12歳の春、母親が死んだ、
真っ白な病室は西日で明るかった、
自分は床に座り壁に背を付けて立てた膝の間に顔を突っ込んでいた、涙は出なかった、
親父が隣の家から借りて来たリヤカーに布団を敷いてお袋の亡骸を乗せて歩いて帰った、
そのシーンはどういう訳か親父とリヤカーと後ろを歩く自分の姿も有った、
自分の記憶はそういう事が多い、
自分の目に映る景色が記憶のはずなのにどういう訳か自分が居る
今、こうしてブログを書いている自分も、本を読んでいる自分も時々自分が自分で無くなってどこか離れた所から自分を見ている
それは鏡に映る自分でもなく、たしかにもう一人の自分が自分自身を嘲り、哀れみ、嘲笑している
今まで生きてきたことを否定してもどうする事も出来ない、だったら「それが結果ならすべて最良」と思って生きて来た
しかし、もう一人の自分がそんな自分を嘲り、哀れみ、嘲笑している、
後何年生きるのか、この体が続くのか、訳が分からなくなって家族に迷惑を掛けないか、
その時「結果はすべて受け入れる」事は果たして良いのか
まあ、悔やんだところでどうなる訳ではない、出来る限り家族に迷惑を掛けない様に頑張るしかない
先日、一番年嵩の孫から「来月空いてたら会おう」とLINEが来た、
掌に載せて風呂を使い、家を出るまでジジババの間で寝ていた孫も子供が二人いる、
76にもなると中々心が躍る様な出来事は無いが、女房が「本当にうれしそうだね」と言うくらいだから顔に出たんだろう
仕事が停滞しているが頑張らなきゃな