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モン・サン・ミッシェル、ヴェルサイユと続いたオプション・ツアーは最後のルーヴル宮観光となった。
朝から地下鉄で移動し、ルーヴル前の広場に集合となっていた。
朝食を済ませた私たちは、緊張しながら地下鉄に乗った。
先入観もあったのかもしれない。
日本の地下鉄とはかなり趣が違っていた。
様々な人種が利用するフランスの地下鉄は少し薄暗く、殺伐とした雰囲気だった。
鞄を前に抱えて、周りに集中して乗っていた。
車内は少し狭く、車体は路線によって少しずつ異なっていた。
降りるときも乗るときも、ドアにあるスイッチを押さなければドアは開かない。
少しタイミングを間違うと、走行中にドアが開いてしまう。
多くのひったくりは、電車が出発する瞬間に狙うようだ。
ドア付近にいる客をドアが閉まる寸前に手に持っているスマートフォンや財布をひったくる。
もしくは混雑した車内では、知らぬ間に財布をスる。
日本では考えられないほど、そういった犯罪は多い。
偏見で申し訳ないが、やはり大きな白人や黒人の男の人がいると、怖い。
日本人では出会うほとんどが日本人なので、多種多様な人種の人がいる、狭い空間というのを経験していない。
その免疫のなさは、やはり大きい。
日本は安全だという話はよくきく話だが、その一つは「単一民族(いや厳密にいうと全然違うのだが、フランスなどと比べるとやはり比較にならないくらい単一なのだ。)」だからなのだろう。
とにかく二人はおびえながら無事目的の駅に到着し、涼しいというよりむしろ寒いくらいの気温だったことも手伝って、いきなりトイレ・トラブル(その3)に襲われた。
公衆トイレなんてものはほとんど存在しない(あっても有料)フランスでは、そうなるとカフェに入るしかない。
すでに朝食を済ませたはずだが、奥さんに拝み倒してカフェに入ってもらった。
クロワッサンは要らん(ノン・メルシー)と伝えたのに、ちゃっかりクロワッサンまで運ばれて、なんとかトラブルを克服した。
あまりに焦って、トイレのどっちが前でどっちが後ろなのかわからなくなって、ちょっとした糞詰まりになったけれども、とにかく恥ずかしい日本人代表にはならずに済んだ。
ルーヴルの集合場所は、かなり早く着いたこともあり無事わかり、合流してついに入り口に立った。
それは予想よりも大きく、予想よりも遥かに緻密に作られた場所だった。
ルーヴルは美術館と言われるけれども、もともとは宮殿つまりお城だった。
しかし、私が想像するヨーロッパのお城というよりは、すでにその建物そのものが巨大な美術品だった。
ヴェルサイユではあまりゆっくり時間をとってみることができなかったこともあり、私にはルーヴルの方が圧倒的に迫ってきた。
ちなみに、ルーヴルは団体入り口があり、そこから入れてもらえたのでかなりスムーズに入場できた。
その後中庭になっているピラミッドのほうを見ると、長蛇の列ができていた。
日本から観光するなら、団体で入場した方が時間の節約になる。
もっとも、観光シーズンでなければそこまで人が多くなることもなかったのかもしれないが。
かつ、そこに貯蔵されている美術品は、誰もが教科書で見たことがあるものばかりだった。
もしくは、映画のモティーフになったり、テレビで特集されたりするようなたぐいの作品ばかりだった。
今回は丁寧に日本語(やはりたどたどしいが)でガイドさんがすべて解説を入れてくれたので、見るべきポイントを押さえて観賞することができた。
例えば、聖母マリアは青いマントを赤い衣の上から重ねているとか、十字架を持っている子どもは聖ヨハネであるとか。
描き方の巧みな差異によって思想をあらわそうとしているとか、ニケの像がいかにして造られたとか。
古代ギリシャの建造物の切れ端を、ルーヴル宮殿に据えているその豪華さと、狂気ぶりは一度実際に目にして欲しい。
それは本当に狂気としかいいようがない。
なぜなら、その貯蔵品はすべて、フランス人が他国や自国の人々を蹂躙してきた、歴史そのものだからだ。
だからといって、その帝国主義的な発想を一概に批判するつもりはない。
けれども、文化の発達というものは往々にしてそういう虐げられた人々がいるのだろうと感じずにはいられない。
フランスの歴史はほとんどわからない。
ノルマンディ地方の由来も知らなかったし、ナポレオンの遠征もほとんど忘れていた。
勉強してからきたかったけれども、ルーヴルの様子を味わうだけでもフランスの徹底ぶりはよくわかる。
特に人だかりができていたのは、国語の教科書でもでてきたミロのヴィーナス、ダ・ヴィンチのモナ・リザ、ニケの像だった。
