評価点:78点/2013年/日本/126分
監督:宮崎駿
あの時代に、密室で過ごした夫婦の物語。
1913年に東京で起こった大震災の直前、列車で東京に向かっていた堀越二郎(声:庵野秀明)は、列車の中で大きな揺れを経験する。
乗り合わせた菜穂子(声:瀧本美織)の使用人がケガをしたのを、懸命に看病し、家に送り届ける。
そして2年後、二郎は戦闘機の開発に携わり、三菱に入社した。
世界の戦闘機の技術を学びながら、世界最先端の技術の開発に命じられていた。
時代は日清、日露、そして大東亜戦争へと動き出していた。
宮崎駿監督最新作。
いつまで彼で引っ張り続けるのか、というジブリの後継者問題を厭でも心配させる劇場公開でもある。
この作品の話題性はそれだけではなく、あの「ヱヴァンゲリヲン」の庵野監督を主人公の声優に担ぎ上げたのだ。
「そんな仕事を受けるくらいなら、はやく映画を公開しろよ」と誰もが胸に秘めながら、それを押し殺して劇場に足を向けるわけだ。
脇を固める声優陣も、殆どが役者たちばかり。
「耳をすませば」の二の舞にならないかと不安ばかりが募るこの作品だが、公開直後の出足は好調のようだ。
平日の昼間に行ける時間ができたので、私は足を運んだが、映画館はほぼ満員だった。
「もののけ姫」以降、宮崎映画は子どもに向けて作られたものは少ない。
この映画も子どもが一緒に見に行ってわくわくどきどきできるシークエンスは殆どないだろう。
むしろ、大人、しかもある程度映画に慣れた人でなければ理解しがたいところもある。
「それがジブリかよ」と言われればそれで終わりだが、「それもジブリだろう」という寛容な心の持ち主だけが映画館にいこう。
▼以下はネタバレあり▼
これまで戦争を批判する映画を撮り続けてきた宮崎監督が、戦争まっただ中の日本を舞台にした、しかも史実(半フィクション)に基づいた映画を撮る。
70歳を越えて、さらに挑戦をやめることがない態度には敬服する。
しかも、ジブリという足かせ(おっと失礼)を背負いながら、自分が牽引するしかない状況で「絶対に売れる映画を撮らなければならない」プレッシャーは相当なものだろう。
足かせを背負うって変やけど。
もちろん、それはリスペクトというよりはアイロニーであるわけだが、それでも映画館に行かないわけにはいかない。
疲れが残る、平日の午後に寝ぼけ眼でうとうとしながら席に座った。
両隣には二〇代と思しき女性が座っていた。
一人で見に行くと自分の感覚が正しいのか不安になることがあるので、隣の人の顔をみることがあるのだけれど(だいたい集中していない映画が多い)、隣の女性は二人とも泣いていた。
映画としてはそれなりに成功しているのかもしれない。
この映画は、この時代に生きた二人の男の人生を足して二で割ったような物語になっている。
一人は、零戦を開発した設計士。
もう一人は、妻を肺結核で亡くした作家である。
史実とどのように違うのか、どのように組み合わされているかという点を分析するつもりはない。
この映画はリアリティを追求した映画ではないからだ。
大東亜戦争をモティーフにしながら、その戦争の様子が殆ど描かれていないことからもそれはわかる。
だから、この映画を見て「戦争が精確に描かれていない」というような批判は一切意味をなさない。
戦争をどのように描くかは、その監督や脚本という作り手の考えそのものなのだから、「反戦映画でなければならない」ことはない。
また、「戦争で死んでいった人々への敬意」が込められていなければならないという道理もない。
日本で大東亜戦争を描こうとするとき、そうした「右か左か」という一つの観点でしか語られないのは、どこか違和感がある。
だから、悲しい戦争映画でも、勇ましい戦争映画でもない、戦争映画が存在してもよいのだ。
それが描けるようになったことが「戦後」から脱却しつつある証拠なのかもしれない。
この映画では殆ど戦争の悲惨さは描かれていない。
いや、その悲惨さはすでにあるものとして描かれている。
だから間接的にしか描かれないのだ。
この映画で戦争の悲しみが読み取れなかった人は、そうとうお気楽か、そうとう大東亜戦争についての知識が乏しいかのどちらかだ。
人が殺される場面を描くことが、戦争の悲惨さを描くことではない。
それは、ドキュメンタリーで十分だ。
