独特の雰囲気がある野球場。まるで別世界。
小学校1年の時から阪神ファンで通し、野球少年だったぼくは、昨今のおかしな球界の動きのせいで、徐々に日本のプロ野球から興味がなくなってきている。
でも野球好き・スポーツ好きであることには違いないので、面白い試合、手に汗握る緊迫した試合には無条件で見入ってしまうし、新聞のスポーツ欄は毎朝じっくり読んでいる。
スポーツ好きな方はよくご存知だと思うが、野球関連の記事の中には「打撃10傑」という表があり、打率の上位10位までが掲載されている。今年のパ・リーグの打率上位10位には、つねに石井義人と宮地克彦の名がある。
浦和学院高校出身の石井選手はプロ入り9年目。素晴らしい打撃センスの持ち主として在学中から高校球界ではよく知られていて、メジャーのスカウトからも注目されていたそうだ。
宮地選手は尽誠学園高校出身で、プロ入り16年目。高校時代は四国でも屈指の投手として活躍した。プロ入りした後は伸び悩み、もともと知られていた打撃の良さを生かそうと、プロ4年目に打者に転向した。
石井義人選手
ふたりとも、有り余る素質を持ちながら、プロでは長い間芽が出なかった。石井はトレードで2003年に西武へ、宮地は西武を解雇され、テストで2004年にダイエー(現ソフトバンク)に移った。そして、ふたりともチームを移ってから出場機会が大幅に増えたのである。
宮地克彦選手
ちなみに、昨年終了時点で、石井選手は8年間でチームの行った1094試合のうち192試合(チーム試合数の18%)に出場したのみ。宮地選手は15年間でチームの行った2003試合中、わずか284試合(チーム試合数の14%)に出場したに過ぎない。
1年間に松井秀喜選手が40本以上もホームランを打ち、イチロー選手が200本近くヒットを打っていたのに比べ、昨年終了時点のふたりの1年平均の成績は、石井選手がヒット11.8本・ホームラン0.4本、宮地選手はヒット11.9本・ホームラン0.6本である。
ふたりは典型的な控え選手だったのだ。
今年のふたりは開幕から好調で、チャンスを見事にものにして、堂々とプレーしている。いまやふたりは、それぞれのチームに欠かせない存在になっている。
苦労話のひけらかしは興をそがれるが、こういう苦労人が努力の末に大きな花を咲かせるのを見るのは、嬉しくもあり、大きな励みにもなる。
ぼくがひそかに声援を送っている選手がもうひとりいる。今年がプロ入り18年目の、西武の上田浩明選手だ。彼は打撃がやや力不足ではあるが、群を抜いて守備がうまい。そのため出番のほとんどは試合終盤の守備固め、という地味な存在だ。
年齢的に、選手生活もそろそろ終わりに近づきつつある上田選手だが、昨年終了時点で762試合に出場しているけれど、実はまだホームランを一本も打っていないのだ。上田選手には、引退するまでにぜひ一本ホームランを打って貰いたいと願っている。
上田浩明選手
今日の記事は演歌っぽいタイトルだけど、それはこういう内容だからなのだ。
【追記】
2005年、石井選手と宮地選手は、ともにプロ入り後初めてレギュラーの座をつかんだ。そして両者とも初めて規定打席数に達した。
ふたりの成績は、
石井義人 125試合出場、414打数、129安打、6本塁打、38打点、打率.312(パ・リーグ4位)
宮地克彦 125試合出場、409打数、127安打、3本塁打、36打点、打率.311(パ・リーグ5位)
という堂々たるものだった。
なお上田浩明選手は2005年のシーズンを最後に現役を引退。選手生活18年(実働15年)で通算796試合に出場したが、惜しくも本塁打を記録することはできなかった。
ぼくは高校時代はドラムを叩いていました。
ドラムって、楽器を持っている人自体がほぼいませんし、当時はドラムを叩ける人も他の楽器に比べて少なかったのです。
1200人生徒がいる学校の中で、ドラムを叩けるのはぼくを含め数人だけだったと思います。
ぼくは楽器は持っていませんでしたが、先輩に習っておりましたからね。
ともかく、ドラマーの存在が希少価値だったおかげで、高校2年の文化祭では3年生のバンドに誘われました。
