ある音楽人的日乗

「音楽はまさに人生そのもの」。ジャズ・バー店主、認定心理カウンセラー、ベーシスト皆木秀樹のあれこれ

リンカーン大統領

2006年04月13日 | ネタをたずねて三千里
♪第16代大統領 エイブラハム・リンカーン


 昨日「タイタニック号」の記事を書こうとして気づいたんですが、明日4月14日は、アメリカの第16代大統領エイブラハム・リンカーンが撃たれた日でもあります。(亡くなったのは翌15日)。
 大事故の話とか暗殺の話とか、どうも暗い話題が続いてしまいますが、リンカーン大統領についても不思議な話があるので、今日はそれを書いてみたいと思います。


 アメリカ大統領の暗殺事件というと、第35代大統領だったジョン・フィッツジェラルド・ケネディが思い出されます。ケネディは1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺されました。
 たいへん有名な話ですが、リンカーンとケネディの間には、不思議な偶然がいくつもあります。


      
     第35代大統領ジョン・F・ケネディ


■リンカーンが初めて下院議員に選出されたのは1846年。ケネディが初めて下院議員に選出されたのは、ちょうど100年後の1946年。副大統領になったのはリンカーンが1856年、ケネディがその100年後の1956年。


■リンカーンが大統領に当選したのは1860年。ケネディが大統領になったのは1960年で、これもリンカーンの100年後。


■どちらも暴漢によって射殺されましたが、撃たれた日はともに金曜日で、いずれも夫人が隣に座っている時の出来事でした。


■リンカーンには「ケネディ」という名の秘書が、ケネディには「リンカーン」という名の秘書がいました。そして「ケネディ」はリンカーンに『劇場へ行くな』と忠告し、「リンカーン」はケネディに『ダラスへ行くな』と忠告しています。


■リンカーンが撃たれたのは「フォード劇場」。ケネディが撃たれた時に乗っていた車は「フォード・リンカーン」。


■彼らの死後、あとを継いだのは、ともに南部出身の副大統領で、ふたりとも姓は「ジョンソン」です。リンカーンのあとを継いだアンドリュー・ジョンソンは1808年生まれ。ケネディのあとを継いだリンドン・ジョンソンは、その100年後の1908年生まれ。


■リンカーンを撃ったジョン・ブースは1839年生まれ、ケネディを撃ったリー・オズワルドはその100年後の1939年生まれ。
 リンカーンを暗殺したとされるブースは、劇場でリンカーンを撃った後倉庫へ逃亡しました。ケネディを暗殺したとされるオズワルドは倉庫からケネディを撃ち、その後映画館へ逃げ込んだとされています。ふたりとも法廷に連れ出される前に公衆の面前で射殺されています。
 そして、両事件とも「真犯人は別」という根強い説があります。


 これらの話は単なる偶然だと思います。いわゆる「シンクロニシティ」というやつなのでしょうね。ぼくも、単なる「話のネタ」くらいにしか思っていないのですが、それでもこれだけ偶然が重なると、なんだか不思議な気がします。




 リンカーンの「エイブラハム」という名は彼の祖父にちなんだものですが、その祖父もやはり殺されています。ふたりとも妻の名は「メアリー」で、息子の名は「トーマス」でした。


 事件の前、リンカーンは、「自分が暗殺されたため、通夜の席で皆が悲しんでいる」ところを夢で見たそうです。その夢を見た約10日後の1865年4月14日午後10時、観劇中のリンカーンは、俳優ジョン・ブースに撃たれ、翌15日午前7時21分に亡くなりました。


 リンカーンはケンタッキーの貧農の家に生まれ、大統領にまで昇りつめたアメリカン・ドリームの体現者です。民主主義を強く推進し、「オネスト(正直)エイブ」という愛称がつけられたくらい人望がありました。とてもユーモアに富んでいて、数多くの名言を残しています。また、たいへんな野球好きとしても知られていました。
 人柄が実に魅力的で、歴代の大統領の中でも非常に人気があり、今でもアメリカでは広く親しまれているそうです。


