評価点:73点/2013年/アメリカ/142分
監督: バズ・ラーマン
ある時代に生きた、ある時代の男。
1922年、世界大戦がおわり、アメリカは空前の好景気に見舞われていた。
ニューヨークでは株価が恐ろしいほど値上がりし、証券取引はごった返していた。
若い証券マンのニック(トビー・マグワイア)は、ニューヨークの郊外ウェストエッグに引っ越した。
その向かいにあるイーストエッグに住むいとこのデイジー(キャリー・マリガン)はトムという男と結婚し、5年になる。
ある日トムに招待されたニックは、そこでデイジーとの関係が冷え切っていることを聞かされる。
そして、もう一つ、ニックの隣に住む男、ギャツビーという名の男が夜な夜な盛大なパーティをしているという話が話題に上る。
人を殺している、オックスフォード大学卒業である、など数々の奇妙な噂が立っているというのだ。
公開からずいぶん時間がたって見に行くことになってしまった。
出張やらなんやらで忙しかったためだ。
結局「エンド・オブ~」から一月経っている。
「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ」も批評にできていない。
う~ん、そんなに忙しいはずはないのだが。
公開から時間が経っていたため、3D公開が終了していた。
仕方がないので、2Dで鑑賞することにした。
「ギャツビー」を知らない日本人が多いだろうから、ほとんど予備知識無しでの評価が世間の評価と言うことになるだろう。
アメリカではどれくらい読まれているのか知らないが、アメリカ文学といえば、歴史の浅い、数少ないアメリカ文学の中では、有名な作品だろう。
私ももう十年ほど前に読んだ記憶がある。
それほどおもしろいとは思わなかったし、それほど記憶にも残っていない。
読み直そうと思って、お茶会に誘うところあたりまで読み進めていたが、それも中途半端なまま見に行った。
もう公開終了間近だろうから、見に行っていない人で興味がある人は急ぐべきだ。
私としては、キャスティングがよかったと思う。
30歳前後の登場人物にしては老けているけれど、まあ、許容範囲だろう。
▼以下はネタバレあり▼
アメリカが最も歓喜に沸いていた時代、そしてその後暗黒の恐慌を迎えるという時代。
それが、1920年代という時代だ。
当時を知る人はもう少なくなってしまったが、絶頂と谷底を同時に経験した激動の期間なのだ。
その象徴ともいえるのが、フィッツジェラルドの「グレイト・ギャツビー」という物語だ。
村上春樹も翻訳しているので、日本でもそこそこ有名かもしれない。
私が想像していた「絶頂」よりも、遥かにこの映画のほうが華やかだった。
大きな筋は、人々が慣れ親しんできた「ギャツビー」そのものだろう。
今回はニックが回想するという点が大きな要素として再話されている。
精神病棟で苦しむニックは、当時の狂気的な様子を、ギャツビーという人物との出会いから切り取ろうとする。
そして、最後に「グレイト・ギャツビー」という物語を書き上げるというメタ・フィクションの物語として完結させる。
ニックをフィッツジェラルドに見立てているわけだ。
私は原作者について殆ど知識を持たないので、それが正しいのかどうか判断しかねる。
史実との検証を目的とはしていないので、そういうものだとして受け取るしかない。
物語を語る、その語り手にスポットが当てられているということは、語り手そのものの心境、語り手の〈今〉を考えないわけにはいかない。
あの時代にあった狂気をニックは問題にしたかったというわけだ。
そしてそれは語る現在のニックが「不眠症・アルコール依存症」に苦しんでいる元凶そのものに迫ろうという行為でもある。
それは、簡単に言えば、時代に対する不信感と、人間に対する不信感と言えるだろう。
ギャツビーに対する人々の対応は、超好景気と世界恐慌という二つの時代を反映した者だと言えるが、そうだとしても、あまりにも理不尽だ。
それを目の当たりにした彼は、証券取引という自分の生業の破綻だけではなく、精神を病むことになる。
映画の大きな結構はそういうことになるだろう。
ギャツビーは自身の過去について一切語らなかった。
語ったのは、最後の「デイジーの電話を待つ」夜だけだ。
彼は過去を秘匿しながら、のし上がっていく。
すべてはデイジーのために、彼女が望んだことを実現するために汚れた仕事をしながら、待つ。
そこには執念にも似た愛がある。
ギャツビーがどのような人生を送ってきたのか、繰り返すことはやめてこう。
原作から大きく逸脱したものではないし、ストーリーを並べ立てて文章を長くしたくはない。
ただ、言えることは何も持たないギャツビーがのし上がり、そして全てを失ったのは、まさにあの頃の時代を反映したものであるということだ。
当時の彼らはひどく軽薄で、「なぜアメリカがこんなにも好景気なのか」という反省無しに好景気を謳歌していた。
そして、いったんお金を失った者に対しては、一切顧みることがなかった。
絢爛であればあるほど、豪華であればあるほど、その軽薄な人間性を目立たせるように描かれている。
その端的な手法が3Dという手法だったのだろう。