そのバンドが、チューリップのコピー・バンドだったんですね。
「青春の影」「サボテンの花」「ぼくが作った愛のうた」などを演奏しました。
チューリップのライブに行ったのはその年の冬だったと思います。
その当時大好きで、ヒマがあれば引っ付いていた2つ年上のまりさんと見に行ったんです。
ちょうどベーシストが宮城伸一郎に代わった頃だったでしょうか。
同じ頃のことです。
クラスのマドンナ的存在でチューリップ・ファンだったユカリちゃんが、頼んだわけでもないのに、なぜか「貸してあげる」といって学校に持ってきてくれたのが、チューリップの2枚組ベスト・アルバム、「チューリップ・ガーデン」でした。
("それ、もしかして…"、という推理はたぶん間違いだと思います。その時ユカリちゃんには彼氏がいましたからね)
なんだかんだと、高校2年の時はチューリップづいてました。
「心の旅」で大ブレイクした時に彼らの存在を知りましたが、当時は彼らを「歌謡コーラス・グループ」ぐらいにしか思ってなかったんです。なんせ歌番組(たぶん「賞」関係の歌番組)で見たときの彼らは全員楽器を持たず、歌とコーラスだけでステージに立っていましたから。
それ以降、馴染みのないままでしたが、そんなこんなでじっくりチューリップを聴いてみることになったのは、この高2の時だったんです。
当時のメンバーは、財津和夫(vocal, keyboard, guitar)、姫野達也(vocal, keyboard, guitar)、安部俊幸(guitar)、吉田彰(bass)、上田雅利(drums)の5人でした。
そしてぼくの好きなチューリップの曲はこのメンバーで制作されたものばかりなので、必然的にチューリップのメンバーもこの5人、というイメージが植え付けられているんです。
チューリップの音楽性は、ビートルズやフォーク・ミュージックに大きく影響されています。
ビートルズのフォロワーとしては「パイロット」や「バッドフィンガー」などが知られていますが、チューリップはこれらのグループとも共通する雰囲気を持っています。
しかし当時は、ロック畑の人たちからは「こんな軟弱なものはロックではない」と言われ、フォーク界からは「電気楽器主体のバンドはフォークではない」と見られていたようです。
確かにビートルズなどの強い影響を受けてはいますが、チューリップというバンドの主体はあくまで彼ら自身の音楽性です。
ビートルズをリスペクトしたうえで、彼ら自身のオリジナルな世界を形作っているんですね。
日本のポピュラー・ミュージック・シーンの中で屈指のメロディー・メーカーである財津和夫が生み出す親しみやすく、ポップなメロディはもちろん、歌詞もユーモラスなものからシリアスなものまで幅広く、いろんな面で聴き応えがあります。
といって、甘いだけのラブ・ソングだけではなく、内省的なもの、抒情的なもの、人生の光と陰に焦点を合わせたもの、と歌詞の内容も多岐にわたっています。
チューリップとユーミンの存在は、日本のロックの裾野をポップな方向に広げる原動力となったのではないでしょうか。
近年は解散と再結成を繰り返しているようですが、それぞれ元気に活動しているようです。今後も素敵な曲を作り続けて欲しいものです。
ぼくは9月14日が誕生日なんで、誰かこれプレゼントしてくれないかな~
ある人と四方山話をしている時。
彼は楽器こそ弾けないものの、
音楽、とくにジャズが大好きで、
その知識と感性にはみんな一目置いているほどです。
またパソコンや電気製品にも非常に詳しく、
ぼくもいろいろ教えてもらうことがあります。
超アナログ人間、というより、
マゴマゴして
いつも時代に取り残されそうになるぼくは、
レコードからCDに買い換えるのも、
カセット・テープからMDに買い換えるのも、
パソコンを接続するのも
ほかの人より遅かったんです。
で、話をしているうちに、
「iPod」と「MP3」のことについて
話題が移っていったんですが、
文明の進み具合を改めて聞かされたぼくは、
ただ目をシロクロさせるばかりでした。
やっと使い方になじんだCDとMDが
もう主流ではなくなってきたなんて!