この映画は徹底して個人を描いている。
「風が吹いた。生きねばならぬ」と様々な人物たちが口にするが、まさにこの映画はそのメッセージが貫かれている。
この映画では社会的な、国際的な視座をもって戦争は描かれない。
だから、そういう戦争物を期待した人、それを見にいって宮崎を批判したかった人は拍子抜けしたことだろう。
この映画はほとんど密室劇と言っても良い。
その密室とは、閉じられた個人だ。
部屋から一歩も出ることができない、菜穂子が閉じ込められた密室だ。
二郎はただただ飛行機作りを夢見た設計士だった。
そこは無邪気ともいえるほど、純真無垢な「美しさ」を求めていた。
その密室状態だった彼に、戦争という世界の大きな変化が、風として吹き荒れる。
彼は戦争に対して後ろ向きだったのか。
あるいは戦争を直視していなかったのか。
いや、全くそんなことはない。
ただ、それを描かなかっただけだ。
その描き方が、彼の空想の世界を通して描いていただけだ。
草原に現れるカプローニとのやりとりは、すべて彼の内面の世界を表現している。
その描写の方法が、夢なのか、現実なのか、とらえにくいだけで、彼の葛藤は十分伝わってくる。
彼は菜穂子に対して愛情をいだいていなかったわけではない。
戦争のために兵器を開発していたことに対して前向きだったわけではない。
けれども、それを差し置いても「生きなければならなかった」のだ。
戦争という風が吹いても、妻が肺結核になるという風が吹いても、それでも彼は生きることをやめることができなかったのだ。
それが飛行機の開発ということだ。
この映画が描いているのは、風によって翻弄される個人なのだ。
反戦を標榜する人は、なぜ零戦を開発するのか、なぜ戦争に対して反旗を翻すことをしないのか、疑問に思うかもしれない。
あるいは大東亜戦争が「必然の戦争」であり「正義の戦争」と考える人は、なぜもっときちんとあの戦争を描かないのか、と腹立たしかったかもしれない。
だが、二郎の人物像はそんなに強くも、弱くもない。
二郎にとって生きるとは、飛行機を設計することであり、それが時代にどのように要求されるかという点は後の話だ。
殆どの人々は、あるいは「個人」というパーソナリティを確立していた人は、戦争に対してそのように関わっていたのではないか。
誰かに洗脳されたから命を落としたのだとか、世界を欧米諸国から守るためには日本が戦争をしなければならなかったのだとか、そういう巨視的な見方だけが戦争の体験ではないはずだ。
堀越二郎は幸いにして、飛行機の設計というその時代には珍しい技能をもっていた。
そしてそれは戦争を優位にするための強力な武器となり得るものだった。
だから、利用されてしまった。
それが是とするか非とするかは、その時代が終わった後にしか判断できない。
少なくとも、生きることは、仕事をすることは、彼にとって飛行機の設計だったわけだ。
この映画は、戦争をモティーフにしながら純真すぎる人物ばかりだ。
菜穂子にしても、まっすぐに二郎を愛している。
しかし、彼女には深い葛藤があったことは細かな描写を追えばすぐにわかることだ。
野暮になってしまった台詞に「菜穂子さんは自分の美しい姿だけを見せたんだね」という一言で、彼女がどれだけ苦しんでいたかはわかるだろう。
愛することを懸命に求めた菜穂子に、肺結核という風が吹く。
彼らは激動の時代だった戦時中を、無関心に、無責任に生きていたわけではない。
自分の生き方の中で、必死に、翻弄されながらも生き抜いたのだ。
その絶妙なバランスは、宮崎にしか描けなかったシナリオだろう。
そうかといって手放しで絶賛できるほど、「描きたいこと」に特化できたわけではない。
このメッセージ性ならば、もっとスリムに、もっと「不親切に」描いた方がよかっただろう。
テーマやモティーフから考えて、どうせお子様向けのアニメにはできない。
それなら、もっと不親切に、もっと説明的描写を減らして描いた方が、より映画らしい映画になったに違いない。
そのあたりの迷いが、この映画を冗長で、退屈なものにしてしまった。
ジブリの新たな方向性を感じさせる映画ほどの衝撃さはない。
今年はさらに「竹取物語」をモティーフにした「かぐや姫の物語」が公開される。
興行収入以上に、顧客満足度が注目される、ジブリの年である。
監督:宮崎駿