私は2Dで見たが、明らかに3Dを意識したようなカットやアングルがたくさんあった。
その手法が正しかったかは別にして、立体的に見せることができる技術を得た今、彼らの薄っぺらい様子を立体的に描こうとしたのだろう。
逆説的ではあるけれども。
ちょうど絢爛豪華な生活ぶりをフランシス・コッポラが「マリー・アントワネット」で描いたように、この作品も空虚で薄っぺらい、軽薄な人々の様子と、既に「終わってしまっていた」愛に執着するギャツビーの半生を描いている。
映画としての完成度は高いと思う。
音楽も、キャスティングもすばらしい。
キャリー・マリガンはまた一つ大きなキャリアをつくった気がする。
恋人が死んだり、去ったりする役をさせると一流になったディカプリオは、言うまでもなくすばらしい。
ただし、映画史に残るほどの鮮烈さがあったか。
今年1本の映画か、といわれると首をかしげてしまう。
特に好景気に沸いたわけでもなく、不景気に突入して、景気が回復したんだかどうだかわからない私たち日本の国でこの映画を鑑賞したときに、それほど大きな共感めいたものは感じられない。
時代がこの作品をもう一度掘り起こすべきだというニーズも感じられない。
それ以上に、鮮烈に心を振るわせるほどの完成度でもなかった気がする。
と、ここまで書いた後、村上春樹の「グレイト・ギャツビー」を読み終えて、感じたことがある。
それは原作に対して「何かひどく言いたくないことを書こうとした作品」という印象を、昔読んだときに受けた記憶がよみがえってきたということだ。
過去を再現することはできないというテーゼに対して、語り手はどうしても語りきれないまどろっこしさのようなものをまといながら書いていた。
そんなふうに感じたことを、春樹の訳で読み直して、「ああ、そういえばそうだった」と思い出した。
私が原作に対して「それほどおもしろいと思わなかった」のはそのためだろう。
それに対して、この映画化は私にとって「わかりにくかった部分」をさらりと、ダイレクトに映像化してしまった。
しかもカラーで、しかも3DやCGを駆使して。
その語りにくさと、あまりにも鮮やかな映像とのギャップが大きかったことは、付け加えておこう。
原作(原文)はわからないが、過去を語ると言うことにおいて、すべてが「鮮やかに再現される」ことそのものを望んでいない作品もあるのではないか、この映画において「原作の再現」という点で違和感があるのはそのためかもしれない。
いや、原作の再現が映画の宿命ではないことも確かなのだが。
監督: バズ・ラーマン
ある時代に生きた、ある時代の男。
1922年、世界大戦がおわり、アメリカは空前の好景気に見舞われていた。
ニューヨークでは株価が恐ろしいほど値上がりし、証券取引はごった返していた。
若い証券マンのニック(トビー・マグワイア)は、ニューヨークの郊外ウェストエッグに引っ越した。
その向かいにあるイーストエッグに住むいとこのデイジー(キャリー・マリガン)はトムという男と結婚し、5年になる。
ある日トムに招待されたニックは、そこでデイジーとの関係が冷え切っていることを聞かされる。
そして、もう一つ、ニックの隣に住む男、ギャツビーという名の男が夜な夜な盛大なパーティをしているという話が話題に上る。
人を殺している、オックスフォード大学卒業である、など数々の奇妙な噂が立っているというのだ。
公開からずいぶん時間がたって見に行くことになってしまった。
出張やらなんやらで忙しかったためだ。
結局「エンド・オブ~」から一月経っている。
「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ」も批評にできていない。
う~ん、そんなに忙しいはずはないのだが。
公開から時間が経っていたため、3D公開が終了していた。
仕方がないので、2Dで鑑賞することにした。
「ギャツビー」を知らない日本人が多いだろうから、ほとんど予備知識無しでの評価が世間の評価と言うことになるだろう。
アメリカではどれくらい読まれているのか知らないが、アメリカ文学といえば、歴史の浅い、数少ないアメリカ文学の中では、有名な作品だろう。
私ももう十年ほど前に読んだ記憶がある。
それほどおもしろいとは思わなかったし、それほど記憶にも残っていない。
読み直そうと思って、お茶会に誘うところあたりまで読み進めていたが、それも中途半端なまま見に行った。
もう公開終了間近だろうから、見に行っていない人で興味がある人は急ぐべきだ。
私としては、キャスティングがよかったと思う。
30歳前後の登場人物にしては老けているけれど、まあ、許容範囲だろう。
▼以下はネタバレあり▼
アメリカが最も歓喜に沸いていた時代、そしてその後暗黒の恐慌を迎えるという時代。
それが、1920年代という時代だ。
当時を知る人はもう少なくなってしまったが、絶頂と谷底を同時に経験した激動の期間なのだ。
その象徴ともいえるのが、フィッツジェラルドの「グレイト・ギャツビー」という物語だ。
村上春樹も翻訳しているので、日本でもそこそこ有名かもしれない。
私が想像していた「絶頂」よりも、遥かにこの映画のほうが華やかだった。