レコードがすたれてきた時の
寂しさほどではないにしても、
新たに製品も買わなきゃならないし、
使い方も覚えなきゃいけないし、
これはたいへんだな~
けれども、
新しい何かに手を出していれば
頭の体操にはなるはずですよね。
「習うより慣れろ」
この言葉ほんとだなぁ、とつくづく思います。
♪ヒゲとキャップがトレード・マーク。
もう何年も前の、ある夜のこと。
ぼくのところに「助けると思って楽器貸してください。お願いします~」という電話がかかってきた。
事情を聞いてみると、どうやらツアー中のあるミュージシャンが、不測のトラブルのために自分の楽器が使えなくなって困っているという。しかも開演まで30分ほどしかないらしい。
とりあえずエレキ・ベースでいいというので、すぐに楽器を持って家を飛び出した。
現場で待っていたのは、金澤英明という名の、ヒゲじゅう顔だらけの、いや顔じゅうヒゲだらけのベーシストだった。
そのまま客席に座らせていただき、至近距離でライブを楽しませてもらった。
存在感たっぷりな金澤さんの演奏にとても感銘を受けたので、ライブ後に話をさせて頂いた。
ぼくはその頃、ある音楽的な悩みを抱えていたので、「溺れる者は藁をもつかむ」の心境で思い切ってその悩みを打ち明けてみた。金澤氏は真剣に耳を傾けて下さった。そして、的確なアドバイスと熱い励ましの言葉をかけて頂いた。
おかげで、その夜を境に、ぼくは少しふっ切れた。
ライブのあと金澤氏は、「お礼に」と、自分のリーダーCDを下さった。しかもメンバー全員のサインを自ら貰って下さった。ちなみに、近藤房之助、ケイコ・リー、東原力哉、小山英樹というのがその夜のメンバーである。(豪華!)
「Bass Perspective」というそのアルバム、歌とベース、ドラムとベース、など、ベースとのさまざまな形のデュオを収めた、とても面白いものである。
「Bass Perspective」 (1996年)
☆金澤 英明(b)
☆日野 皓正(tp)
☆向井 滋春(tb)
☆近藤 房之助(vo&g)
☆東原 力哉(drs)
☆ケイコ・リー(vo&pf)
☆中本 マリ(vo) etc・・・
氏に再会したのは、1年ほど後、あるライブハウスにおいてである。
ぼくが「あっ」というより先に、顔を崩して「おお!」と声をかけて来てくださった。その時に「今度はハンク・ジョーンズとレコーディングする予定なんだ」などと話して下さった。
そのアルバムが「Happy Talk」である。ピアノ・トリオを基調とした、しゃれた好アルバムだと思う。
「Happy Talk」 (2000年)
☆金澤 英明(b)
☆ハンク・ジョーンズ(pf)
☆力武 誠(drs)
金澤氏の弾くベースは、木のきしみまで聴こえてくるような、温かみのある、それでいて豪快なものである。それはまるで氏の人柄がにじみ出ているかのようだ。
氏のプレイはちゃんと自己主張もしている反面、しっかりとボトムを支えているので、共演者の安心感まで伝わってくるようである。
男気があり、多くの人から信頼されているという話も伝わって来ている。
金澤英明は、現在は日野皓正グループのほか、コジカナツルなど、相変わらず多方面で活躍する、日本を代表するベーシストのひとりである。
♪昨夜はありがたいことに超満員。大盛り上がりでした。お客さんの中にはガンバ大阪のメンバーも。
ひとりの青年が、
ジョージ・ガーシュインの死を悼んで曲を作り、
ある高名な指揮者に批評を求めた。
青年がその曲をピアノで演奏するのを
じっと聴いていたその指揮者は、
演奏が終わると「ホッ」とため息を漏らした。
青年は期待に胸をふくらませて指揮者の言葉を待った。
「わたしはつくづく思うのだが」と指揮者は言った。
「死んだのがきみで、作曲したのがガーシュインだったら
どんなによかっただろう」
ある男が「楽聖」モーツァルトを訪ねた。
そして交響曲の作り方を教えて欲しい、と頼んだ。
モーツァルトは、
「君は若すぎる。まず歌曲の作曲から始めてはどうかな」
