という具合に、わかりやすく整理することが出来るだろう。
基本的に観客が感情移入する、視点人物は、アン本人だから、最後のシークエンスは、彼女の想像なのか、
彼女の死後の世界なのか、厳密には判断しかねる。
彼女の望んだ世界だと考える方がすっきりいく気もする。
とにもかくにも、彼女がどのように自分の死後に自分が愛した人物を愛し続けるか、という点が、映画の中心的なテーマといえるだろう。
この映画は、ドキュメンタリータッチで描こうという演出上の狙いがある。
そのため、映画的な、物語的な、説明が少ない。
会話の中からしか、彼女を取り巻く環境を知ることが出来ない。
娘たちにメッセージを残そうとすることから、その情報量は少なくない。
しかし、細かい点までキレイに、明らかにしようとする態度はあまりない。
冒頭で僕が「映画を見慣れていない人は辛いかも」と書いたのはそのためだ。
説明され尽くした上で泣かせようとする映画が好きな人にとっては、この行間はすこししんどいかもしれない。
だが、この微妙な行間の大きさが、人々の共感を生み、感情移入のしやすさを手伝っている。
僕はこの行間がこの映画の唯一の見所であり、「人間性」なのではないかと思う。
アンはいわゆる最下層の人間だろう。
家も持てない、学もない。
子どもがいるから逆に足かせとなって、生活が向上することもない。
夫のほうは今まさにようやく仕事が決まったという日雇い労働者に近い。
肉体労働を避けたいが、それしか仕事がないのだから、仕方がない。
仕事に夢を抱ける身分ではないのだ。
アンの人生は娘が生まれたから転がり始めたのではないだろう。
父親は刑務所に、母親は自立した生活を送っているが、根本的に子どもが愛せない。
そもそも彼女は、「子どもが愛せない」のだ。
愛し方がわからないのかもしれない。
少なくとも、アンに愛情を注ぐことが出来ない。
アンが、父親と愛を求めて、17歳で恋に落ちてしまった理由はこれで十分説明できる。
さらに、アンと母親との距離感が絶妙だ。
同居すればいいのに、同居はしない。
だが、金銭的な理由で庭に「トレーラーハウス」という極めていびつな関係だ。
自立したいのに、自立できない。
離れたいのに、離れきれない。
ここにゆがんだ二人の母子像がある。
お互いのすれ違いはこのいびつな生活が決定的に示している。
父親に会い、自分の人生を確かめる。
それもまた、人生の問い直しなのだ。
問い直すことでしか、彼女は自己肯定できないとも言えるし、他者を肯定することもできないのだ。
必死で走ってきた人生を肯定し、さらに、未来へ向けて、子ども達に遺せることを
考えたとき、彼女にとって父親との再会は不可欠なものだったのだろう。
娘のためにもう一人の看護婦のアンを、夫にあてがおうとするのも、同じことだ。
愛が欠けたかなしみの人生を生きてきたアンにとって、娘が自分の二の舞を踏むことには耐えられない。
片親だけの家庭に、二人の娘を置きたくなかったのだろう。
だが、彼女は人間だ。
他人に残すだけの人生を考えるには二ヶ月はあまりにも長い。
新しい自分、新しい恋人を見つけようと考える。
これは死からの逃避ではないだろう。
まして、家族などのしがらみからの逃避でもないだろう。
あり得なかった人生を生きてみたい、というのが本当のところではないか。
生活や自分の人生、家族、自分のこれまでの歴史性や社会性。
それらを消し去ったところで、自分には人を惹きつける魅力があるのだろうか。
その疑問は、僕たち、生きていることに疑問に思わないで生きられる人間にはない
感情なのかも知れない。
ともかく、自分というシンプルな個人として、違う可能性を生きてみたという欲求だと考えられる。
彼女は、不倫相手に何も告げない。
自分の素性も、ほとんど知らせせずに、聞くことも許さない。
それでころか、彼女は自分が死ぬことを、誰にも伝えずに死ぬことを決心する。
死ぬ前にしておきたいことのリストは10だった。
だが、この誰にも告げずに、というのが11番目の願望であり、「最初」の願望なのだ。
彼女がなぜ誰にも告げなかったのだろうか。
おそらく、彼女が誰かに告げたとしたら、その人は悲しみ、優しさを分けてくれるだろう。
だが、それは「彼女自身の魅力」ではないのだ。
それはもうすぐ死に行く女性としての同情のまなざしに過ぎない。
それでは彼女の人生は問い直すことができない。
これまでの生き方について、自己肯定することはできないのだ。
同情ではなく、死ぬからではなく、それまでの自分の魅力を正しく評価し、未来への確信を持って死にたかったのだ。
彼女の死後の世界は描写されない。
ラストのシークエンスは彼女が想像した世界であるべきだ。
もし、この映画が泣かせるために、気持ちよくなるために、作られた映画だとしたら、きっと死後の世界をもっと明確に、しっかりと描いただろう。
だが、この物語は彼女がどのように生きてきたか、を問うための物語だ。
タイトルは、「My Life Without Me」である。
自分が死んだとしても、自分の人生が続き、未来を描き続けられるかどうか、それを問うための映画なのだ。
実話やドラマは泣くためにある。
その常識を日本映画界からなくさない限り、「死ぬまでにしたい10のこと」なんていうセンスのかけらもない、間抜けなタイトルを付け続けることになるだろう。
「私のいない私の人生」のほうが、はるかにテーマを捉えているはずだ。
(2007/9/17執筆)
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