評価点:65点/2004年/日本
原作:田辺聖子
監督:犬童一心
「すっげー懐かしい」程度の物語。
大学四回生の恒夫(妻夫木聡)は、九州から大阪に大学のためにやってきた、口がうまく女好きな典型的な大学生。
彼は深夜の雀荘で働いていた。
朝方、いつものように雀荘の飼い犬の散歩に出かけていると、毎日乳母車を押している老婆の、その乳母車が彼の前に転がってきた。
中には若い女性ジョゼ(池脇千鶴)がいた。
彼女は下半身が不随で、毎日そのおばあちゃんが散歩に連れて行っているという。
こうしてジョゼと恒夫との交流が始まるのだが…。
公開当時、あの池脇千鶴が脱いだ! ということで話題になっていた。
まったくストーリーも知らなかったので、結局見ずじまいに終わっていた。
朝の連続ドラマ小説がけっこう好きな僕にとっては、「ほんまもん」の池脇が主演というだけでも気になる。
今回、ずっと見る機械を逸していたが、とうとう近所のレンタルビデオ屋でようやく借りることができたので、
借りてみようと思い立ったわけである。
大学生以降なら、けっこう感情移入できるはずだ。
なかなかの良作なので、見る価値はあるだろう。
ただ、池脇ファンと、妻夫木ファンは、イメージを壊されたくないならやめといた方がいいかもしれない。
本作で二人とも役幅を広げたことは間違いないだろうけれどね。
僕は、二人とも、従来のイメージよりも好きになった。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を見ている最中は、思ったよりは出来がいいと思っていた。
しかし、見終わった直後、どこか面白くない、どこか物足りない、と思った。
なぜか。
少し時間をおいて思ったことは、「語り」に原因があるのだ、ということだった。
この映画のキャスティングは、清潔感のある好青年と、純情のイメージがついている女優であり、綺麗なイメージがある役者が主演をつとめている。
しかし、その役所は決してそれまでのイメージ通りのものではない。
むしろ、典型的な日本のダメ学生など、イメージを壊すような役を演じている。
恒夫は、好奇心旺盛で、「女」がいないと生きていけない大学生。
かわいい女の子をみると、すぐに話しかけてしまう。
ただし、単なるナンパな男ではなく、彼にも「話が面白い」といった魅力があり、女の方が彼に惚れてしまうのだ。
今の大学生を正しく、そして丁寧に人物化しているのが、恒夫なのだ。
その恒夫は、ひょんなことから下半身麻痺の少女に出会う。
好意をもっていたというよりも、単に身体障害者への好奇心からか、恒夫はジョゼと名乗るその少女に惹かれていく。
そのジョゼもまた正しく身体障害者の少女を演じている。
一緒に住んでいるおばあさんから親切にされているものの、身体障害者が近所にばれるとダメだ、という理由から隠されている。
ほとんど家から出る機会のないジョゼは、性格は内向的で、排他的である。
本を読むことくらいしか、時間をつぶす方法を知らない。
もっと言えば、同居するおばあさん以外、彼女に「他者」はいないのだ。
気は強い。しかし、孤独なのである。
そんなジョゼに、恒夫は惹かれていく。
その理由はいくらでもあるだろう。
それまでいい加減に女性とつき合っていた恒夫にとって、ジョゼは未知の女性であり、「何かを背負っている」強く、そして脆い人に惹かれるのは当然なのかもしれない。
恒夫は大学四回生になり、そして就職し、ジョゼと一緒に暮らし始める。
恒夫の実家がある九州で法事があり、そこにジョゼを連れて行こうとする。
その小旅行の模様が、作品冒頭で語られるナレーションの出来事なのである。
その意味では、前置きが肥大しているものの、この映画をロードムービーととらえることも可能だろう。
いかにしてジョゼに出会い、そして別れるのか、というのがこの映画の中心的な物語なのだ。
その小旅行は、一見うまくいっていたかのように見えるジョゼとの生活が、「別れ」に向かっていくというシークエンスになっている。
恒夫は、旅行中もいつもと同じようにジョゼのわがままにつき合わされる。
その雰囲気は、それまでのジョゼと恒夫の雰囲気ではない。
その撮り方が実に巧みだ。
それまでのジョゼのわがままは、わがままであると同時に、そのわがままが「かわいらしい」ものとしてとられている。
「うちが作る料理がまずいわけないやろ」