と言った。
「でも」男は言った。
「あなたは10歳で交響曲を作ったじゃありませんか」
「その通り」モーツァルトは答えた。
「しかし私は曲の作り方を他人には聞きませんでしたよ」
オペラ歌手志望の若者が
メンデルスゾーンからレッスンを受けていた。
ひと通り終わると、若者は尋ねた。
「先生、ぼくの声で何かやれるようになるでしょうか」
「そうだねえ」とメンデルスゾーンは答えた。
「火事とか、船が難破したときなど、
役に立つかもしれないね」
現在の東京六大学野球、リーグ戦の応援風景
大学野球でプレーしたことのある知り合いから聞いた、
ちょっと笑えた話
数十年前の、とても人気のあった時代の東京六大学野球。
明治大学と東京大学の試合で。
弱いことで有名な東大野球部。
この試合も一方的な展開になってたらしい。
出てくる投手はすぐ打たれるし、
守備陣はエラー続出。
試合後半、平凡なゴロをまたも東大内野手がトンネル。
さすがに明治応援席も業を煮やし、
「何やってんだあ、このボンクラー!」
とキツい野次を飛ばした。
すると東大応援席にいたある男がすっくと立ち上がり、
割れ鐘のような大声でどなり返した。
「明治だけがボンクラなのではないっ!」
3万人もの観衆が詰め掛けていた神宮球場は
一瞬の間のあと、
爆笑と拍手に包まれたそうです。
こういう話、好きですね。
ぼくが子供の頃は、
寸鉄人を刺す見事な野次を飛ばすオジサン、
よく見かけたものですが、
あのオジサンたちどこ行っちゃったんだろうねぇ。
hippocampiさんからご指名を頂きました。
「堕天使キャバクラバトン」、意味深といえば意味深なタイトルですね。
<1問:現在恋人または好きな人はいますか?>
ホレっぽいんで、好きな人、いっぱいいます(笑)
いいところやカワイイところを持った素敵な女性って、たくさんいますから。
でも、のめりこむようなことはないですよ。
いわば「みんなカワイイなぁ~、」と思って見てるだけ、状態です。
<2問:今まで一目惚れをしたことがありますか?>
うーん、「ない」、かな。でも取りようで微妙だなぁ。
一目見て「美人~」とか「カワイイ~」とか思うことはありましたが、不思議とそういう相手に限って性格が悪かったり相性が合わなかったりするんで、好きになるまでには至らないのです。
たいてい、ある日「ぼくは彼女が好き!」なことに気づきます。というか、はっきり認識します。
<3問:恋人に求める条件を3つあげてください。>
一つ 自分にない物の見方ができること。
二つ 自分と価値観が近いこと。または、違っていても、一意見としてぼくの価値観を受け入れてくれること。(無理無体なことでも受け入れろ、というのではありません)
三つ 笑いのツボが近いこと。
<4問:今まで付き合った人は、好きなタイプと一致しましたか?>
相手によります。
付き合ってみて、初めて見えたところもありましたから。
<5問:自分から告白しますか?それとも待ちますか?>
決心がついたら告白する方です。決心つくまでが長かったりしますが、基本的には「当たって砕ける」タイプですね。
<6問:結婚願望はありますか?>
ないことはない。
<7問:失恋した時はどう対処しますか?>
早いとこ落ちるとこまで落ち込む。すると、あとは上がるだけですからね。
<8問:今現在の自分の恋愛を表す曲は?>
「青い影」と「レット・イット・ビー」
とくに深い理由はありません。この曲に入り込める時は、間違いなく自分の感情が高ぶっている時なんです。
<9問:次の御指名>
えーと、hippocampiさんは二人に渡しているので、ぼくも二人に渡せばいいのかな。
では映画好きのhanataroさん、旅行好きの杏さんにお願いすることにします。よろしくどうぞ。
作者の池波正太郎氏。
「鬼平」ファンです。
いつの間にか、文庫本は全部揃ってしまいました。
何度も読み返しています。
物語自体が面白いのはもちろん、
文章の歯切れが良い。