あの時代に、密室で過ごした夫婦の物語。
1913年に東京で起こった大震災の直前、列車で東京に向かっていた堀越二郎(声:庵野秀明)は、列車の中で大きな揺れを経験する。
乗り合わせた菜穂子(声:瀧本美織)の使用人がケガをしたのを、懸命に看病し、家に送り届ける。
そして2年後、二郎は戦闘機の開発に携わり、三菱に入社した。
世界の戦闘機の技術を学びながら、世界最先端の技術の開発に命じられていた。
時代は日清、日露、そして大東亜戦争へと動き出していた。
宮崎駿監督最新作。
いつまで彼で引っ張り続けるのか、というジブリの後継者問題を厭でも心配させる劇場公開でもある。
この作品の話題性はそれだけではなく、あの「ヱヴァンゲリヲン」の庵野監督を主人公の声優に担ぎ上げたのだ。
「そんな仕事を受けるくらいなら、はやく映画を公開しろよ」と誰もが胸に秘めながら、それを押し殺して劇場に足を向けるわけだ。
脇を固める声優陣も、殆どが役者たちばかり。
「耳をすませば」の二の舞にならないかと不安ばかりが募るこの作品だが、公開直後の出足は好調のようだ。
平日の昼間に行ける時間ができたので、私は足を運んだが、映画館はほぼ満員だった。
「もののけ姫」以降、宮崎映画は子どもに向けて作られたものは少ない。
この映画も子どもが一緒に見に行ってわくわくどきどきできるシークエンスは殆どないだろう。
むしろ、大人、しかもある程度映画に慣れた人でなければ理解しがたいところもある。
「それがジブリかよ」と言われればそれで終わりだが、「それもジブリだろう」という寛容な心の持ち主だけが映画館にいこう。
▼以下はネタバレあり▼
これまで戦争を批判する映画を撮り続けてきた宮崎監督が、戦争まっただ中の日本を舞台にした、しかも史実(半フィクション)に基づいた映画を撮る。
70歳を越えて、さらに挑戦をやめることがない態度には敬服する。
しかも、ジブリという足かせ(おっと失礼)を背負いながら、自分が牽引するしかない状況で「絶対に売れる映画を撮らなければならない」プレッシャーは相当なものだろう。
足かせを背負うって変やけど。
もちろん、それはリスペクトというよりはアイロニーであるわけだが、それでも映画館に行かないわけにはいかない。
疲れが残る、平日の午後に寝ぼけ眼でうとうとしながら席に座った。
両隣には二〇代と思しき女性が座っていた。
一人で見に行くと自分の感覚が正しいのか不安になることがあるので、隣の人の顔をみることがあるのだけれど(だいたい集中していない映画が多い)、隣の女性は二人とも泣いていた。
映画としてはそれなりに成功しているのかもしれない。
この映画は、この時代に生きた二人の男の人生を足して二で割ったような物語になっている。
一人は、零戦を開発した設計士。
もう一人は、妻を肺結核で亡くした作家である。
史実とどのように違うのか、どのように組み合わされているかという点を分析するつもりはない。
この映画はリアリティを追求した映画ではないからだ。
大東亜戦争をモティーフにしながら、その戦争の様子が殆ど描かれていないことからもそれはわかる。
だから、この映画を見て「戦争が精確に描かれていない」というような批判は一切意味をなさない。
戦争をどのように描くかは、その監督や脚本という作り手の考えそのものなのだから、「反戦映画でなければならない」ことはない。
また、「戦争で死んでいった人々への敬意」が込められていなければならないという道理もない。
日本で大東亜戦争を描こうとするとき、そうした「右か左か」という一つの観点でしか語られないのは、どこか違和感がある。
だから、悲しい戦争映画でも、勇ましい戦争映画でもない、戦争映画が存在してもよいのだ。
それが描けるようになったことが「戦後」から脱却しつつある証拠なのかもしれない。
この映画では殆ど戦争の悲惨さは描かれていない。
いや、その悲惨さはすでにあるものとして描かれている。
だから間接的にしか描かれないのだ。
この映画で戦争の悲しみが読み取れなかった人は、そうとうお気楽か、そうとう大東亜戦争についての知識が乏しいかのどちらかだ。
人が殺される場面を描くことが、戦争の悲惨さを描くことではない。
それは、ドキュメンタリーで十分だ。
この映画は徹底して個人を描いている。