 今日はどうも明るくない話題でした。また楽しい話題を探さなくては。


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タイタニック号の遭難

2006年04月12日 | ネタをたずねて三千里
♪超豪華客船タイタニック号。


 いろんな曲を寄せ集めたMDを何気なく聴いていると、セリーヌ・ディオンの「My Heart Will Go On」が流れてきました。
 「『タイタニック・愛のテーマ』だったっけ。あの映画が大ヒットしたあとは、この曲を演奏する機会が増えたんだったな~」・・・。


 ぼくがDVDやビデオを買う時は、必ずレンタルショップで借りてからにしています。「この先何度も観たくなるだろう」と思えるものだけ買いたいからです。
 でも、映画「タイタニック」は、あまりの前評判の良さに(ぼくの周りでも「感動した」という人が多かったので)、前もって観ることもなく買いました。でもこれは、1回観るとすぐ友人にビデオをあげてしまったほど、自分的には大ハズレの作品だったのです。(^^;)
 「あーんな恋愛なんてありえ~ん」とか、「海難パニック映画なら『ポセイドン・アドヴェンチャー』の方が見応えあるよなー」なんて思ってたんですが、つまるところ、今思うとレオナルド・ディカプリオのハンサムぶりにシットしただけだったのかもしれないですね・・・(^^;)


      『タイタニック』(1997年)


 なんてことを思い出して、ものの本を調べてみたら・・・。
 タイタニック号が遭難したのは、なんと94年前のあさって、つまり、1912年の4月14日ではないですか。(!)
 正確には、4月14日23時40分に氷山と衝突、2時間40分後の15日午前2時20分に沈没した、とされています。
 ということで、今日はタイタニック号の沈没にまつわる話など。


 タイタニック号の正式な名称は「Royal Mail Ship Titanic」です。当時の技術の粋を集めて建造された超豪華客船で、全長268m、総トン数46328、船底から煙突先端までの高さは52.2m。もちろん当時の世界最大級の巨船で、専門家たちからは「不沈」と呼ばれていたそうです。ちなみに「タイタニック」というのは、ギリシア神話に出てくる巨人神「タイタン」にちなんだもので、船の威容を表しています。


 タイタニック号は、1912年4月10日、イギリスのサザンプトンから処女航海に出航。乗員乗客合わせて2200人余りを乗せ、ニューヨークへと向かいます。
 全航路の約3分の2を過ぎた4月14日は、流氷による危険があるという6通の警告を、船舶間の無線によって受けていましたが、さしたる重大事項だとは考えられていなかったようです。


 北大西洋のニューファウンドランド沖を航行中の4月14日23時40分、見張りの船員が水面上の高さ約20mの氷山を発見しました。氷山が水上に現れるのは全体の10%程度と言われているので、実質的には高さ約200mの巨大な氷山だったと言えるでしょう。船は、発見わずか40秒後には氷山へ衝突、翌15日午前2時20分に沈没しました。犠牲者1513名を数えるこの事故は、史上最悪の海難事故のひとつとしてあまりにも有名です。
 15日午前0時15分、タイタニック号は遭難信号CQEを発しましたが、途中から新しく制定されたばかりの救難信号SOSを発信しています。これは、史上初めてのSOS発信でもあるということです。


 さて、このタイタニックにまつわる不思議な話です。


■1892年、W・ステッド氏は、ロンドンの新聞に「海難事故対策が不十分である」という記事を載せました。その中で、「巨大定期船が北大西洋上で氷山に衝突し、多数が犠牲となる」という短編を書いており、記事を「救命ボートの不足は危険である」と締めくくっています。
 ステッド氏は20年後、自分の予言した「北大西洋を航海する巨大船」という条件にぴったり当てはまる船、不吉なタイタニック号に乗り合わせ、犠牲になりました。(タイタニック号の救命ボートは最初から絶対的に不足しており、そのため犠牲者が増えた)


■作家モーガン・ロバートソンは、1898年に、「豪華客船が米国へ向かう途中、氷山と衝突して多くの人命とともに沈没する」という小説を書いています。「処女航海途中の4月の北大西洋上」というところまで事実とそっくりでした。
 この本のタイトルは、「タイタン号の遭難」です。