これぞ和製ハードボイルド。
反面、全編を覆っているユーモラスな雰囲気。
目に見えるような当時の人々の日常生活。
人情あふれる逸話の数々。
主人公・長谷川平蔵の性格も、
その他の登場人物もみんな魅力的です。
描写がとても映像的なのも楽しい。
剣を合わせる場面では思わず手に汗握ります。
食べ物の描写には思わず食欲をそそられる。
テレビで長谷川平蔵を演じたのは、
松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介、中村吉右衛門ら
錚々たる面々。
ぼくは最近のシリーズしか知らないけれど、
吉右衛門の平蔵をはじめ、
尾美としのりの「木村忠吾」、梶芽以子の「おまさ」
江戸家猫八の「彦十」など、
ぼくのイメージに近い配役ばかりでした。
中村吉右衛門(シリーズ四代目・長谷川平蔵)
ぼくはこれからも、
おりに触れてはこの本を読み返すでしょう。
長谷川平蔵は、実在の盗賊改方長官です。
やはりなかなかの人物だったそうですね。
ちなみにワタクシ、このお方と誕生日が同じなんです
ぼくは9月生まれです。
いくつになっても誕生日が来るのはなんとなく嬉しいですね。
でも、年を尋ねられるのはだんだん嬉しくなくなってきました。
そういうワケで(どーいうワケだ・・・)
タイトルに
「9月」
が織り込まれている曲を集めてみました。
セプテンバー・ソング (September Song)
作 詞 マックスウェル・アンダーソン
作 曲 クルト・ワイル
発 表 1938年
ジャズの好きな方にはなじみのある曲でしょうね。
1938年のミュージカル「ニッカー・ボッカー・ホリデイ」で、主演のウォルター・ヒューストンが歌ってヒットしました。1951年、映画「旅愁」でリバイバル・ヒットしました。
人生を12ヵ月に例え、人生最後の貴重な時間に愛を求める、という内容です。
【大意】5月から12月までは長いけれど、9月になると残された日々はあっという間。秋が木の葉を赤く変えてしまい、時間も失われてゆく。残された貴重な時間をあなたと過ごしたい。
9月の雨
作 詞 松本隆
作 曲 筒美京平
歌 太田裕美
発 表 1977年
ぼくは太田裕美さんが大好き。その中でもとくに好きなのが、この曲なんです。このメロディを耳にすることが多くなると、「ああ、そろそろ自分の誕生日だなあ」って思います。
でもこの曲、「好きなひとの気持ちが自分から離れてゆくことがつらい」っていう、誕生日にはふさわしくない歌なのです。
セプテンバー (Septenber)
作詞作曲 モーリス・ホワイト、アル・マッケイ & アリー・ウィリス
演奏・歌 アース・ウィンド & ファイアー
発 表 1978年
1979年のチャートでは全米8位、全英3位を記録する大ヒット・ナンバー。全米R&Bチャートでは1位になってるんですね~。
ダンス・パーティーの「ディスコ・タイム」でしょっちゅう演奏させられた記憶が・・・。いまでも時々演奏する機会がありますよ。
すみれSeptember Love
作 詞 竜真知子
作 曲 土屋昌巳
歌・演奏 一風堂
発 表 1982年
日本のミュージック・シーンでもグラム・ロックの要素が顕著になりはじめた頃のヒットだったと思います。忌野清志郎、坂本龍一、そしてこの一風堂の土屋昌巳など、メイクした男性ミュージシャンが続々現れましたね。この曲は化粧品のCMソング(CMのモデルはブルック・シールズでした)として、オリコン2位まで上昇するヒットとなりました。
土屋昌巳はのちに渡英、「ジャパン」や「デュラン・デュラン」のメンバーなどと活動しました。
SEPTEMBER
作 詞 松本隆
作 曲 林哲司
歌 竹内まりや
発 表 1979年
この当時の竹内まりやさん、ぼくが高校の頃大好きだったまり先輩にちょっと似ています。カワイかったです。
でも歌詞は、「彼氏が年上の女性を好きになってしまった。傷つきながら、自ら身を引くわ」っていう、ナマナマしいものです。