「大学生やのにそんなこともわからんのか」
「キュウリはまだや」
など、わがままや口の悪い姿は、「女の子」らしさを伴っている。
だから、「身体障害者」としての「重み」はなく、「女の子」としてのわがままに映るように撮られている。
だが、旅行中のジョゼのわがままは、女の子としてのそれでななくなっている。
ジョゼを背負う恒夫は、その責任の重さに押しつぶされそうになっている。
水族館が閉鎖されていることを知ったとき、ジョゼは言い放つようにごねる。
「なんであいてないねん!」
今までの言動と同じものでありながら、その「重さ」の違いは計り知れない。
恒夫は思ったはずだ。
身体障害者と人生を共にするということは、こういうことなのか。
ラブホテルで話すジョゼの気持ちと、両親に紹介することをためらい「逃げた」恒夫との考えの差は、決定的なものとして描かれている。
この映画の見所は、この小旅行に凝縮されていると言ってもいい。
だが、この映画はそれでも身に迫ってくることはない。
なぜなら、この物語は冒頭ですでに「終わっている」からだ。
本作の問題点「語り」とはその意味だ。
冒頭で恒夫は、写真を見ながら思い出に浸る。
その写真とは、ジョゼとの最初で最後の旅行のものである。
そして、恒夫は感嘆しながらつぶやくのだ。
「ああ、すっげー懐かしい」
このことばによって、物語は全て「過去」の時間軸に位置づけられてしまう。
どれだけ印象的な物語であっても、今から語る物語は、全て、過去のもの、過ぎ去ってしまった物語なのだと表明するのだ。
ジョゼとのやりとりが、どれだけ重い意味を持っていたとしても、それは所詮「すっげー懐かしい」程度の話なのだ。
そのような思い出に過ぎない、過去に過ぎない物語に重みや、切実さなど生まれようもない。
ラスト、ジョゼと別れた後、香苗(上野樹里)と話している恒夫は、いきなり泣き崩れる。
ふつうに〈読め〉ば、泣いた理由は、ジョゼと別れてしまったことを悲しみ、後悔したことからだろう。
だが、それではあまりにジョゼがかわいそうだ。
なぜなら、どれだけ涙を流したところで、恒夫にとっては「すっげー懐かしい」話に過ぎないからだ。
単なる思い出にしかならない別れで、自分から切り出した別れによって泣く。
これほど安易で無責任な涙はないだろう。
僕は、もう少し深く〈読み〉たい。
恒夫はこの時、泣く資格さえないのだ。
自分がジョゼを背負う重みに耐えられずに逃げ出した恒夫に、別れを悲しみ資格さえないのだ。
そのことに気づき、それに対して泣いたのなら、まだジョゼは救われるだろう。
ラストの涙の解釈は別にしても、
この物語が恒夫にとって単に「すっげー懐かしい」程度の話しであれば、全ての問題が置き去りにされてしまい、そこで生きているはずのジョゼの存在が軽くなってしまう。
それまで身体障害者をきっちりと描いているからこそ、その決定的な思い出という軽さが気になってしまう。
なぜ、そんなに冒頭にこだわるのか、というと、この冒頭そのものの存在意義を疑うからだ。
決定的に過去にしてしまうような冒頭でありながら、ほとんど意味がないのだ。
つまり、なくても別に映画として支障がない程度のものなのだ。
物語時間の軸を過去にしてしまってまで、語る内容があったのか、非常に疑問だ。
過去にしたいなら、ロードムービーとしての色を濃くすべきだった。
すなわち、「別れ」に重きを置いた描き方をすべきだった。
ロードムービーにしてしまい、それ以前の出会いについては、回想の中に込めてしまえば、まだ映画として観られたはずだ。
「別れ」をクローズアップすることで、ジョゼと恒夫とのすれ違いをもっと丁寧に描けたはずだからだ。
もしそうしないのなら、冒頭の語りは必要がなかった。
「すっげー懐かしい」話としなくても、恒夫のナレーションは挿入できただろう。
そうすれば、まだジョゼを背負う重さが生まれたのではないか。
面白い映画であるからこそ、なぜそんな安易な語りを入れてしまったのか、僕には解せない。
エロティックな描写も不要だった。
あの過剰な描写によって、さらに物語が軽くなってしまっている。
光る部分はあるものの、全体的にちぐはぐさがぬぐえない印象だ。
(2005/8/25執筆)
原作:田辺聖子
監督:犬童一心
「すっげー懐かしい」程度の物語。