■1912年3月、J・オコンナー氏はタイタニック号の乗船券を1枚予約しましたが、船が沈む夢を見て不安な気持ちを拭いきれなくなり、乗船を解約して難を逃れました。


      タイタニック号の乗船券


■1912年4月7日の「ポピュラー・メカニクス」紙にも、架空の世界最大の客船がニューファウンドランド海域で氷山に衝突して沈没する物語が掲載されています。
 タイタニック号が遭難したのは、その1週間後でした。


■C・マクドナルド機関士は、なぜか不吉な予感がしたために、昇進のチャンスのあった仕事を断りました。その仕事とは、タイタニック号での勤務だったそうです。


■イギリスのヒューズ夫人が14歳の頃、ちょうどタイタニック号が沈んだ夜に大きな船が沈む夢を見ました。うなされて目覚めた彼女は、祖母にその話をしたあとでまた眠りました。後日、彼女の叔父、つまり祖母の息子であるL・ホジキンソン4等機関士がタイタニックの事故によって亡くなったという連絡が入りました。


■カナダのC・モーガン牧師は、4月14日の午後、夜の礼拝の前に居眠りをした時に、大きな水音、人々の叫び声、古い賛美歌などを夢の中で聴いたそうです。
 夢に強い印象を受けた牧師は、その夜の礼拝の終わりに夢の話をし、夢の中で聴いた古い賛美歌を信者たちとともに歌いました。タイタニックが遭難したのはちょうどその頃のことです。
 衝突のあと、逃げ遅れた人の心を鎮めるためにオーケストラが賛美歌を演奏、沈む直前まで船に残った人々がそれに合わせて歌っている声が聞こえていたという話が残っています。


■1935年4月、イギリスからカナダに向かう貨物船で、船員のW・リーブスは当直の見張りに立ちました。海は穏やかでしたが、かつてのタイタニック号の事故がその夜と同じ4月14日に起きたことを思い出たリーブスは、恐ろしさのあまり、思わず危険信号を発してしまいました。気がつくと、周囲にはそれまでには見えなかった巨大な氷山がいくつもあり、船は全速後退で急停止して危うく難を逃れました。船はそれからの9日間、救助が来るまで流氷に閉じ込められていました。
 ちなみに4月14日はリーブスの誕生日で、その夜彼が乗っていた船の名は「タイタニアン号」だったそうです。


■今日は音楽の話がほとんどないので、むりやりひとつ。
 タイタニック号には、たったひとりだけ日本人が乗っていました。当時の鉄道院副参事・細野正文氏で、氏は無事救助されています。姓でおわかりでしょうか、細野氏は、日本ポピュラー音楽界でも屈指のベーシストである細野晴臣氏(はっぴいえんど、イエロー・マジック・オーケストラ etc)の祖父にあたる方なんですね。


      
     タイタニック号へ乗船する人々


 ぼくには、これらの話がどこまで検証されているのかは分かりません。広く伝わっている話ばかりですが、もしかすると後づけの話もあるかもしれません。
 でも、不思議な話はぼくの好きなところなので、今日はそんな話をいくつか集めてみました。


 なお、タイタニック号遭難関連の映画は、1997年のレオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット主演のもので13本にもなるということです。1本目はアメリカ映画で、タイトルは「Saved From The Titanic」。なんと遭難事故からわずか1ヶ月後に公開されているそうです。


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セミ・アコースティック・ギターとダブル・ネック・ギター

2006年04月11日 | 見る聴く感じるその他
♪わが家のギター。エピフォン。


 少しヘソが曲がっているせいか、なにかにつけて多数派に逆らう(^^;)クセがあります。
 巨人ファンが多ければ阪神をヒイキにする。 
 自○党が第一党ならば中道・やや左寄りになる。
 皆が海に行きたがる時には山へ行くし、山へ行く時には引きこもり、
 皆が右に向けば左に行きたがる、という具合です。
 話はオオゲサになりましたが・・・(;^ω^)
 われながら始末におえないな~、なんて思うことも時々。


 ギターの中に好きなタイプがあります。ずっと前からなぜか「セミ・アコースティック・ギター」というタイプが好きなんです。それもギブソンES335とか、エピフォンだとか、グレッチだとかの、あんな形のギターが好きなんです。例えばラリー・カールトンや、オアシスのギャラガー兄なんかが弾いているギターの形ですね。それ以上細かい型やメーカーにはこだわらないんですが。