大きな筋は、人々が慣れ親しんできた「ギャツビー」そのものだろう。
今回はニックが回想するという点が大きな要素として再話されている。
精神病棟で苦しむニックは、当時の狂気的な様子を、ギャツビーという人物との出会いから切り取ろうとする。
そして、最後に「グレイト・ギャツビー」という物語を書き上げるというメタ・フィクションの物語として完結させる。
ニックをフィッツジェラルドに見立てているわけだ。
私は原作者について殆ど知識を持たないので、それが正しいのかどうか判断しかねる。
史実との検証を目的とはしていないので、そういうものだとして受け取るしかない。
物語を語る、その語り手にスポットが当てられているということは、語り手そのものの心境、語り手の〈今〉を考えないわけにはいかない。
あの時代にあった狂気をニックは問題にしたかったというわけだ。
そしてそれは語る現在のニックが「不眠症・アルコール依存症」に苦しんでいる元凶そのものに迫ろうという行為でもある。
それは、簡単に言えば、時代に対する不信感と、人間に対する不信感と言えるだろう。
ギャツビーに対する人々の対応は、超好景気と世界恐慌という二つの時代を反映した者だと言えるが、そうだとしても、あまりにも理不尽だ。
それを目の当たりにした彼は、証券取引という自分の生業の破綻だけではなく、精神を病むことになる。
映画の大きな結構はそういうことになるだろう。
ギャツビーは自身の過去について一切語らなかった。
語ったのは、最後の「デイジーの電話を待つ」夜だけだ。
彼は過去を秘匿しながら、のし上がっていく。
すべてはデイジーのために、彼女が望んだことを実現するために汚れた仕事をしながら、待つ。
そこには執念にも似た愛がある。
ギャツビーがどのような人生を送ってきたのか、繰り返すことはやめてこう。
原作から大きく逸脱したものではないし、ストーリーを並べ立てて文章を長くしたくはない。
ただ、言えることは何も持たないギャツビーがのし上がり、そして全てを失ったのは、まさにあの頃の時代を反映したものであるということだ。
当時の彼らはひどく軽薄で、「なぜアメリカがこんなにも好景気なのか」という反省無しに好景気を謳歌していた。
そして、いったんお金を失った者に対しては、一切顧みることがなかった。
絢爛であればあるほど、豪華であればあるほど、その軽薄な人間性を目立たせるように描かれている。
その端的な手法が3Dという手法だったのだろう。
私は2Dで見たが、明らかに3Dを意識したようなカットやアングルがたくさんあった。
その手法が正しかったかは別にして、立体的に見せることができる技術を得た今、彼らの薄っぺらい様子を立体的に描こうとしたのだろう。
逆説的ではあるけれども。
ちょうど絢爛豪華な生活ぶりをフランシス・コッポラが「マリー・アントワネット」で描いたように、この作品も空虚で薄っぺらい、軽薄な人々の様子と、既に「終わってしまっていた」愛に執着するギャツビーの半生を描いている。
映画としての完成度は高いと思う。
音楽も、キャスティングもすばらしい。
キャリー・マリガンはまた一つ大きなキャリアをつくった気がする。
恋人が死んだり、去ったりする役をさせると一流になったディカプリオは、言うまでもなくすばらしい。
ただし、映画史に残るほどの鮮烈さがあったか。
今年1本の映画か、といわれると首をかしげてしまう。
特に好景気に沸いたわけでもなく、不景気に突入して、景気が回復したんだかどうだかわからない私たち日本の国でこの映画を鑑賞したときに、それほど大きな共感めいたものは感じられない。
時代がこの作品をもう一度掘り起こすべきだというニーズも感じられない。
それ以上に、鮮烈に心を振るわせるほどの完成度でもなかった気がする。
と、ここまで書いた後、村上春樹の「グレイト・ギャツビー」を読み終えて、感じたことがある。
それは原作に対して「何かひどく言いたくないことを書こうとした作品」という印象を、昔読んだときに受けた記憶がよみがえってきたということだ。
過去を再現することはできないというテーゼに対して、語り手はどうしても語りきれないまどろっこしさのようなものをまといながら書いていた。
そんなふうに感じたことを、春樹の訳で読み直して、「ああ、そういえばそうだった」と思い出した。
私が原作に対して「それほどおもしろいと思わなかった」のはそのためだろう。
それに対して、この映画化は私にとって「わかりにくかった部分」をさらりと、ダイレクトに映像化してしまった。
しかもカラーで、しかも3DやCGを駆使して。
その語りにくさと、あまりにも鮮やかな映像とのギャップが大きかったことは、付け加えておこう。
原作(原文)はわからないが、過去を語ると言うことにおいて、すべてが「鮮やかに再現される」ことそのものを望んでいない作品もあるのではないか、この映画において「原作の再現」という点で違和感があるのはそのためかもしれない。
いや、原作の再現が映画の宿命ではないことも確かなのだが。
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