そこは本当にすごい数の人間が集(たか)っていた。
それはスリ・ポイントでもあるらしく、必死に写真をとったり眺めたりしているときにすられることがよくあるらしい。
全てが写真撮影可能っていうのもすごい話だが。
合計3時間、歩きっぱなしで観賞した。
それでも全ては回りきれない。
多くのポイントは押さえてくれたが、ガイドが終わった後に見たかった作品を数点見回った。
私が一番心に残っているのは、フェルメールの作品だ。
「真珠の耳飾りの少女」でもなじみのなる彼の作品を数十センチのところで見られたのはうれしかったし、素直に感動した。
そのあまりの小ささにも。
歩き続けた私たちは疲れ果てたまま、ルーヴルを後にした。
もちろん、お土産も買い、かなりの荷物になっていた。
凱旋門はどうしても見ておきたい、とルーヴルから歩いてシャンゼリゼ通りを進む計画を立てていた。
さすがに疲れたので、ルーヴルの公園(チュイルリー庭園)でカフェに入り、サラダとサンドウィッチを頼んで休憩とした。
いかにも、御仏蘭西というようなカフェを後にして、再び歩き始めたが、コンコルド広場まで来てシャンゼリゼを避けて少し迂回することにした。
通りだけではなく、ブランド・ショップが建ち並ぶ地域にも足を運んでおきたかったのだ。
とりあえず手元にある地図でプラダやシャネルをはじめとする高級ブランド街を歩いていると、なにやらひときわ荘厳な建物が目に入った。
フランスの国旗がたなびき、周りには警備員が立っている。
写真を撮りまくっていた私はその建物もぱちり。
すると、近くにいた警備員が、いきなり「※◆○×!!」と叫んできた。
どうやらそのあたりは写真を撮ったらだめなところだったらしく、怒られてしまった。
危うく「朝ズバ!」で「迷惑日本人観光客」として取り上げられるところだった。
後で調べたが、そこはフランスの内閣府だったらしく、さすがにそれはまずかったと思った。
いや、少しは反省しましたよ、少しは。
そのあたりまで来ると、完全に道に迷ったことに気づいた。
本当にこの道はシャンゼリゼ通りを平行に進んでいるのかも怪しくなってきた。
微妙にカーブしているため、方向音痴になっている可能性があった。
iPhoneも電波が届かない(厳密に言うとお金がかかるので機内モードにしていた)ため、場所を調べることもできない。
誰かに聞くのもままならないので、とりあえず信じる方向へ進んでいく。
通りに人がいる(車の音がする)場所へ向かうと、やはりシャンゼリゼ通りだった。
そこから再び凱旋門の方へと歩き続けると、ようやく「よくテレビで見るあの」通りに出た。
多くのファッション・ブランドが建ち並び、日本でも見かけるブランドが数多く見受けられた。
映画館やカフェもあり、大きな繁華街になっていた。
ルイ・ヴィトンの本店とツーショットを撮りながら、ちょっと疲れ気味でリタイアしそうになりながら凱旋門へと歩き続けた。
そしてひときわ開けたところに出ると、そこには巨大な凱旋門がそびえていた。
バスの中からもその姿をみたわけだが、それよりもえげつないほど大きかった。
ナポレオンの時代に、これほど巨大なものがよく建てられたものだ。
屋上の展望台に上ることもできたが、それもものすごい人だったので、諦めた。
それよりもやっとたどり着けたという達成感のほうが大きかった。
これ以上徒歩で上がる気にはとてもなれない。
多くの人が写真を撮ったり、見上げたりしていた。
門と呼ぶにはあまりにも大きいこの建造物に四方に掘られた巨大な彫刻は、見る者をただただひれ伏させる。
門の内側には多くの人の名前が、門の下には数々の戦役で無くなった人々への鎮魂のメッセージが刻まれている。
私はほとんど読めなかったが、年号が刻まれているので、なんとかどの戦争を指しているのかは理解できる。
ナポレオンが遠征した先で「この戦に勝って帰るから凱旋門をくぐらせて欲しい」と命令し立てられたこの門の下をくぐるのが、世界中から来た戦争の「せ」の字も経験したことがないような人間たちだということはどこか皮肉だ。
街全体にいえることだが、こうした建造物を観光の資源として利用する以上に、保存しようという志は徹底されている。
エッフェル塔にせよ、凱旋門にせよ、世界中の多くの人が知っている建造物はそう多くない。
世界遺産ということばがどこか一人歩きしているようなきらいが日本ではあるが、これぞまさしく世界遺産なのだろう。
もう1歩も歩けません、と弱音を新郎は吐きながら、タクシーでホテルまで帰った。
その後はやはりスーパーマーケットで食事を買い込み、はやめに寝てしまった。