  ノエル・ギャラガー(Oasis)


 つらつら考えてみるに、おそらくこれもギターのモデルの「多数派」に逆らった結果ではなかろうか、と思います。当時、大勢は「ストラトキャスター派」と「レスポール派」に二分されていたんですが、ぼくはそれに背を向けたかっこうなんですね。たぶん、ヘソ曲がりと「エエカッコしい」の両方があるんだと思います。(ギタリストでもないのに・・・
 あ、もちろん普通の理由もあります。何がきっかけかというと、やっぱりビートルズなのです。一時期、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンはセミ・アコースティック・ギターを使ってたんですが、そのシルエットがちょっと渋く、カッコよく感じられてたんです。それで、ギターもろくに弾けない頃だったのに、「ギターを買うなら、必ずセミ・アコを買おう」と決めてました。


  ジョージ・ハリスン(Beatles)


  ジョン・レノン(Beatles)


 だいたい、ジャズとかブルースの、「オトナの」音楽をやっているギタリストが使うような楽器だったせいもあるでしょうね。そういう楽器を持っていれば、ちょっとオトナっぽく見えるかな、なんてことを背伸びして思ってたんです。
 「fホール」(ギターのボディにあるf字と逆f字形の穴)があるのがまた「オトナっぽく」感じられてたんです。(なんだか子供じみたアコガレですよね) 
 だから、ロック・ギタリストがセミ・アコ・ギターを手にしている姿に憧れました。エリック・クラプトンやリッチー・ブラックモアなどのスター・ギタリストがセミ・アコを弾いている写真など見ると、よけいカッコ良く見えたものです。


  
 リッチー・ブラックモア(Deep Purple)  エリック・クラプトン 


 ほかには、ムーディー・ブルースのジャスティン・ヘイワードや、ドゥービー・ブラザーズのパット・シモンズ、ジェファーソン・エアプレインのヨーマ・コウコネン、それに、記録映画「ウッドストック」で見たアルヴィン・リー(テン・イヤーズ・アフター)らのプレイする姿が好きでした。


    
 ジャスティン・ヘイワード         アルヴィン・リー
 (Moody Blues)             (Ten Years After) 


 
 パット・シモンズ(Doobie Brothers)


 ぼくはベースを弾いているため、ギターのことは後回しにせざるを得なかったんですが、ちょっとゆとりができた時に、とうとうギターを買ったんです。半ば衝動的でした。もちろん、例えて言うなら「オモチャ代わり」の楽器なので、あんまり高いものは買わなかったんですけれど。
 たいして弾けるわけではないのですが、それでもいい「遊びともだち」になってくれています。


 ほかには「ダブル・ネック・ギター」も好きでした。文字通り、ネックが2本あるギターです。通常、1本は12弦ギターになってますね。これを手にするジョン・マクラフリン、ジミー・ペイジ、ドン・フェルダーらの姿も好きでした。
 ちょっと変わったところでは、かつてTOTOにいたデヴィッド・ハンゲイトは、ネックの1本がベースで1本がギターのダブル・ネック・ギターを使ってたりしてましたね。


  ドン・フェルダー(Eagles)


 
 ジミー・ペイジ(Led Zeppelin)


 
 ジョン・マクラフリン(Mahavishnu Orchestra) 


 音質とか音色とか使い勝手じゃないんです。ただただその楽器(セミ・アコースティック・ギターとダブル・ネック・ギター)のシルエットと、ギターを抱えた名手たちの姿に憧れてたんです。
 いわゆるロック・ギタリストではありませんが、今だと、大御所B.B.キングがギブソンのセミ・アコを抱えている姿を見ては、粋だな~なんて思っています。


  B.B.キング


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ダニー・ハサウェイ・ライヴ (Donny Hathaway Live)

2006年04月09日 | 名盤

 
 昨日キャロル・キングについて書いたから、という訳でもないですが(いや、やっぱりそのせいかな)、「きみの友だち」のもっとソウルフルなヴァージョンが聴きたくなって引っ張り出してきたのが、この「ダニー・ハサウェイ・ライヴ」です。