「風が吹いた。生きねばならぬ」と様々な人物たちが口にするが、まさにこの映画はそのメッセージが貫かれている。
この映画では社会的な、国際的な視座をもって戦争は描かれない。
だから、そういう戦争物を期待した人、それを見にいって宮崎を批判したかった人は拍子抜けしたことだろう。
この映画はほとんど密室劇と言っても良い。
その密室とは、閉じられた個人だ。
部屋から一歩も出ることができない、菜穂子が閉じ込められた密室だ。
二郎はただただ飛行機作りを夢見た設計士だった。
そこは無邪気ともいえるほど、純真無垢な「美しさ」を求めていた。
その密室状態だった彼に、戦争という世界の大きな変化が、風として吹き荒れる。
彼は戦争に対して後ろ向きだったのか。
あるいは戦争を直視していなかったのか。
いや、全くそんなことはない。
ただ、それを描かなかっただけだ。
その描き方が、彼の空想の世界を通して描いていただけだ。
草原に現れるカプローニとのやりとりは、すべて彼の内面の世界を表現している。
その描写の方法が、夢なのか、現実なのか、とらえにくいだけで、彼の葛藤は十分伝わってくる。
彼は菜穂子に対して愛情をいだいていなかったわけではない。
戦争のために兵器を開発していたことに対して前向きだったわけではない。
けれども、それを差し置いても「生きなければならなかった」のだ。
戦争という風が吹いても、妻が肺結核になるという風が吹いても、それでも彼は生きることをやめることができなかったのだ。
それが飛行機の開発ということだ。
この映画が描いているのは、風によって翻弄される個人なのだ。
反戦を標榜する人は、なぜ零戦を開発するのか、なぜ戦争に対して反旗を翻すことをしないのか、疑問に思うかもしれない。
あるいは大東亜戦争が「必然の戦争」であり「正義の戦争」と考える人は、なぜもっときちんとあの戦争を描かないのか、と腹立たしかったかもしれない。
だが、二郎の人物像はそんなに強くも、弱くもない。
二郎にとって生きるとは、飛行機を設計することであり、それが時代にどのように要求されるかという点は後の話だ。
殆どの人々は、あるいは「個人」というパーソナリティを確立していた人は、戦争に対してそのように関わっていたのではないか。
誰かに洗脳されたから命を落としたのだとか、世界を欧米諸国から守るためには日本が戦争をしなければならなかったのだとか、そういう巨視的な見方だけが戦争の体験ではないはずだ。
堀越二郎は幸いにして、飛行機の設計というその時代には珍しい技能をもっていた。
そしてそれは戦争を優位にするための強力な武器となり得るものだった。
だから、利用されてしまった。
それが是とするか非とするかは、その時代が終わった後にしか判断できない。
少なくとも、生きることは、仕事をすることは、彼にとって飛行機の設計だったわけだ。
この映画は、戦争をモティーフにしながら純真すぎる人物ばかりだ。
菜穂子にしても、まっすぐに二郎を愛している。
しかし、彼女には深い葛藤があったことは細かな描写を追えばすぐにわかることだ。
野暮になってしまった台詞に「菜穂子さんは自分の美しい姿だけを見せたんだね」という一言で、彼女がどれだけ苦しんでいたかはわかるだろう。
愛することを懸命に求めた菜穂子に、肺結核という風が吹く。
彼らは激動の時代だった戦時中を、無関心に、無責任に生きていたわけではない。
自分の生き方の中で、必死に、翻弄されながらも生き抜いたのだ。
その絶妙なバランスは、宮崎にしか描けなかったシナリオだろう。
そうかといって手放しで絶賛できるほど、「描きたいこと」に特化できたわけではない。
このメッセージ性ならば、もっとスリムに、もっと「不親切に」描いた方がよかっただろう。
テーマやモティーフから考えて、どうせお子様向けのアニメにはできない。
それなら、もっと不親切に、もっと説明的描写を減らして描いた方が、より映画らしい映画になったに違いない。
そのあたりの迷いが、この映画を冗長で、退屈なものにしてしまった。
ジブリの新たな方向性を感じさせる映画ほどの衝撃さはない。
今年はさらに「竹取物語」をモティーフにした「かぐや姫の物語」が公開される。
興行収入以上に、顧客満足度が注目される、ジブリの年である。
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