どうも「9月の歌」って、悲しい内容が目立ちますね。夏の終わりとなにか関係があるのかな・・・。
セプテンバー・イン・ザ・レイン (September In The Rain)
作 詞 アル・デュビン
作 曲 ハリー・ウォーレン
発 表 1935年
日本でも「秋の長雨」などと言いますが、まさにそんなイメージを思い起こさせるロマンティックなタイトルですね。でもいま、東京などではそれどころじゃないくらいの、とんでもない大雨になっています・・・。
1935年の映画「スターズ・オーヴァー・ブロードウェイ」の主題歌で、ジェームズ・メルトンが歌いましたが、この時は評判にはなりませんでした。1937年に映画「メロディー・フォー・トゥー」の中で再びメルトンが主題歌として歌うと、今度はヒット。
ジョージ・シアリング・クインテットのテーマ曲としても有名です。
【大意】太陽が沈んだ雨の9月。あなたが私にささやいた愛の言葉を雨だれがやさしく繰り返している。春が来たけれど、私はあの雨の9月が忘れられない。
♪仰木監督は選手の能力を最大限に引き出すことがなぜあんなにうまいのでしょうか。
学生時代のバイト先で、痔の手術で休むことになったそこの社員が、上司に
「すみません、○△サブロウ(その人の実名)ですが、痔ロウになってしまいました」と報告しているのを聞いて、昼ごはんを噴いたことがあるワタクシです皆様こんにちは。(´ω`;)
「楽器を習いたい」とか「ジャズを教えてほしい」と頼まれること、今までにも時々ありましたが、ぼくは基本的にはすべてお断りしてきました。
理由はいろいろあります。
まず、「教える」ことで相手の芽を摘んでしまう可能性もあるのだから、「人に教えるということの訓練」をきちんと受けていないぼくが無責任なことはできない、と思っていること。
自分の狭い音楽観・知識のみを押し付け、それ以外の意見を否定し、それで「教えている」つもりになっている人を何人か間近で見て、その結果教えることに抵抗感を持ってしまっていること。
ある楽器を習得させることや、ジャズの奥深さを伝えることは、自分の力量では難しいのではないか、と思っていること。
「音楽は習うものではなく、自分で盗むもの」とどこかで思っていること。
・・・などなどです。
よく「教えることは二度学ぶことである」という言葉を耳にします。
近頃、この言葉の重みを感じることが多いのです。
例えば、親しい先輩・後輩などの間柄では、気軽に質問したりされたり、ということがあるわけですが、論理的に理解していないと論理的に答えることはたいへん難しい、というのをしみじみ思うわけです。
これをムリに中途半端なまま答えようとすると、相手に「知ったかぶりをしている」と思われてしまうこともあるんですね。
教える、ということは相手に自分の価値観を「押し付ける」ことではなく、教えるということで自分も気づくことが多々あるんですね。
また、新たに知識を吸収することと並行して、自分が影響を受けた先輩たちの姿勢を受け継いでゆくことも大切じゃないかな、と思うことも多いんです。
自分にも相手にもプラスになるのであれば、もっと楽に構えていてもいいんですよね。
ただし、教えて「やっている」と思っている時は自分の成長もストップしている時だ、ということは忘れてはならないと思います。
初心に戻って学ぶために、いろんなことやいろんな人をまず受け入れることは必要です。
そのうえで、取捨選択してもよい。
そして、学べば学ぶほど自分の小ささ、言うなれば「課題」ですが、その課題の多さも改めて感じている今日この頃なのです。
大きくなりたいなあ。
中学や高校のころって、「自分にとってのアイドル」が心の中にいたはずですよね。
でも、ぼくには不思議とそういう「アイドル」がいなかった。
好きな芸能人がいなかったわけじゃなくて、気が多かったのか移り気なのか、誰かを「いいなぁ」と思っても長続きしなかったんです。
これは、好みの女性のタイプがとても幅広いことと何か関係があるのかもしれない。