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モン・サン・ミッシェル、ヴェルサイユと続いたオプション・ツアーは最後のルーヴル宮観光となった。
朝から地下鉄で移動し、ルーヴル前の広場に集合となっていた。
朝食を済ませた私たちは、緊張しながら地下鉄に乗った。
先入観もあったのかもしれない。
日本の地下鉄とはかなり趣が違っていた。
様々な人種が利用するフランスの地下鉄は少し薄暗く、殺伐とした雰囲気だった。
鞄を前に抱えて、周りに集中して乗っていた。
車内は少し狭く、車体は路線によって少しずつ異なっていた。
降りるときも乗るときも、ドアにあるスイッチを押さなければドアは開かない。
少しタイミングを間違うと、走行中にドアが開いてしまう。
多くのひったくりは、電車が出発する瞬間に狙うようだ。
ドア付近にいる客をドアが閉まる寸前に手に持っているスマートフォンや財布をひったくる。
もしくは混雑した車内では、知らぬ間に財布をスる。
日本では考えられないほど、そういった犯罪は多い。
偏見で申し訳ないが、やはり大きな白人や黒人の男の人がいると、怖い。
日本人では出会うほとんどが日本人なので、多種多様な人種の人がいる、狭い空間というのを経験していない。
その免疫のなさは、やはり大きい。
日本は安全だという話はよくきく話だが、その一つは「単一民族(いや厳密にいうと全然違うのだが、フランスなどと比べるとやはり比較にならないくらい単一なのだ。)」だからなのだろう。
とにかく二人はおびえながら無事目的の駅に到着し、涼しいというよりむしろ寒いくらいの気温だったことも手伝って、いきなりトイレ・トラブル(その3)に襲われた。
公衆トイレなんてものはほとんど存在しない(あっても有料)フランスでは、そうなるとカフェに入るしかない。
すでに朝食を済ませたはずだが、奥さんに拝み倒してカフェに入ってもらった。
クロワッサンは要らん(ノン・メルシー)と伝えたのに、ちゃっかりクロワッサンまで運ばれて、なんとかトラブルを克服した。
あまりに焦って、トイレのどっちが前でどっちが後ろなのかわからなくなって、ちょっとした糞詰まりになったけれども、とにかく恥ずかしい日本人代表にはならずに済んだ。
ルーヴルの集合場所は、かなり早く着いたこともあり無事わかり、合流してついに入り口に立った。
それは予想よりも大きく、予想よりも遥かに緻密に作られた場所だった。
ルーヴルは美術館と言われるけれども、もともとは宮殿つまりお城だった。
しかし、私が想像するヨーロッパのお城というよりは、すでにその建物そのものが巨大な美術品だった。
ヴェルサイユではあまりゆっくり時間をとってみることができなかったこともあり、私にはルーヴルの方が圧倒的に迫ってきた。
ちなみに、ルーヴルは団体入り口があり、そこから入れてもらえたのでかなりスムーズに入場できた。
その後中庭になっているピラミッドのほうを見ると、長蛇の列ができていた。
日本から観光するなら、団体で入場した方が時間の節約になる。
もっとも、観光シーズンでなければそこまで人が多くなることもなかったのかもしれないが。
かつ、そこに貯蔵されている美術品は、誰もが教科書で見たことがあるものばかりだった。
もしくは、映画のモティーフになったり、テレビで特集されたりするようなたぐいの作品ばかりだった。
今回は丁寧に日本語(やはりたどたどしいが)でガイドさんがすべて解説を入れてくれたので、見るべきポイントを押さえて観賞することができた。
例えば、聖母マリアは青いマントを赤い衣の上から重ねているとか、十字架を持っている子どもは聖ヨハネであるとか。
描き方の巧みな差異によって思想をあらわそうとしているとか、ニケの像がいかにして造られたとか。
古代ギリシャの建造物の切れ端を、ルーヴル宮殿に据えているその豪華さと、狂気ぶりは一度実際に目にして欲しい。
それは本当に狂気としかいいようがない。
なぜなら、その貯蔵品はすべて、フランス人が他国や自国の人々を蹂躙してきた、歴史そのものだからだ。
だからといって、その帝国主義的な発想を一概に批判するつもりはない。
けれども、文化の発達というものは往々にしてそういう虐げられた人々がいるのだろうと感じずにはいられない。
フランスの歴史はほとんどわからない。
ノルマンディ地方の由来も知らなかったし、ナポレオンの遠征もほとんど忘れていた。
勉強してからきたかったけれども、ルーヴルの様子を味わうだけでもフランスの徹底ぶりはよくわかる。
特に人だかりができていたのは、国語の教科書でもでてきたミロのヴィーナス、ダ・ヴィンチのモナ・リザ、ニケの像だった。
そこは本当にすごい数の人間が集(たか)っていた。