 ぼくは今までいろんなライヴ・アルバムを聴いてきましたが、この「ダニー・ハサウェイ・ライヴ」は、その中でもベスト5に入れていいくらいの名盤だと言い切っていいでしょう。
 おそらくライヴ・ハウスくらいの、そう大きくない会場での録音だと思いますが、その熱気はアリーナで録音されたライヴ・アルバムにひけをとるものではありません。
 なによりも、ステージと客席の一体感が素晴らしい。ダニーの歌とバンドの演奏のエネルギーに酔った聴衆の反応の熱さ、まさにトリハダものです。
 
 
 1曲目の「ホワッツ・ゴーイン・オン」であっという間にノックアウトされました。バンドが一体になって作り出す、寄せては返す波のように大きく柔らかいグルーヴがたまらないのです。力強く、それでいて優しくうねるリズムに、ただ身を任せるだけ。ダニーのヴォーカル自体もグルーヴしまくっています。
 2曲目は「ゲットー」。ダニーの弾くエレクトリック・ピアノのイントロがルバートで始まり、無伴奏のヴォーカルがインテンポで入ります。ドラムスとパーカッションが生み出すビートに絡む、フィル・アップチャーチのギターのカッティングが絶妙。その上に乗って縦横無尽に音を紡ぎ出すダニーのエレクトリック・ピアノ・ソロのカッコいいこと!このノリの良さ、ただ事じゃありません。そしてそれに続き、ドラムスとコンガのバトルから、コンガのブレイク・ソロが繰り広げられます。客席はどんどんヒート・アップ。その後の客席のコーラスとダニーのヴォーカルの掛け合いも楽しい。


     


 4曲目のイントロで客席から悲鳴にも似た歓声があがります。そう、あのキャロル・キングの名作、「きみの友だち」です。この曲におけるダニーのヴォーカルは、客席のひとりひとりに語りかけ、手を差し伸べてくれているような優しさにあふれている気がします。客席も一体となっての大コーラスはまさに感動的です。ほんと、こみ上げてくるものがあるんです。
 ブルージーな3拍子のナンバー「ウィ・アー・スティル・フレンズ」、ジョン・レノンの曲をダニー流にアレンジした「ジェラス・ガイ」などが続き、いよいよラストの曲です。イントロから繰り出されるファンキーそのもののリズムには思わず腰が動いてしまう感じ。「ヴォイス・インサイド(エヴリシング・イズ・エヴリシング)」です。アフター・ビートが実にグルーヴィー。エレクトリック・ピアノのダニー、ギターのマイク・ハワードとコーネル・デュプリー、ベースのウィリー・ウィークスのソロが、これまた超ゴキゲンなんだな~。客席も、もう大盛り上がりです。


     


 非常にソウルフルでありながら、マイルドなダニーの歌声がすんなりと耳になじみます。バックの演奏も実にファンキーで、生命力に富んでいるような気がしてなりません。各パートのバランスも素晴らしいですが、とくにベースのウィリー・ウィークスの存在の価値は特筆しておきたいと思います。
 実際にこんなライヴを体験できたら、もう「興奮」とか「感激」なんかを通り越してしまうかもしれませんね。


 ダニーの祖母はゴスペル・シンガーであり、ダニー自身も幼い頃からゴスペルを歌っていたといいます。大学時代のダニーは正規の音楽教育を受けたそうですが(ロバータ・フラックは大学でのクラスメート)、そういったインテリジェンスと、自分のルーツから来る音楽性とがダニーの中でうまく溶け合っているのでしょうね。
 非常に洗練された感じのするソウル・ミュージックを創り上げていますが、それでいて決して黒っぽさは失われていません。
 
 
 ダニーは黒人中産階級の出身でしたが、黒人の意識向上に関して問題意識を持っており、黒人下層社会に生きる同胞、つまりブラザーたちを勇気づける歌を歌い続けました。そういう姿勢が、ダニーの歌の根底に流れる優しさに繋がっているのでしょうね。
 ただし、彼自身は「黒人社会の救世主的存在」になろうとしたわけではないようです。このあたりが、レコード会社の売り出し方とのズレに繋がっていったのかもしれません。


     