大学四回生の恒夫(妻夫木聡)は、九州から大阪に大学のためにやってきた、口がうまく女好きな典型的な大学生。
彼は深夜の雀荘で働いていた。
朝方、いつものように雀荘の飼い犬の散歩に出かけていると、毎日乳母車を押している老婆の、その乳母車が彼の前に転がってきた。
中には若い女性ジョゼ(池脇千鶴)がいた。
彼女は下半身が不随で、毎日そのおばあちゃんが散歩に連れて行っているという。
こうしてジョゼと恒夫との交流が始まるのだが…。
公開当時、あの池脇千鶴が脱いだ! ということで話題になっていた。
まったくストーリーも知らなかったので、結局見ずじまいに終わっていた。
朝の連続ドラマ小説がけっこう好きな僕にとっては、「ほんまもん」の池脇が主演というだけでも気になる。
今回、ずっと見る機械を逸していたが、とうとう近所のレンタルビデオ屋でようやく借りることができたので、
借りてみようと思い立ったわけである。
大学生以降なら、けっこう感情移入できるはずだ。
なかなかの良作なので、見る価値はあるだろう。
ただ、池脇ファンと、妻夫木ファンは、イメージを壊されたくないならやめといた方がいいかもしれない。
本作で二人とも役幅を広げたことは間違いないだろうけれどね。
僕は、二人とも、従来のイメージよりも好きになった。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を見ている最中は、思ったよりは出来がいいと思っていた。
しかし、見終わった直後、どこか面白くない、どこか物足りない、と思った。
なぜか。
少し時間をおいて思ったことは、「語り」に原因があるのだ、ということだった。
この映画のキャスティングは、清潔感のある好青年と、純情のイメージがついている女優であり、綺麗なイメージがある役者が主演をつとめている。
しかし、その役所は決してそれまでのイメージ通りのものではない。
むしろ、典型的な日本のダメ学生など、イメージを壊すような役を演じている。
恒夫は、好奇心旺盛で、「女」がいないと生きていけない大学生。
かわいい女の子をみると、すぐに話しかけてしまう。
ただし、単なるナンパな男ではなく、彼にも「話が面白い」といった魅力があり、女の方が彼に惚れてしまうのだ。
今の大学生を正しく、そして丁寧に人物化しているのが、恒夫なのだ。
その恒夫は、ひょんなことから下半身麻痺の少女に出会う。
好意をもっていたというよりも、単に身体障害者への好奇心からか、恒夫はジョゼと名乗るその少女に惹かれていく。
そのジョゼもまた正しく身体障害者の少女を演じている。
一緒に住んでいるおばあさんから親切にされているものの、身体障害者が近所にばれるとダメだ、という理由から隠されている。
ほとんど家から出る機会のないジョゼは、性格は内向的で、排他的である。
本を読むことくらいしか、時間をつぶす方法を知らない。
もっと言えば、同居するおばあさん以外、彼女に「他者」はいないのだ。
気は強い。しかし、孤独なのである。
そんなジョゼに、恒夫は惹かれていく。
その理由はいくらでもあるだろう。
それまでいい加減に女性とつき合っていた恒夫にとって、ジョゼは未知の女性であり、「何かを背負っている」強く、そして脆い人に惹かれるのは当然なのかもしれない。
恒夫は大学四回生になり、そして就職し、ジョゼと一緒に暮らし始める。
恒夫の実家がある九州で法事があり、そこにジョゼを連れて行こうとする。
その小旅行の模様が、作品冒頭で語られるナレーションの出来事なのである。
その意味では、前置きが肥大しているものの、この映画をロードムービーととらえることも可能だろう。
いかにしてジョゼに出会い、そして別れるのか、というのがこの映画の中心的な物語なのだ。
その小旅行は、一見うまくいっていたかのように見えるジョゼとの生活が、「別れ」に向かっていくというシークエンスになっている。
恒夫は、旅行中もいつもと同じようにジョゼのわがままにつき合わされる。
その雰囲気は、それまでのジョゼと恒夫の雰囲気ではない。
その撮り方が実に巧みだ。
それまでのジョゼのわがままは、わがままであると同時に、そのわがままが「かわいらしい」ものとしてとられている。
「うちが作る料理がまずいわけないやろ」
「大学生やのにそんなこともわからんのか」
「キュウリはまだや」
など、わがままや口の悪い姿は、「女の子」らしさを伴っている。