それはスリ・ポイントでもあるらしく、必死に写真をとったり眺めたりしているときにすられることがよくあるらしい。
全てが写真撮影可能っていうのもすごい話だが。
合計3時間、歩きっぱなしで観賞した。
それでも全ては回りきれない。
多くのポイントは押さえてくれたが、ガイドが終わった後に見たかった作品を数点見回った。
私が一番心に残っているのは、フェルメールの作品だ。
「真珠の耳飾りの少女」でもなじみのなる彼の作品を数十センチのところで見られたのはうれしかったし、素直に感動した。
そのあまりの小ささにも。
歩き続けた私たちは疲れ果てたまま、ルーヴルを後にした。
もちろん、お土産も買い、かなりの荷物になっていた。
凱旋門はどうしても見ておきたい、とルーヴルから歩いてシャンゼリゼ通りを進む計画を立てていた。
さすがに疲れたので、ルーヴルの公園(チュイルリー庭園)でカフェに入り、サラダとサンドウィッチを頼んで休憩とした。
いかにも、御仏蘭西というようなカフェを後にして、再び歩き始めたが、コンコルド広場まで来てシャンゼリゼを避けて少し迂回することにした。
通りだけではなく、ブランド・ショップが建ち並ぶ地域にも足を運んでおきたかったのだ。
とりあえず手元にある地図でプラダやシャネルをはじめとする高級ブランド街を歩いていると、なにやらひときわ荘厳な建物が目に入った。
フランスの国旗がたなびき、周りには警備員が立っている。
写真を撮りまくっていた私はその建物もぱちり。
すると、近くにいた警備員が、いきなり「※◆○×!!」と叫んできた。
どうやらそのあたりは写真を撮ったらだめなところだったらしく、怒られてしまった。
危うく「朝ズバ!」で「迷惑日本人観光客」として取り上げられるところだった。
後で調べたが、そこはフランスの内閣府だったらしく、さすがにそれはまずかったと思った。
いや、少しは反省しましたよ、少しは。
そのあたりまで来ると、完全に道に迷ったことに気づいた。
本当にこの道はシャンゼリゼ通りを平行に進んでいるのかも怪しくなってきた。
微妙にカーブしているため、方向音痴になっている可能性があった。
iPhoneも電波が届かない(厳密に言うとお金がかかるので機内モードにしていた)ため、場所を調べることもできない。
誰かに聞くのもままならないので、とりあえず信じる方向へ進んでいく。
通りに人がいる(車の音がする)場所へ向かうと、やはりシャンゼリゼ通りだった。
そこから再び凱旋門の方へと歩き続けると、ようやく「よくテレビで見るあの」通りに出た。
多くのファッション・ブランドが建ち並び、日本でも見かけるブランドが数多く見受けられた。
映画館やカフェもあり、大きな繁華街になっていた。
ルイ・ヴィトンの本店とツーショットを撮りながら、ちょっと疲れ気味でリタイアしそうになりながら凱旋門へと歩き続けた。
そしてひときわ開けたところに出ると、そこには巨大な凱旋門がそびえていた。
バスの中からもその姿をみたわけだが、それよりもえげつないほど大きかった。
ナポレオンの時代に、これほど巨大なものがよく建てられたものだ。
屋上の展望台に上ることもできたが、それもものすごい人だったので、諦めた。
それよりもやっとたどり着けたという達成感のほうが大きかった。
これ以上徒歩で上がる気にはとてもなれない。
多くの人が写真を撮ったり、見上げたりしていた。
門と呼ぶにはあまりにも大きいこの建造物に四方に掘られた巨大な彫刻は、見る者をただただひれ伏させる。
門の内側には多くの人の名前が、門の下には数々の戦役で無くなった人々への鎮魂のメッセージが刻まれている。
私はほとんど読めなかったが、年号が刻まれているので、なんとかどの戦争を指しているのかは理解できる。
ナポレオンが遠征した先で「この戦に勝って帰るから凱旋門をくぐらせて欲しい」と命令し立てられたこの門の下をくぐるのが、世界中から来た戦争の「せ」の字も経験したことがないような人間たちだということはどこか皮肉だ。
街全体にいえることだが、こうした建造物を観光の資源として利用する以上に、保存しようという志は徹底されている。
エッフェル塔にせよ、凱旋門にせよ、世界中の多くの人が知っている建造物はそう多くない。
世界遺産ということばがどこか一人歩きしているようなきらいが日本ではあるが、これぞまさしく世界遺産なのだろう。
もう1歩も歩けません、と弱音を新郎は吐きながら、タクシーでホテルまで帰った。
その後はやはりスーパーマーケットで食事を買い込み、はやめに寝てしまった。
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