 ダニー・ハサウェイは、1979年1月18日、滞在中のニューヨークのホテルの15階から身を投げ、自ら33歳の生涯を終えました。一説には鬱病が原因とも言われていますが、真相は不明です。
 現在、ダニーの遺児であるレイラ・ハサウェイとケニヤ・ハサウェイは、姉妹そろってシンガーとして活動しています。とくにレイラは「現在のソウル・ディーヴァのひとり」とも言われる活躍ぶりです。父ダニーから受け継いだDNAが見事に花開いた、と言えるでしょうね。



◆ライヴ/Donny Hathaway Live
  ■歌・演奏
    ダニー・ハサウェイ/Donny Hathaway
  ■録音
    ①~④ 1971年8月28~29日 トルバドール (ハリウッド)
    ⑤~⑧ 1971年10月27~29日 ビター・エンド (ニューヨーク)
  ■リリース
    1972年2月
  ■プロデューサー
    ①~④ アリフ・マーディン/Arif Mardin
    ⑤~⑧ ジェリー・ウェクスラー & アリフ・マーディン/Jerry Wexler & Arif Mardin
  ■録音メンバー
    ダニー・ハサウェイ/Donny Hathaway (vocals, electric-piano, piano, organ)
    フィル・アップチャーチ/Phil Upchurch (lead-guitar ①~④)
    コーネル・デュプリー/Cornell Dupree (lead-guitar ⑤~⑧)
    マイク・ハワード/Mike Howard (guitar)
    ウィリー・ウィークス/Willie Weeks (bass)
    フレッド・ホワイト/Fred White (drums)
    アール・デルーエン/Earl DeRouen (conga)
  ■収録曲
   [side-A]
    ① 愛のゆくえ/What's Goin' On (M. Gaye, A. Cleveland, R. Benson)
    ② ゲットー/The Ghetto (D. Hathaway, L. Hutson)
    ③ ヘイ・ガール/Hey Girl (E. DeRouen)
    ④ きみの友だち/You've Got A Friend (C. King)
   [side-B]
    ⑤ リトル・ゲットー・ボーイ/Little Ghetto Boy (E. DeRouen, E. Howard)
    ⑥ ウィ・アー・スティル・フレンズ/We're Still Friends (D. Hathaway, G. Watts)
    ⑦ ジェラス・ガイ/Jealous Guy (J. Lennon)
    ⑧ エヴリシング・イズ・エヴリシング/Voice Inside (Everything Is Everything) (R. Evans, P. Upchurch, R. Powell)
  ■チャート最高位
    1972年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)18位
    1972年週間R&Bアルバム・チャート アメリカ(ビルボード)4位
    1972年週間ジャズ・アルバム・チャート アメリカ(ビルボード)10位




 

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キャロル・キング (Carole King)

2006年04月08日 | ミュージシャン
♪お気に入りアーティスト46(海外篇その33)


 ロック一辺倒だった頃には分からなかったキャロル・キングの音楽の味が年々心地よく感じられる。


 10代~20代の頃は、シンガー・ソング・ライターの存在に対してはどちらかといえば地味な印象しか持てなかった。派手なギター・ソロとか強烈なビート、あるいはメンバーのスター性や演奏力などを前面に押し出してくるロック・バンドの方が華やかだったし、直情的で、なにより単純にカッコよく見えたからだ。


 ミュージシャンの個性とか、いろんな種類の音楽の味の違いなどが分かってくるようになると、「渋さ」や「濃さ」、「苦さ」、「暗さ」なども音楽には欠かせない味わいであることに気づくようになり、またそれらと「甘さ」や「親しみやすさ」をブレンドすることで、音楽というものはいっそうさまざまな表情を見せてくれる、ということをも知るようになった。そしてこういうことが感じられるようになった時が、カーペンターズとか、カーリー・サイモンとか、キャロル・キングなどの音楽の楽しさを再認識できるようになった時でもあった。


     