「好きな芸能人ってだれ?」と尋ねられた時の、出てくる数少ない答えのひとつが、太田裕美さんです。
熱狂的、というほどではないんですが、曲も、歌声も好きなんです。
可愛らしくて、ちょっと「お姉さん」ぽい外見も好きです。
でも、「太田裕美の存在」を知ってすぐにときめいたわけじゃありません。もちろん、スターだったから好きになったわけでもありません。
歌にはなじみがありました。
大ヒットした「木綿のハンカチーフ」は、ぼくの青春時代もよくラジオから流れていましたから。
それに、自分が9月生まれということもあって、彼女の「9月の雨」という曲が大好きだったんです。
彼女の歌は、その歌詞が胸に響きます。
青春の弱さ、せつなさに打ちのめされそうになりながらも、最後は「希望」に勇気づけられる、そんな物語が秘められている気がするからなのです。
これは、青春時代ならでは、の甘酸っぱい感性なのかもしれませんね。
故郷に恋人を残して都会に出てきた若者。彼は次第に都会の生活に染まり、恋人のことを忘れてゆきます。純粋に若者を待ち続けていた恋人は、最後にひとつだけお願いをします。
♪ ~あなた 最後のわがまま 贈り物をねだるわ 涙拭く木綿のハンカチーフください 「木綿のハンカチーフ」
・・・涙を拭いて気持ちに整理をつけ、再び前を向いて歩もうとしているんでしょうね。
田舎から都会に出てきた女の子は、最初に赤いハイヒールを買って、希望に満ちた生活を夢見るけれど、きびしい現実に次第に心がすさんでゆきます。でも、純朴な彼女を愛し、そっと見守っていた「彼」は最後にこう言うのです。
♪ ~そばかすお嬢さん ぼくと帰ろう 緑の草原裸足になろうよ 曲がりくねったふたりの愛も 幸せそれでつかめるだろう 「赤いハイヒール」
なぜこんないいコが、とりたてて取り柄のあるわけでもない「ぼく」なんかを好きになってくれたんだろう・・・。ぼくと一緒にいるためによけいな苦労をさせてしまっているのに。
♪ ~陽のあたる人かげる人 人間なんてふた通り はにかみやさん 面食いなのに もてないぼくをなぜ選んだの しあわせ未満 ふたり春を探すんだね 「しあわせ未満」
・・・こんな気持ちになったこと、ありました。ぼくにはもったいないような、いいコでした。。。
愛しいあの人に会いにゆく「わたし」。けれど失恋魔術師が現れて、ふたりの恋路を邪魔しようとする。愛なんて虚ろな夢だよ、彼は来ないよ、と。
♪ ~遅れたね、ごめんごめんと 息をつき駆け寄るあなた 「お嬢さん 私の負けさ また今度迎えに来るよ」 いえいえ死ぬまで会わないわ おあいにくさま恋は続くの 「失恋魔術師」
・・・もしかすると、自分の心にひそむ脆さ弱さが「失恋魔術師」なのかもしれません。
「しあわせ未満」のアンサー・ソングとして歌詞を読むと、この曲に出てくる彼女をもっと応援したくなるのです。
好きな曲はまだほかにもあります。
近年は子供ための歌を歌うなど、積極的に活動を続けているようで、いちファンとしては嬉しいですね。
太田裕美さんの、舌足らずで透明感のある声は、心の奥にしまってある懐かしさ、せつなさ、ほろ苦さ、甘酸っぱさをかき立ててくれます。
ぼくにとっては、青春時代を思い出させてくれる人、そして自分の青春を代弁してくれる人のひとりなんです。
♪ジョルジュ・ビゼー (Georges Bizet 1838~1875)
ぼくは、いわゆる「クラシック」と言われる音楽については知識はあまりありません。
それでも好きな曲はたくさんあるし、少しだけ知っているメロディの断片が有名な曲の一節であることが解ったり、テレビ番組やCMで知っている曲が取り上げられたりすると、親近感を覚えたりするものです。
「たけしのTVタックル」という番組がありますよね。
この番組の冒頭で、シンバルが印象的に使われている軽快な曲が流れます。
ご存知の方も多いでしょうが、この曲がビゼーの「カルメン」組曲第1番・前奏曲です。小学校の音楽の時間に聴いた方も多いんじゃないでしょうか?