だから、「身体障害者」としての「重み」はなく、「女の子」としてのわがままに映るように撮られている。
だが、旅行中のジョゼのわがままは、女の子としてのそれでななくなっている。
ジョゼを背負う恒夫は、その責任の重さに押しつぶされそうになっている。
水族館が閉鎖されていることを知ったとき、ジョゼは言い放つようにごねる。
「なんであいてないねん!」
今までの言動と同じものでありながら、その「重さ」の違いは計り知れない。
恒夫は思ったはずだ。
身体障害者と人生を共にするということは、こういうことなのか。
ラブホテルで話すジョゼの気持ちと、両親に紹介することをためらい「逃げた」恒夫との考えの差は、決定的なものとして描かれている。
この映画の見所は、この小旅行に凝縮されていると言ってもいい。
だが、この映画はそれでも身に迫ってくることはない。
なぜなら、この物語は冒頭ですでに「終わっている」からだ。
本作の問題点「語り」とはその意味だ。
冒頭で恒夫は、写真を見ながら思い出に浸る。
その写真とは、ジョゼとの最初で最後の旅行のものである。
そして、恒夫は感嘆しながらつぶやくのだ。
「ああ、すっげー懐かしい」
このことばによって、物語は全て「過去」の時間軸に位置づけられてしまう。
どれだけ印象的な物語であっても、今から語る物語は、全て、過去のもの、過ぎ去ってしまった物語なのだと表明するのだ。
ジョゼとのやりとりが、どれだけ重い意味を持っていたとしても、それは所詮「すっげー懐かしい」程度の話なのだ。
そのような思い出に過ぎない、過去に過ぎない物語に重みや、切実さなど生まれようもない。
ラスト、ジョゼと別れた後、香苗(上野樹里)と話している恒夫は、いきなり泣き崩れる。
ふつうに〈読め〉ば、泣いた理由は、ジョゼと別れてしまったことを悲しみ、後悔したことからだろう。
だが、それではあまりにジョゼがかわいそうだ。
なぜなら、どれだけ涙を流したところで、恒夫にとっては「すっげー懐かしい」話に過ぎないからだ。
単なる思い出にしかならない別れで、自分から切り出した別れによって泣く。
これほど安易で無責任な涙はないだろう。
僕は、もう少し深く〈読み〉たい。
恒夫はこの時、泣く資格さえないのだ。
自分がジョゼを背負う重みに耐えられずに逃げ出した恒夫に、別れを悲しみ資格さえないのだ。
そのことに気づき、それに対して泣いたのなら、まだジョゼは救われるだろう。
ラストの涙の解釈は別にしても、
この物語が恒夫にとって単に「すっげー懐かしい」程度の話しであれば、全ての問題が置き去りにされてしまい、そこで生きているはずのジョゼの存在が軽くなってしまう。
それまで身体障害者をきっちりと描いているからこそ、その決定的な思い出という軽さが気になってしまう。
なぜ、そんなに冒頭にこだわるのか、というと、この冒頭そのものの存在意義を疑うからだ。
決定的に過去にしてしまうような冒頭でありながら、ほとんど意味がないのだ。
つまり、なくても別に映画として支障がない程度のものなのだ。
物語時間の軸を過去にしてしまってまで、語る内容があったのか、非常に疑問だ。
過去にしたいなら、ロードムービーとしての色を濃くすべきだった。
すなわち、「別れ」に重きを置いた描き方をすべきだった。
ロードムービーにしてしまい、それ以前の出会いについては、回想の中に込めてしまえば、まだ映画として観られたはずだ。
「別れ」をクローズアップすることで、ジョゼと恒夫とのすれ違いをもっと丁寧に描けたはずだからだ。
もしそうしないのなら、冒頭の語りは必要がなかった。
「すっげー懐かしい」話としなくても、恒夫のナレーションは挿入できただろう。
そうすれば、まだジョゼを背負う重さが生まれたのではないか。
面白い映画であるからこそ、なぜそんな安易な語りを入れてしまったのか、僕には解せない。
エロティックな描写も不要だった。
あの過剰な描写によって、さらに物語が軽くなってしまっている。
光る部分はあるものの、全体的にちぐはぐさがぬぐえない印象だ。
(2005/8/25執筆)
>セガールさん
たびたびありがとうございます。
どんな学生時代を過ごしてきたか、ということによってきっと評価が分かれる映画ですね。
私の周りも、どちらかというと高評価の人が多いようです。
私はまったく共感できませんでしたが。
僕的には90点 良い形でした。