 いったんキャロル・キングの音楽の魅力に取り付かれると、それはもう離れ難いものになる。
 穏やかで温もりのあるソウルフルな歌声。自然なグルーヴ感。それらに加えて、自身の私的なできごとや想いをつづった歌詞が彼女の音楽をより身近に感じさせてくれる。
 シンプルだが練り込んだ感じのするアレンジ、味のあるバックの演奏もいい感じで、とても好きだ。
 そしてなにより素晴らしいのが、キャロルの作曲能力である。
 彼女の書く曲にはアメリカン・ポップスのエッセンスがぎっしりと詰まっている、といっていいと思う。
 キャロルの音楽のルーツは、やはりジャズやソウルやゴスペルなどの黒人音楽だろう。そしてそれらを極めて自然に咀嚼し、そのうえでラテンやポップスやファンクなど、さまざまな味付けをしながらも、流行に流されることなく「キャロル・キングの作風」をしっかりと保っている。もちろん「自身の個性や作風を保つ」ことはなにもキャロルに限ったことではなくて、偉大なミュージシャンは皆そうだろうと思う。


 キャロル・キングは、16歳で結婚した最初の夫君、ジェリー・ゴフィンとの共作で、1960年から63年頃にかけて20曲あまりの全米トップ40を世に送り出している。「ロコモーション」(リトル・エヴァ)、「アップ・オン・ザ・ルーフ」(ドリフターズ)、「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」(シュレルズ)などが有名だろう。
 その後、ビートルズ旋風によってビート・バンドがポピュラー音楽シーンの主流となったが、キャロルはこれに流されることなく自身の音楽を追求し続け、1970年代に入ると、あの名作「つづれおり」を発表、ジェームス・テイラーやローラ・ニーロなどと並んでシンガー・ソング・ライターの草分け的存在となる。
 1970年11月に発表したアルバム「つづれおり」は、302週(約5年10ヶ月!)にわたってチャート・イン、15週連続全米1位の大ヒットとなり、現在までに実に2300万枚のセールスを記録している。
 レッド・ツェッペリンは、名盤「4」のみ全米1位を逃しているが、それはキャロルの「つづれおり」をどうしても抜くことができなかったからだという。
 キャロルはこのアルバムの大ヒットで、1971年のグラミー賞を4部門で獲得している。


     


 キャロルが楽曲を提供したのは、ゴフィンとの共作も含め、リトル・エヴァ、ドリフターズ、ライチャス・ブラザーズ、エヴァリー・ブラザーズ、シフォンズ、シュレルズ、モンキーズ、ブラッド・スウェット&ティアーズなど多岐にわたっており、そのほかカーペンターズやジェームス・テイラー、アレサ・フランクリン、ダニー・ハサウェイ、ロバータ・フラック、ロッド・スチュワート、最近ではデビー・ギブソンなどもキャロルの曲を取り上げている。いかにキャロルの曲が幅広く受け入れられていたか、これだけでも分かろうというものだ。


 キャロルの曲を聴いているとなごむ。ホッとする感じだ。そして軽やかさが心地よい。また、バラードではしみじみと泣ける気がする。
 ぼくの好きなキャロル・キングの曲は、
 「ナチュラル・ウーマン」「ソー・ファー・アウェイ」「アップ・オン・ザ・ルーフ」「アイ・フィール・ジ・アース・ムーヴ」「小さな愛の願い」「ブラザー、ブラザー」「イッツ・トゥー・レイト」、そして「きみの友だち」などである。


 キャロルは1980年代以降はやや低迷していた(それでも発表した作品には佳曲が多いと思う)が、1990年にはロックの殿堂入りを果たしている。
 1999年には映画「ユー・ガット・メール」の主題歌「エニワン・アット・オール」がヒット。2002年には8年ぶりにアルバム(「ラヴ・メイクス・ザ・ワールド」)も発表している。
 今年の2月で64歳になったキャロルだが、これからもまだ素敵な曲を歌い続けてほしいと思う。できれば来日なんかもしてくれたりすると嬉しいのだが。


     


 そういえばキャロルって、角度によればちょっと「大竹しのぶ」っぽく見えたりするね。シンガーとして活動している娘さんたち(ルイーズ・ゴフィンとシェリー・ゴフィン)にもキャロルの面影が色濃く出ている。
 ところで、ニール・セダカの大ヒット曲の「オー・キャロル」、これはキャロル・キングのことを歌ったものだとは知らなかった。ふたりは高校時代にドゥー・ワップ・グループをやっていたことが縁で、付き合っていたことがあったんだそうである。


