箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

大げさな表現はやめよう

2025年03月05日 08時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ
2017年10月の衆議院議員選挙前に、「希望の党」の代表になった小池都知事が、自身の政治方針と異なる他党からの合流希望者に対して、「排除する」と発言して、反感を買い失速しました。

ほかにも、最近では「あらゆる可能性を排除しない」という発言をきいたとき、わたしは違和感を覚えます。

なぜ、「あらゆる可能性を考えるべき」と言わず、わざわざ排除というのでしょうか。

また、SNS上でよく見かけますが、涙がとめどなく流れる様子を、わざわざ「涙腺が崩壊」と表現する投稿者がいます。
学校でいえば、学級のはたらきがうまくいかなくなった状態を「学級崩壊」していると言われて久しくなります。

「大雨がふり、洪水があふれ、道路脇のがけが崩壊した」という言い方には違和感は感じません。

排除とか崩壊は、大きなインパクトをもつ言葉で、聞く人の注意力をひきつける効果をもちます。
 

でもわたしは、人を切り捨てる「排除」とか、機能が不全な状況になっていることを「崩壊」と、大げさに言葉を使うのはできるだけ避けるべきだと、常々考えています。

最近、街の公園等に置かれているベンチには、ひじ掛けのような、間仕切りのような、障害物が取り付けられていることが多くなりました。

このベンチは「排除ベンチ」と巷でささやかれています。

野宿生活者・ホームレスの人が横になって寝るのを「排除する」のが本当の意図です。

このベンチに遭遇すると、「どんな事情があろうとも横になるのを許さないぞ」という強固な意思が透けて見えてきます。



反論として、「肘かけがあったほうが、腰や膝が楽だ」という主張もありますが、幅の狭いパイプ状のものもあり、それがいったい何の役に立つというのでしょう。


公共の場にあるベンチは、高齢者や障害を持つ人、野宿生活者も、子どもたちも、誰もを包摂する(include)ベンチであるべきです。


「ホームレスが寝ていると不快だ」という一部の人たちの感情を受けて、行政や公園管理者は肘かけを取り付けるべきものではないはずです。


野宿生活者・ホームレスに対しては、「なまけている」という印象をもつ人が、世間には多いです。


しかし、野宿生活者・ホームレスの人は、日本の産業構造の変化の中で生じた社会のしくみの問題なのです。


必要なのは当事者に支援が届くようにすることであり、ベンチで寝ざるを得ない状況こそが問題視されるべきなのです。