歌劇「カルメン」より
ジョルジュ・ビゼーは、「カルメン」「アルルの女」「真珠取り」など数多くの名曲を残した19世紀フランスの作曲家です。
ビゼーの作品の中でぼくが大好きなのは、ハープとフルートが非常に美しい「アルルの女」組曲第2番・メヌエット です。
話を「カルメン」に戻しましょう。
この物語の原作はメリメです。革新的なオペラを創ろうとしたビゼーは、「カルメン」を取り上げようとしましたが、ビゼーにオペラの新作を発注したフランスのオペラ劇場支配人ルーヴァンは大反対したそうです。
ルーヴァンの劇場では家族そろって楽しめる出し物が売り物なんですが、「カルメン」には、殺人の場面や密輸入者などの反社会的材料がたくさん登場するではないかケシカラン、というのがその理由なんですね。
そういうわけで、ビゼーは物語にかなり脚色を施し、その結果なんとか上演にこぎつけました。
マリア・カラス「カルメン」
もともとオペラというものは、ハッピー・エンドで華麗なものでした。しかし、薄汚れたタバコ工場の女工(カルメン)が現れたり、女工同士が喧嘩をおっぱじめたり、密輸入者の集団が出てきたりするこの物語に聴衆は拒否反応をおこし、幕が進むごとに客席の空気は非常に冷たいものになっていったそうです。つまり、初演は失敗に終わったんです。
しかし、チャイコフスキーはこの作品を絶賛しました。そして、上演回数を重ねるにつれ人気は上昇していった、といいます。
「カルメン」の中には、先に紹介した「前奏曲」のほか、「ハバネラ」「ジプシーの踊り」「闘牛士の歌」など、馴染みのある名曲がたくさん出てきます。とくに「ハバネラ」など、浅草オペラ全盛期には牛乳配達の小僧さんまで知っていた、と言われるほど広まっていたようです。(大ヒットしたアート・ブレイキーの『モーニン』は、蕎麦屋の出前持ちまでがそのメロディを鼻歌で歌っていた、という話が思い出されますね)
さて、名曲の背景にはさまざまなドラマがあるもので、ヘタな小説を読むより面白い話がたくさん残っていたりするんですね。
この「カルメン」にも、有名な逸話があります。それは、この歌劇と数字の『3』にまつわる不思議な話です。クラシックに詳しい方なら、おそらくご存知だと思います。
歌劇「カルメン」より
まず、初演が1875年3月3日。
ビゼーが37歳の若さで急逝したのは、初演からちょうど3ヶ月目の6月3日。この夜は、「カルメン」の33回目の公演が行われていました。
第3幕にカルメンがカード占いをする場面がありますが、その夜カルメン役を演じていたガッリ・マリーは、何度やっても実際に死の卦が出てしまうので、不吉な予感に襲われたといいます。そして、ちょうどその頃、ビゼーは生死の境をさまよっていたのだそうです・・・
カラヤン指揮ウィーン交響楽団 「カルメン」
カルメンとったら道路で運転してもええのん? アホな子やねえそれはカリメン