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桜を眺めながら

2006年04月07日 | 随想録

 体調を崩して通院している。
 精神的な疲労がかなりたまっていたことも改めて分かった。 
 そういう意味では、体が悲鳴をあげてくれたからこそ休養しなければならないということに気づき、こうしてリフレッシュすることができているのだとも言えるだろう。


 通っている医院は、県道沿いの、どこにでもあるような個人病院だが、建物の採光に気を配っているため中が明るいので、通院するのが苦にならない。
 医院のすぐ隣は、細い通路をはさんで、池を改修した小さくてきれいな公園になっている。そして、その細い通路を公園沿いに100mほど歩いて薬局まで行くのだが、その通路がちょっとした桜並木になっている。


     


 今日は日本中おおかた天気が良かったようで、こちらも暖かくて明るい陽射しに恵まれた一日だった。
 陽射しがキラキラと水面に反射しているのを桜並木の中に見ただけで、気持ちが明るくなったような気がした。
 そういえば、ここ何年かはこうしてのんきに季節の変化など眺めるゆとりもなかったような気がする。
 春に桜が咲き、秋に紅葉するのが当たり前のように思ってしまっていたのかもしれない。そういうことが当たり前のようにしか思えないところには感動は生まれはしないだろう。


 ありふれた景色の美しさに何も感じていなかった最近の自分には、やっぱり休息は必要だったんだな、なんてことをふと思った今日。
 人のほとんどいない小さな公園の何本かの桜ではあったけれど、こういう小さなことに気づかされたということは、もしかすると小さな幸せなのかもしれないな、と思った。


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美人歌手の後姿に見とれてはいけないよ

2006年04月06日 | ネタをたずねて三千里
△それはちょうどこんな感じの赤いドレスでした。。。


 ぼくは経験がありませんが、ひと昔前のバンドマンは、ストリップ・ショーの伴奏なんかもやったことがあるそうです。
 大先輩方に聞いてみると、ショーの最中に「バンド・サービス」というものがあったという。これ、どういうことかというと、ふつうは客席に向かって演技している踊り子さんが、時折りバンドさんの方を向いて「見せてくれる」ことなんだそうです。
 ぼくなんかがその場にいたら鼻血とヨダレでたいへんなことになったと思いますが・・・。


 まだまだぼくが純情だった20歳台前半の頃。
 中央町というところで、あるジャズ・シンガーの伴奏をしたことがありました。
 神戸を中心に活動していたそのシンガー、いわゆる「美人」と言っても差し支えのない方でした。小さめの顔にパッチリした目、くっきりした鼻筋、色っぽい唇。
 そして本番には、真っ赤な、背中の大きくあいたセクシーな衣装で登場。
 体のラインがはっきりわかるそのドレスを着て、テンポのある曲ではカワイらしくイロッぽくおシリを振りながら歌うもんだから、ついついぼくはその後姿に見とれてしまったんです。


 「な、なんて せくし~・・・


 演奏中にボンヤリしていて、どこを演奏しているのか一瞬見失うことは、まあ誰にでもあることなんですけれど、音を出さない部分(つまり休みの部分)のあるほかのパートとは違い、ベースはコード進行とビートを他のメンバーにわかるように常に音を出していなければならない立場なので、止まるワケにはいかないのです。それなのにぼくは美人歌手の後姿に見とれたあげく、今どこを演奏しているのかも見失ってしまった。
 ハッとわれに返り、大慌てで側にいたピアノの人に小声で
 「今どこ? 今どこ?」って聞いたんですが、そのピアニストがこれまたスットボケたお方でして、小声で
 「今、中央町。今、中央町」 



 そして、「あいつには歌い手の背中とおシリを見せるな」と、当分言われ続けるハメになったわけです。トホホ・・・


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引越し完了

2006年04月05日 | Weblog~雑記
 なんぞかんぞあってブログを引越しました。
 今までの記事を、頂いたコメントごと移してみました。
 もっと簡単なやり方があったのかもしれないけど、とりあえず他の方法が思いつかなかったので、以前の記事をコピーしてせっせと移してみました。
 作業しているうちに、「これはとんでもなくメンドーなことをしてるんではなかろうか」と半分後悔しましたが、半分勢いでなんとか引越しを完了いたしました。
 体調を崩しているせいもあって記事の更新もできずにいましたが、またボチボチといろいろなことを書いてみたいと思います。
 

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